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春秋花壇

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暴走老人

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暴走老人

午前10時の陽光が、静かな郊外の住宅街を照らしていた。古びた家々が並ぶ通りの一角に、一台の軽自動車が止まっていた。その運転席には、八十歳を過ぎた老人、石田昭二が座っていた。彼の手はハンドルを握り締め、目は前方の道路を鋭く見据えている。

「昭二さん、また外に出るつもりですか?」隣の家の住人である佐藤真理子が、不安そうに声をかけた。

昭二は答えず、エンジンを掛けた。車が低い唸り声を上げると、真理子はすぐに察した。彼がまた「暴走」するつもりだということを。

「待ってください!危険ですから!」

だが、昭二はアクセルを踏み込み、軽自動車は音もなく前進した。真理子は呆然とその光景を見つめ、ため息をついた。彼がこうやって出かけるのは、これで三度目だった。

昭二は、かつては立派な会社員だった。勤勉で家族思い、地域のために尽くす模範的な市民として知られていた。しかし、数年前に妻の絹代が亡くなり、それ以来彼は急速に変わっていった。日々の生活に張りがなくなり、認知症の兆候が見え始めた。息子や娘は何度も説得したが、昭二は彼らの言葉に耳を貸そうとしなかった。車の運転免許を返納するどころか、ますます車を手放さなくなったのだ。

「運転をやめたら、俺はもう終わりだ」と言って、彼は執拗に車にこだわり続けた。

そして、今日もまた昭二はハンドルを握り、見知らぬ街へと出発していった。彼にとって、車を運転することは最後の自由の象徴だった。だが、彼の運転は危険だった。アクセルとブレーキを間違えることがしばしばあり、信号無視や一時停止を無視することも増えた。地域の人々は、彼がいつ事故を起こしてもおかしくないと恐れていた。

昭二は車を走らせる中、ふと若い頃のことを思い出していた。仕事帰りに家族でドライブに行ったり、休日には妻と二人で温泉地へ向かったりした日々。それは彼にとって、人生の輝かしい瞬間だった。だが今、その全てが遠い過去となり、彼の周りにはもう誰もいない。

「ああ、絹代…お前がいればなぁ…」昭二は、そう呟いた。

不意に、前方の信号が赤に変わったが、昭二は気づかずにそのまま突っ込んでいった。クラクションが鳴り響き、歩行者たちが驚いて道を急いで渡る。だが昭二にはそれすらも届かず、彼の車は無情に進み続けた。

しばらくして、昭二は山間の道に出た。木々の緑が視界を埋め尽くし、空気が清々しい。彼は深呼吸をし、少しだけ落ち着きを取り戻した。しかし、突然の坂道に差し掛かると、車の挙動が不安定になった。ブレーキを踏むはずの足が躊躇い、逆にアクセルを踏んでしまう。

車は速度を増し、制御が効かなくなっていく。昭二の目の前で風景が激しく流れていくが、反応が遅れた。必死にブレーキを踏むも、車は道端のガードレールに激しくぶつかり、そのまま停車した。

――ガシャーン!

一瞬の静寂が訪れ、昭二はシートベルトに縛られたまま動かなくなった。車の中には、破片が散らばり、フロントガラスはひび割れていた。だが幸いなことに、昭二に大きな怪我はなかった。

「…俺は、まだ生きてるのか?」

彼は車から降りようとしたが、体が重く動かなかった。その時、遠くから誰かの声が聞こえてきた。

「大丈夫ですか?救急車を呼びます!」

地元の人々が集まり、救急隊が到着するまでの間、昭二はただ静かに空を見上げていた。彼の目には、いつの間にか涙が浮かんでいた。

「もう、これでいいのかもしれないな…」

病院に搬送される途中、昭二は薄れゆく意識の中で、再び若い頃の家族との時間を思い出していた。そして、その一瞬の幸せな記憶が彼の心を満たし、次第に深い眠りに落ちていった。

事故から数日後、昭二は免許を自主返納した。それは、彼にとって最後の抵抗であり、また新しい日々への一歩だった。家族や地域の人々が見守る中、彼は車を手放し、静かに老後を迎えることになった。

だが、暴走老人としての彼の姿は、町の人々の記憶にしっかりと刻まれ、そして彼自身もまた、その日々を忘れることはなかった。






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