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春秋花壇

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幸せの湯船

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「幸せの湯船」

70歳の山田春男は、静かな午後、いつものように小さなアパートの湯船にゆっくりと浸かっていた。窓の外には秋の冷たい風が吹き、時折葉がカラカラと音を立てて舞い上がる。それを眺めながら、彼はため息一つつき、湯の温かさに全身を委ねた。

「お金はないけど、幸せだなあ…」

ぽつりとつぶやくと、胸の中にじんわりと温かいものが広がった。春男は独り暮らしだ。妻を10年前に亡くし、子どももいない。年金生活に入り、贅沢をする余裕などとうに失った。だが、心に空いた穴はこの湯船に浸かることで少しずつ埋められていく気がしていた。

湯船は、彼にとって小さな贅沢だった。シャワーで済ませればもっと節約になるが、この湯の中に沈むと、何かが彼の中で癒される。毎日のささやかなルーティン――それが春男の「豊かさ」だった。

「こうして、ゆっくり浸かっていられるだけで、十分だよな」

彼は思い返す。若い頃は大きな会社で働き、忙しさに追われる日々だった。退職金も、それなりにあったが、病気や老朽化した家の修繕費、医療費でどんどん減っていった。今では、毎月の年金でぎりぎりの生活をしている。外食や旅行などは夢のまた夢。そんな生活に不満を抱くことも、かつてはあった。

だが、春男は気づいたのだ。幸せは、豪華なものや贅沢にあるのではなく、こうした小さな瞬間にこそ隠れているのだということに。

湯船の中で目を閉じると、ふと懐かしい記憶がよみがえる。若い頃、妻と二人で温泉旅行に行ったときのことだ。豪華な旅館ではなかったが、二人でお酒を飲み、笑い合った時間が何よりも楽しかった。あのときも、幸せはそこにあった。そう、今と同じように。

「美代子も、きっとこれで満足してくれるだろう」

亡くなった妻の名前を口にすると、心が少し締めつけられたが、それと同時に温かな思い出が胸に広がった。美代子は、いつもささやかな幸せを大切にしていた。特に贅沢を求めることもなく、二人で穏やかに暮らすことを喜んでいた。

春男はそっと湯から上がり、体をタオルで拭きながら、鏡に映る自分を見つめた。白髪が増え、顔には深いしわが刻まれている。だが、そのしわは、彼の人生の証でもあった。長い年月を生き、愛し、失い、そして今、独りで生きる。

「お金がなくても、こうして毎日を過ごせる。それだけで十分だ」

そう思いながら、春男は湯冷めしないようにパジャマを着込み、少しだけ奮発して買ったお茶を入れた。いつもは水道水をそのまま飲むが、今日は特別だ。温かい湯に浸かった後は、ちょっとした贅沢を自分に許してもいい。

「ふぅ…」

一口飲むと、心がほっとする。お金はなくても、この瞬間の幸せは何者にも代えがたい。

外の風はますます冷たくなってきたが、春男の心は暖かかった。湯船に浸かることができる日々、そしてそのささやかな喜び。それが、彼の老後を支える「幸せ」だった。

「明日も、また湯船に浸かろう」

そうつぶやきながら、春男は静かにテレビをつけ、穏やかな夜を過ごし始めた。









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