いとなみ

春秋花壇

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知らない人とは口をきかない

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「知らない人とは口をきかない」

佐藤美咲(さとうみさき)は、毎朝決まった時間に同じ駅で電車に乗り、同じ車両に座る。何年も続けている通勤のルーチンだが、彼女の周りには一切関心がなかった。顔見知りの人間はおらず、通勤ラッシュの車両は、ただの移動手段に過ぎなかった。

その日もいつも通り、車両の端にある空いている席に座り、手持ちのスマートフォンを取り出した。画面に集中していると、周りの雑音が少し遠くなる。誰もが自分の世界に入り込んでいるようで、ただの背景に過ぎなかった。

「おはようございます!」

突然、声をかけられた美咲は驚いて顔を上げた。目の前にいたのは、見知らぬ男性だ。年齢は三十代前半、スーツ姿で、微笑んでいる。その表情には、なんの警戒心もなく、むしろ明るささえ感じる。

美咲は一瞬、反応に困った。見知らぬ人に声をかけられるのは、彼女の習慣にはないことだ。無理に笑顔を作ることもできるが、それはどうしても心からのものではない。しかも、今は朝の通勤時間であり、周りの目もある。

「おはようございます。」

美咲はぎこちなく返事をした。できるだけ簡潔に答えることが彼女のスタイルだ。この程度であれば、相手も気にしないだろう。

しかし、その男性は、返事をもらったことに満足した様子で、さらに話を続けた。

「すごいですね、毎朝、この時間に乗ってるんですね。」

美咲は少し驚いた。誰かに自分の通勤時間を気にされるのは初めてだった。しかし、彼女はその問いに答えたくなかった。自分の一日の始まりは、他人にとってはただの通過点に過ぎないからだ。せっかくの静かな時間を、他人との会話で破られるのは心底嫌だった。

「はい、まぁ…」と、美咲は短い言葉を口にした後、スマートフォンに視線を戻した。

すると、男性はさらに話を続けた。「それなら、きっとこの時間帯に慣れているんでしょうね。疲れた朝でも、体が覚えているんじゃないですか?」

美咲はしばらく黙っていた。返事をしないことで、相手が諦めることを期待したのだが、男性は気にする様子もなく話し続けていた。

「僕も最初は不安だったんですが、だんだんと慣れてきて、こういう風に乗ってると、リズムができるんですよね。」

美咲は心の中でため息をついた。彼女は、他人と会話を交わすことを避けるタイプだ。なぜなら、知らない人と話すことが無駄だと感じるからだ。彼女にとって、電車に乗る時間は自分だけのものだった。他人との会話が始まると、その瞬間から自分の時間が奪われてしまうような気がしてならなかった。

「…すみませんが、ちょっと、今は話しかけられたくないんです。」美咲は少しだけ申し訳なさそうに言った。

その言葉に男性は少し驚いたようだが、すぐに顔を引き締めた。「あ、すみません、失礼しました。」

その瞬間、美咲は心の中で少しだけ安心した。男性は黙り込み、再びスマートフォンに目を落とす美咲の隣に静かな空気が流れる。その間、車内は変わらず騒がしく、他の乗客たちはそれぞれの世界に没頭している。

「やっぱり、知らない人とは口をきかない方がいいんだ。」美咲は心の中でそうつぶやいた。彼女の思考は、過去の経験に基づいていた。知らない人と話しても、何も得られることはない。それどころか、かえって面倒なことになることの方が多かった。たとえば、誰かが自分のことを覚えていて、次回も同じように話しかけてくることになるのだ。

美咲は、以前にも同じような経験があった。あるとき、駅のホームで偶然見かけた男性が、次の日も同じ場所で声をかけてきた。初めは挨拶だけだったが、その後、会話が長く続き、段々と無理に会話を続ける羽目になった。そして、最終的にはその男性が彼女に何度も声をかけてくるようになり、心地よさを感じることはなかった。

「知らない人と話すことに、何の意味があるんだろう?」

美咲は自分にそう問いかけてみた。もちろん、世の中には親しくなるべき人もいる。しかし、電車の中で交わす会話には、ほとんど意味がないと彼女は感じていた。ましてや、相手が何の前触れもなく話しかけてきた時、それは単なる自己満足に過ぎないと思えてならなかった。

しばらくすると、目的の駅が近づき、美咲はスマートフォンをしまった。そして、男性に一度も目を合わせず、静かに車両を降りた。

電車が駅に到着し、乗客たちが降りる。美咲は自分のペースで歩きながら、再び無駄な会話が自分を圧迫することのない日常に戻っていった。心の中で、こんなことはもう繰り返したくないと思いながら。

「知らない人とは口をきかない。」その言葉が、彼女の心にしっかりと刻まれていた。






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