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春秋花壇

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運転免許証返上

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「運転免許証返上」

田中信二(たなか しんじ)は、自分の手の中にある薄いカードをじっと見つめていた。運転免許証。そのカードには、若い頃の自分の写真が映っている。少し緊張した面持ちの自分が、警察署で撮影された時のものだ。あの頃、車を運転するということは自由を手に入れる象徴だった。しかし、今やその象徴は重荷に変わりつつあった。

信二は70歳を超え、体力や反射神経が明らかに衰えていることを感じていた。息子や娘からも、「そろそろ免許を返納してもいいんじゃないか」と言われるようになっていた。実際、近所でも高齢者による交通事故のニュースが後を絶たない。特に、認知症の疑いがある高齢者が事故を起こしたという報道を見るたびに、自分もいつか同じ過ちを犯すのではないかという不安が募っていた。

しかし、免許証を返上することは信二にとって簡単な決断ではなかった。田舎暮らしをしている彼にとって、車は生活の一部だった。最寄りのスーパーまでは車で30分。公共交通機関はほとんどなく、バスも一日数本しか運行していない。免許を返上すれば、自由に買い物に行けなくなるどころか、病院へ通うのも一苦労になるだろう。何よりも、自分の自由を奪われるような感覚が、彼を迷わせていた。

「まだ運転できるさ。事故なんて起こすわけがない」と自分に言い聞かせることもあった。しかし、毎朝運転するたびに、信二は少しずつ自信を失っていった。交差点での判断が遅れたり、駐車場での切り返しに手間取ることが増えたりと、小さなミスが目立ち始めていた。

ある日、決定的な出来事が起こった。信二は日曜日の午後、いつものように近くのスーパーに買い物に行くため、車に乗り込んだ。駐車場に着いたとき、彼は駐車スペースに車を停めようとしたが、ハンドルを切るタイミングが遅れてしまい、隣の車に軽く接触してしまった。大きな事故ではなかったが、相手の車にははっきりとした傷がついていた。

すぐに相手の車の持ち主に謝罪し、保険で修理費を賄うことにしたが、その瞬間、信二は自分の限界を悟った。「もしこれが人だったら…」という恐怖が胸に広がり、冷や汗が止まらなかった。

帰宅した信二は、その夜、家族と話し合うことを決めた。息子の健太(けんた)と娘の美咲(みさき)が家に来た時、信二は重い口を開いた。

「俺な…免許証、返そうと思うんだ。」

その言葉に、健太と美咲は驚きながらも、どこかほっとした表情を浮かべた。

「父さん、正直言ってくれてありがとう。俺たちも心配してたんだ。でも、免許を返したら、どうやって生活していくのか、ちゃんと考えないとね。」

美咲も静かに頷きながら、「私たちができる限りサポートするよ。買い物や病院の送り迎え、交代で手伝うから心配しないで」と言ってくれた。

家族との話し合いの末、信二はようやく免許返上を決意した。翌日、彼は地元の警察署に足を運び、長年共にしてきた免許証を返納した。警察署の職員に「お疲れさまでした」と言われ、信二は少し胸が熱くなった。

その帰り道、彼は少し不安を感じながらも、どこか解放された気持ちで歩いていた。自分の安全だけでなく、他人の安全も守るために下した決断は、間違っていなかったと感じていた。

免許証を返上してからの生活は、やはり少し不便だった。買い物に行くたびに子どもたちの助けを借りることに、最初は抵抗があった。しかし、次第にその助けを素直に受け入れるようになり、彼自身も新しい生活に慣れていった。近所の友人たちと一緒に歩く習慣もでき、歩くことで新たな発見や楽しみを見つけることが増えた。

ある日、信二は近くの公園で、子どもたちが元気に遊んでいる姿を眺めていた。ふと、あの軽い接触事故を思い出し、「あの時、正しい決断をしたんだ」と自分に言い聞かせた。彼はこれからも家族や地域の支えを受けながら、新しい形の自由を見つけていくのだろう。

運転免許証を返上するという決断は、確かに信二にとって大きなものだった。しかし、それは終わりではなく、新しい生活への一歩だった。車という自由を失っても、信二は決して自分を縛られたとは感じていなかった。むしろ、歩くことで得られる自由と、家族との絆の深まりを大切に感じていた。






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