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「眠りの庭」
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「眠りの庭」
古びた団地の一室に、一人の老人が住んでいた。名を三浦一郎という。彼は今年で78歳になる。毎日、時計の針が変わらぬ速さで時を刻む中、三浦の生活もいつしか機械のように単調なものになっていた。朝、目を覚ますのはいつも暗い4時か5時で、陽が登るまで部屋の隅に置いた古いテレビを眺めるだけの日々。テレビの音もほとんど聞き取れないため、ほとんどただの映像だ。
最近、三浦は奇妙な疲労感に襲われていた。夜しっかりと眠ったはずなのに、朝起きると身体が重く、昼を迎えるころには再びまぶたが下がってくる。昼食のあとには、知らぬ間にうたた寝をしてしまう。寝ても寝ても眠い。眠りに吸い寄せられるような感覚は、何かに取り込まれていくような、心地よさと不安が入り混じったものだった。
ある日のこと、昼下がりに突然電話が鳴った。見ると、娘の美沙からだ。数ヶ月前に連絡したきりだが、話すことも特にないと考えた三浦はしばらく画面を見つめたまま、出ようか迷った。しかし、何かの拍子に通話ボタンを押してしまい、電話に出た。気まずい沈黙の後、向こうの声がやっと聞こえてきた。
「お父さん、最近どうしてる?」
「ああ、まあ、ぼちぼちだ」
「そっか…無理してない?前、眠れないとか言ってたけど」
「ああ…まあ、眠れなくはないんだが、どうにも眠いんだよ、いつも」
三浦の言葉に美沙は一瞬沈黙したが、しばらくして、「お医者さんに診てもらったほうがいいかもね」と返してきた。しかし、三浦は医者に行く気にはなれなかった。長い沈黙の末、美沙は電話を切った。彼女の優しい言葉に感謝しながらも、どうしてか三浦はひどく疲れを感じ、電話を切るとそのまま眠りに落ちてしまった。
夢の中で、三浦は不思議な庭にいた。辺りは薄暗く、どこか幻想的な光に包まれていた。庭の中にはあちらこちらに古びたベンチや枯れかけた花壇が点在し、枯れ草が地面を覆っている。三浦はその庭を歩き回りながら、なんだか懐かしい気持ちに襲われた。どこかで見たことがあるような、そんな場所だ。遠くで微かに、かつて知っていた人たちの声が聞こえたような気もした。母の声、若い頃の友人たちの笑い声、そして亡き妻の声も混じっているように感じた。
「おい、お前、誰か探してるのかい?」
振り返ると、同年代の老人が立っていた。無精ひげを生やし、くしゃくしゃの帽子をかぶったその男は、どこか気安い表情で三浦を見つめていた。
「ああ、なんとなく歩いているだけだよ」と三浦が答えると、男はにやりと笑った。
「ここに来ると、みんなそうだよ。俺もね、最初はただ疲れて、何も考えずに歩いてた。でもそのうち、いろんなものが見えてくるんだ。懐かしい景色や、もう会えない人たちの姿がな」
三浦は驚いた。どうしてこの男が自分の心の中を見透かしているのか不思議に思ったが、同時にどこか気持ちが楽になっていくのを感じた。
「俺も、あんたも、どこか似ているんだろうな。眠りに引き寄せられてきた者同士かもな」男はそう言い残すと、ゆっくりと去っていった。
三浦がふと目を覚ますと、外はもう暗くなっていた。いつの間にか夕方になってしまっていたらしい。「また寝ちまったか」とつぶやき、彼は小さなため息をついた。だが、夢の中の庭とあの男の顔が脳裏に焼き付いて離れない。
それから数日間、三浦は同じ夢を見るようになった。毎晩同じ庭に行き、あの老人に会う。次第に彼との会話は長くなり、他愛もない話から、三浦の若い頃の記憶や人生について語り合うようになった。
ある晩、夢の中で三浦は男に尋ねた。「お前はここで何をしているんだ?」
男は少しの間沈黙していたが、やがてぽつりと答えた。「俺は…もうここで眠るしかないんだよ」
その言葉を聞いたとき、三浦は背筋に寒気が走った。次第に庭が薄暗くなり、周囲の景色がぼやけていく。夢がまるで現実のように生々しく、夢の中の彼自身も何かに引き寄せられているかのようだった。
翌朝、三浦は久しぶりに目覚めが悪かった。だが奇妙なことに、何か心がすっきりとした感覚もあった。それは、重い布団をはねのけて起き上がるような感覚ではなく、ただ静かで穏やかな安堵だった。夢の中の男との対話は、どこかで彼に生きるための力を与えてくれていたのだろうか、と考えた。
三浦はその日、久しぶりに外の公園に出てみることにした。小さな散歩だったが、見慣れた木々の緑や人々の笑い声が、妙に新鮮に感じられた。そして気がついた時には、夕方の光が美しく公園の木々を照らしていた。まるで、あの夢の庭のようだと三浦は思った。
その夜、三浦は不思議とぐっすり眠ることができた。そして夢の中の庭には、もうあの老人はいなかった。それ以来、あの夢を見ることはなかったが、三浦はどこかで感じていた。眠りに誘われる日々の中でも、時折訪れる目覚めの瞬間が、確かな生の証であるということを。
