老人

掃除の日

「掃除の日」

訪問介護の日は、いつもどこか慌ただしい。それでも、日々の暮らしを支えるために、訪問介護サービスは欠かせない存在だ。玲子は今朝も、いつものように訪問ヘルパーが来る時間に合わせて準備をしていた。彼女の仕事は、風呂場とトイレの掃除。ヘルパーさんは、台所を中心に家全体の掃除を手伝ってくれることになっている。

玲子はヘルパーが来ると、まず軽く挨拶を交わし、それぞれの持ち場に分かれるのが常だ。彼女は風呂場でタイルを磨きながら、先週のことを思い出していた。台所のガスコンロ、特に魚を焼くところが掃除されていなかったことに気づいたのだ。油汚れが残っており、玲子はその時「次回はちゃんと掃除してくれるだろう」と黙って見過ごした。しかし、今週もその部分が綺麗になっていないことを知った彼女の心は、どうすべきか迷い始めた。

「言うべきか、黙っておくべきか…」

玲子は、自分が台所を担当しているわけではないため、言うことに少しためらいを感じていた。訪問介護のヘルパーさんは一生懸命仕事をしてくれているのは分かっているし、彼女たちの仕事がどれほど忙しく大変かも想像がつく。玲子自身も介護の仕事を少しだけ経験したことがあり、その大変さを身をもって知っていた。

「でも、魚焼きグリルの汚れは見過ごせない…」

玲子は悩みながら、風呂場の掃除を続けた。タイルにこびりついたカビをゴシゴシと擦りながら、どうすれば良いのかを考える。彼女の頭の中では、「ガス代は彼女の担当なのだから、言うべきではない」という声と、「でもこのままでは汚れが蓄積してしまう」という二つの考えがせめぎ合っていた。

その日、全ての掃除が終わり、ヘルパーさんが帰る準備をしているとき、玲子は意を決して声をかけた。

「ちょっとお話があるんですが…」

ヘルパーさんは、少し驚いた様子で振り返った。

「なんでしょうか？」

玲子は少し緊張しながらも、できるだけ穏やかに言った。

「台所のガスコンロ、特に魚を焼くグリルの部分が、先週も今週も掃除されていないようなんです。私が言うのもなんですが、もし時間があれば、そこもお願いできますか？」

ヘルパーさんは一瞬考えるような表情を見せたが、すぐに笑顔で答えた。

「ああ、それは気づかなくて申し訳ありませんでした。次回から気をつけますね。」

玲子はその言葉にホッとしながらも、どこか申し訳ない気持ちが残った。ヘルパーさんは本当に忙しいのだろうし、彼女に負担をかけることを考えると、言わない方が良かったのかもしれないと、一瞬だけ思った。

それでも、次の週、ガスコンロのグリルは見違えるほど綺麗になっていた。玲子はそれを見て、小さな達成感を感じた。言うべきことを言った結果、改善されたことに対して少しだけ自信が湧いてきたのだ。

それからしばらくの間、玲子は他の場所でも気になる点があれば、さりげなくヘルパーさんにお願いするようになった。例えば、台所のシンク周りや冷蔵庫の上など、普段見落とされがちな場所だ。彼女は自分が不満を溜め込むのではなく、相手に対して感謝の気持ちを持ちながら、改善をお願いするというスタンスを取るように心がけた。

ヘルパーさんもその気遣いに応え、玲子の家は次第にどの場所も綺麗に保たれるようになっていった。互いに信頼関係が築かれ、コミュニケーションも円滑に進むようになった。

玲子は、訪問介護という限られた時間の中で、いかに自分の要求を伝えるかが大切だということを学んだ。それは単に「掃除をしてほしい」という要求ではなく、「この家で共に働く仲間として、良い環境を作りたい」という気持ちの表れだった。

その後、玲子とヘルパーさんは、掃除の手順や優先順位を一緒に話し合いながら決めるようになった。台所の掃除も、風呂場の掃除も、トイレの掃除も、それぞれが協力し合って効率よく行うようになり、互いに気持ちよく過ごせる空間が出来上がっていった。

ある日、玲子はふと、ガスコンロのグリルの掃除を初めてお願いした時のことを思い出した。あの時は本当に言うべきかどうか悩んだが、結果的には良い方向に進んで良かったと、今では心から思えるようになっていた。

人に何かをお願いするということは、時に勇気がいる。でもその一歩が、お互いの理解を深め、良い関係を築くための重要なきっかけになることもある。玲子はそう実感しながら、今日もまた、訪問介護のヘルパーさんを迎える準備をしていた。