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花をいける心

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花をいける心

秋の日差しが穏やかに差し込む午後、70歳の佐藤正一は、独り静かな部屋でぼんやりと窓の外を眺めていた。妻を数年前に亡くしてから、彼の日常は単調で、どこか空虚なものとなっていた。しかし最近、彼はふと「お花やお茶を学びたい」と思うようになった。妻が生前に続けていた華道や茶道が、いまになってどこか懐かしく、温かなものに感じられたからだ。

とはいえ、歳をとってからの新しい挑戦に不安もある。そんな中で彼が興味を持ったのは、華道の中でも「後ろいけ」と呼ばれる技法だった。これは、観客に向かっていけるためのもので、難しい構成よりも、すっきりとしたシンプルな美しさを追求する技法らしい。「これなら、初心者の自分にも取り組めるかもしれない」と思ったのだ。

決意を固めた佐藤は、近所の公民館で開かれている華道教室に電話をかけ、見学を申し込んだ。数日後、少し緊張しながらその教室を訪れた彼を迎えてくれたのは、華道の先生である藤原先生だった。藤原先生は70代後半の穏やかな女性で、初対面の佐藤に微笑みかけた。

「いけばなにご興味を持ってくださって、とても嬉しいです。後ろいけ、やってみたいんですね?」

佐藤は頷きながらも少し照れくさそうに、「妻がやっていたんですが、私には少し縁遠いものと思っていました。でも、シンプルにいけるというのがいいなと思いまして」と答えた。藤原先生は彼の言葉を温かく受け止め、「素敵ですね、シンプルでも奥が深いものなんですよ。ぜひ一緒に楽しんでみましょう」と言ってくれた。

教室に案内され、佐藤は他の生徒たちと共に、藤原先生が準備した枝や花を手に取った。先生の指導のもと、まずは枝を一本、観客に向けてすっきりとした形でいける練習を始めた。自然な姿を生かしつつ、どの角度が最も美しく見えるのかを考えながら、佐藤は真剣に枝を配置していった。

「この枝の向きが大切ですよ。観客に向けて、無駄がないように、でも温かみを感じられるように」

藤原先生の言葉を聞きながら、佐藤は何度も枝を微調整した。すると、どうだろうか。まるで枝が生きているかのように、穏やかで清々しい佇まいが浮かび上がってきた。心がふっと軽くなる感覚が佐藤の中に広がり、「これがいけばなの魅力なのか」と驚きを感じた。

その日の教室が終わり、佐藤は藤原先生に感謝の言葉を述べた。「先生、今日は本当にありがとうございました。こんなに心が落ち着くとは思っていませんでした」

「私も、あなたの花を見て心が温かくなりましたよ。いけばなは技術以上に、心の在り方が大事です。いける人の気持ちが自然と伝わってくるものなんですよ」

その言葉に、佐藤はまたひとつ深くうなずいた。そして帰り道、自分が無意識に心を込めて花をいけていたことに気づき、静かな喜びが湧き上がってきた。

翌週からも佐藤は熱心に教室へ通い、いけばなの練習を続けた。藤原先生の指導のもと、少しずつ後ろいけの技法を学び、観客に向かって美しく見せるシンプルな構成に磨きをかけていった。練習を重ねるうちに、次第にいけばなの奥深さに魅了され、毎日が少しずつ輝きを取り戻していった。

数か月後、教室の発表会が開かれることとなり、佐藤も参加を勧められた。これまでに練習してきた後ろいけの技法を披露する場だったが、観客の前でいけるのは初めてで、緊張が高まる。しかし、藤原先生の「あなたらしい花をいけてみてください」の言葉に背中を押され、佐藤は心を込めて一輪の菊をいけることにした。

発表会の当日、佐藤はゆっくりと深呼吸し、静かに花をいけていった。観客に向けた枝の美しいラインが整うと、会場に静かな感嘆の声が響いた。シンプルな構成がかえって花の力強さを引き立て、会場全体に温かい雰囲気が広がった。

発表が終わったあと、観客の一人が佐藤に声をかけてきた。「素晴らしいお花でした。まるで、あなたの心そのものが現れているようでしたよ」

その言葉に、佐藤はじわりと目頭が熱くなるのを感じた。長い間、独りで過ごしてきた彼の中で、何かが少しずつ変わり始めていたのだ。自分の中にまだこんな温かな気持ちが残っていたことに気づかされ、心の中にまた新しい光が差し込んでいく。

その日以来、佐藤は花とともに生きることにした。いけばなの技法を学ぶたびに、亡き妻への感謝や、人生の喜びが新たに蘇ってくる。彼にとって花をいける時間は、心を穏やかにし、孤独を癒す時間になっていた。そして、これからも毎年、文化の日には心を込めて花をいけることを楽しみにしていた。
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