老人

春秋花壇

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老人の耳鳴り

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『老人の耳鳴り』

夏の午後、70歳の田中一郎は、一人暮らしの自宅で静かな時間を過ごしていた。窓の外では蝉の鳴き声が遠くに聞こえ、穏やかな陽射しが部屋に差し込んでいる。彼は長い人生を歩んできたが、最近では些細な音さえも不快に感じることが増えた。特に子どもの声や犬の鳴き声は、彼の耳には痛いほど響いてくる。

一郎はリビングのソファに腰掛け、昔のアルバムを眺めていた。若い頃の写真、家族との思い出、友人たちとの笑顔が詰まったページをめくる度に、懐かしさと共に寂しさが胸を締め付ける。しかし、その静かなひとときも長くは続かなかった。隣家の犬が突然吠え出し、その音が一郎の耳に突き刺さるように感じられたのだ。

「またか…」

彼は溜息をつきながら耳を塞いだ。高音域が聞こえにくくなっている一郎の耳には、一定の音量を超えるとリクルーメント現象が起き、急に音がうるさく感じられる。犬の鳴き声はまるで耳鳴りのように一郎を苦しめた。70歳を超えた人々の7割が同じように感じるというデータを知ってはいたが、自分がその一人であることが悲しかった。

音が一段落すると、一郎は再びアルバムに目を戻した。そこで目に留まったのは、若かりし日の妻との写真だった。彼女の笑顔が優しく、一郎の心に温かさをもたらした。彼はその写真を見つめながら、ふと彼女が健在だった頃のことを思い出した。

「君がいた頃は、こんなに静かじゃなかったな」

一郎は微笑みながら呟いた。妻の存在は、一郎の人生にとって大きな音楽のようなものだった。彼女の声、笑い声、日常の何気ない音が、彼の心を豊かにしていたのだ。

その瞬間、窓の外から前の公園で遊ぶ子供の泣き声が聞こえてきた。それは断末魔のように一郎の耳に突き刺さり、彼の心を乱した。泣き声がますます大きくなり、一郎の苛立ちは頂点に達した。

「いらいらそわそわやめろ――ってなるんですよね。」

彼はそう呟きながら、再び耳を塞いだ。音が一郎を苛立たせるたびに、彼の心は乱れ、静寂を求める気持ちが強くなった。しかし、彼は知っていた。この音の中で平静を保つことが、年老いた自分にとっての挑戦であることを。

彼は立ち上がり、窓を閉めに向かった。音を遮断するために、窓をきっちりと閉めると、部屋の中は再び静寂に包まれた。

「やれやれ、これで少しは静かになるだろう」

そう呟きながら、一郎はソファに戻った。耳に響く音が消えたことで、心も少し落ち着きを取り戻した。しかし、彼は知っていた。この静寂も長くは続かないことを。

高齢になるということは、耳鳴りや不快な音との戦いでもある。しかし、それでも一郎は静かな日常を大切にし、過ぎ去った日々の思い出を胸に刻んで生きていくのだ。

部屋の中は再び穏やかな時間が流れ、彼はそっと目を閉じた。過去の音楽が彼の心に響き渡り、静かな午後のひとときを彩っていた。








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