老人

もっと健康になりたい

もっと健康になりたい

小さなアパートの窓からは、通りを行き交う人々の声がかすかに聞こえるだけで、あとは静かな時間が流れていた。松田京子（70）は、いつものようにカーテンを引き、無表情で外の景色を眺める。外の世界が活気に満ちている一方で、彼女の心は空虚で、ひどく重い。長い間、うつ病に悩まされ、心も体も思うように動かなかった。

「また、今日も一日が終わってしまうのか…」京子はため息をついた。

数年前、まだ京子が働いていた頃は、周りに頼ることなく生活していた。自分で買い物に行き、友人たちと食事を楽しみ、家事をきちんとこなしていた。しかし、ある日突然、心の中に暗い霧が立ち込め、何をするにも疲れを感じ、外に出るのも億劫になった。最初は気のせいだと思っていたが、次第にその霧は深くなり、体が重く感じるようになった。次第に、自分を保つことすらできなくなり、ついには仕事を辞め、家に閉じこもるようになった。

それからは、一日がただ過ぎていくだけだった。朝が来ることが恐ろしかった。毎日のように心の中で「何もできない自分」を責め、虚しさが胸を締めつけた。食欲もなく、食べることすら面倒で、時々、無理に食事を摂ることもあったが、それすらも苦痛だった。

京子の家には、誰も訪れることがなかった。息子や娘はそれぞれ自分の生活に忙しく、久しく連絡を取ることもなかった。友人たちは気を使って電話してくれることもあったが、どうしても話す気力が湧かず、つい「元気だよ」と答えてしまうだけだった。孤独が次第に京子の心を覆っていった。

そんな日々が続く中、ある日、近所の介護ヘルパーが訪れた。名前は田中志乃（45）。彼女は、毎週一度、京子の家にやってきて、掃除や簡単な料理を手伝ってくれることになった。しかし、志乃はただのヘルパーではなかった。彼女は、京子にとっての大切な「窓口」のような存在だった。

「松田さん、今日はお元気ですか？」と、志乃がにこやかに声をかける。

「うーん…まあ、ぼちぼちだね。」京子は無理に笑顔を作って答える。

志乃はその答えに気づいていた。「無理しなくていいんですよ。少しずつでも、できることを一緒にやりましょう。」

最初、京子は志乃の言葉に心を開くことができなかった。しかし、志乃は何度も訪れ、京子と少しずつ会話をしながら、家の中を整えてくれた。ある日、志乃が京子に提案した。

「松田さん、少しだけお散歩に行きませんか？お天気もいいし、ちょっと外の空気を吸うだけでも気分が違いますよ。」

京子は一瞬、考えた。散歩なんて、とてもできないと思った。足が重く、心も動かない。しかし、志乃の目には強い意志が宿っていた。「少しだけでいいんです。無理しなくてもいいから。」その優しさに、京子は少しだけ心を動かされた。

結局、京子は志乃と一緒に散歩に出ることになった。最初の数歩は、足が震えるように感じ、息も上がりそうになった。京子は途中で歩くのを止めたくなったが、志乃が静かに励ましてくれた。

「大丈夫、ゆっくりでいいんですよ。」

少しずつ歩くうちに、京子の心は少しずつ軽くなっていった。外の空気、秋の匂い、遠くで聞こえる子どもたちの声。すべてが京子にとって新鮮で、心地よいものに感じられた。

「こんなに久しぶりに外に出たんだ。」京子はぼんやりと思った。

散歩から帰った後、京子は驚くほどに心が軽くなった。身体は疲れていたが、心は少しずつ元気を取り戻しているように感じた。志乃の言葉が心に響いていた。

「松田さん、元気を出すためには、無理に一度に大きな目標を作る必要はありません。少しずつ、自分のペースで進んでいけばいいんです。」

その言葉が、京子の中で新しい希望を生み出した。以前のように「健康になりたい」「もっと元気になりたい」といった願いが、少しずつ戻ってきた。京子はそれまで、自分の病気を言い訳にしていたが、今は自分が少しでも変わるためにできることを探し始めた。

翌週、志乃がまた来たとき、京子はこう言った。

「志乃さん、少しだけでも運動をしてみようかと思うんです。」

その言葉を聞いた志乃は、明るく笑顔を見せた。「それは素晴らしいですね！一緒にできることがあれば、いつでも言ってくださいね。」

それからの京子は、無理のない範囲で少しずつ歩くことを続け、心の中に「健康になりたい」という希望が芽生えていった。毎日の小さな努力が、やがて大きな変化を生むことを京子は少しずつ実感するようになった。