古びた団地の一室に、一人の老人が住んでいた。名を三浦一郎という。彼は今年で78歳になる。毎日、時計の針が変わらぬ速さで時を刻む中、三浦の生活もいつしか機械のように単調なものになっていた。朝、目を覚ますのはいつも暗い4時か5時で、陽が登るまで部屋の隅に置いた古いテレビを眺めるだけの日々。テレビの音もほとんど聞き取れないため、ほとんどただの映像だ。
最近、三浦は奇妙な疲労感に襲われていた。夜しっかりと眠ったはずなのに、朝起きると身体が重く、昼を迎えるころには再びまぶたが下がってくる。昼食のあとには、知らぬ間にうたた寝をしてしまう。寝ても寝ても眠い。眠りに吸い寄せられるような感覚は、何かに取り込まれていくような、心地よさと不安が入り混じったものだった。
ある日のこと、昼下がりに突然電話が鳴った。見ると、娘の美沙からだ。数ヶ月前に連絡したきりだが、話すことも特にないと考えた三浦はしばらく画面を見つめたまま、出ようか迷った。しかし、何かの拍子に通話ボタンを押してしまい、電話に出た。気まずい沈黙の後、向こうの声がやっと聞こえてきた。
「お父さん、最近どうしてる?」
「ああ、まあ、ぼちぼちだ」
「そっか…無理してない?前、眠れないとか言ってたけど」
「ああ…まあ、眠れなくはないんだが、どうにも眠いんだよ、いつも」
三浦の言葉に美沙は一瞬沈黙したが、しばらくして、「お医者さんに診てもらったほうがいいかもね」と返してきた。しかし、三浦は医者に行く気にはなれなかった。長い沈黙の末、美沙は電話を切った。彼女の優しい言葉に感謝しながらも、どうしてか三浦はひどく疲れを感じ、電話を切るとそのまま眠りに落ちてしまった。
夢の中で、三浦は不思議な庭にいた。辺りは薄暗く、どこか幻想的な光に包まれていた。庭の中にはあちらこちらに古びたベンチや枯れかけた花壇が点在し、枯れ草が地面を覆っている。三浦はその庭を歩き回りながら、なんだか懐かしい気持ちに襲われた。どこかで見たことがあるような、そんな場所だ。遠くで微かに、かつて知っていた人たちの声が聞こえたような気もした。母の声、若い頃の友人たちの笑い声、そして亡き妻の声も混じっているように感じた。
「おい、お前、誰か探してるのかい?」
振り返ると、同年代の老人が立っていた。無精ひげを生やし、くしゃくしゃの帽子をかぶったその男は、どこか気安い表情で三浦を見つめていた。
「ああ、なんとなく歩いているだけだよ」と三浦が答えると、男はにやりと笑った。
「ここに来ると、みんなそうだよ。俺もね、最初はただ疲れて、何も考えずに歩いてた。でもそのうち、いろんなものが見えてくるんだ。懐かしい景色や、もう会えない人たちの姿がな」
三浦は驚いた。どうしてこの男が自分の心の中を見透かしているのか不思議に思ったが、同時にどこか気持ちが楽になっていくのを感じた。
「俺も、あんたも、どこか似ているんだろうな。眠りに引き寄せられてきた者同士かもな」男はそう言い残すと、ゆっくりと去っていった。
三浦がふと目を覚ますと、外はもう暗くなっていた。いつの間にか夕方になってしまっていたらしい。「また寝ちまったか」とつぶやき、彼は小さなため息をついた。だが、夢の中の庭とあの男の顔が脳裏に焼き付いて離れない。
それから数日間、三浦は同じ夢を見るようになった。毎晩同じ庭に行き、あの老人に会う。次第に彼との会話は長くなり、他愛もない話から、三浦の若い頃の記憶や人生について語り合うようになった。
ある晩、夢の中で三浦は男に尋ねた。「お前はここで何をしているんだ?」
男は少しの間沈黙していたが、やがてぽつりと答えた。「俺は…もうここで眠るしかないんだよ」
その言葉を聞いたとき、三浦は背筋に寒気が走った。次第に庭が薄暗くなり、周囲の景色がぼやけていく。夢がまるで現実のように生々しく、夢の中の彼自身も何かに引き寄せられているかのようだった。
翌朝、三浦は久しぶりに目覚めが悪かった。だが奇妙なことに、何か心がすっきりとした感覚もあった。それは、重い布団をはねのけて起き上がるような感覚ではなく、ただ静かで穏やかな安堵だった。夢の中の男との対話は、どこかで彼に生きるための力を与えてくれていたのだろうか、と考えた。
三浦はその日、久しぶりに外の公園に出てみることにした。小さな散歩だったが、見慣れた木々の緑や人々の笑い声が、妙に新鮮に感じられた。そして気がついた時には、夕方の光が美しく公園の木々を照らしていた。まるで、あの夢の庭のようだと三浦は思った。
その夜、三浦は不思議とぐっすり眠ることができた。そして夢の中の庭には、もうあの老人はいなかった。それ以来、あの夢を見ることはなかったが、三浦はどこかで感じていた。眠りに誘われる日々の中でも、時折訪れる目覚めの瞬間が、確かな生の証であるということを。
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