いとなみ

お稽古代だって、着物代だって何千万も元がかかってんのよ

「お稽古代だって、着物代だって何千万も元がかかってんのよ」

「お稽古代だって、着物代だって何千万も元がかかってんのよ。」

真っ赤な口紅で彩られた唇が、ぼそりと吐き捨てるように言った。その言葉が、美雪の胸に重くのしかかる。ここは銀座の高級クラブ「紗羅」。艶やかな着物をまとったホステスたちが夜の蝶として、華やかに輝く街の一角だ。美雪もその一人だった。まだ24歳という若さで、入店してから3年。ようやく常連客もつき始め、少しずつ一人前のホステスとしての立場を確立しつつあった。

しかし、華やかな世界には相応の代償がある。美しい着物、アクセサリー、化粧品、そして日々の立ち振る舞いを磨くための茶道や舞踊、歌のお稽古。すべてが高額だ。美雪が見上げる先輩ホステスの麗華は、長年銀座でトップの座を守り続けてきたが、その裏には莫大な投資があった。

「美雪、あんたも分かってるでしょう？ここで生き残るには、まず自分に投資しないとダメなのよ。どんなに美人でも、金をかけて磨かれた女じゃなきゃ、この世界では相手にされないわ。」

美雪は麗華の言葉を黙って聞いていた。麗華は確かに正しい。華やかに見えるその裏には、地道な努力と、膨大な金額が費やされている。美雪もそれを痛感していた。美しく着飾り、完璧な礼儀作法で客をもてなし、気を引くためには、自分自身に惜しみなく金を注ぎ込まなければならない。着物一着、何百万という金額が平然と飛び交う。美雪も店のママに言われ、いくつかの着物やアクセサリーを購入したが、そのたびに財布は空っぽになり、心に負担がかかった。

「分かってます。でも、どこまでやっても足りない気がして…」

美雪の小さな声に、麗華は優雅な仕草で煙草を吸い、紫煙をくゆらせた。「あんた、まだ若いんだから焦る必要はないわ。けどね、覚えておきなさい。この世界は、金をかける女が勝つの。心も体も、全部金で磨かれていくのよ。」

その夜、いつものように美雪は常連の一人、五十嵐と会う約束があった。彼は建設会社の社長で、銀座のクラブに足しげく通ういわゆる「太客」だった。美雪は彼から、これまで数々の高価な贈り物を受け取ってきた。それがこの世界での「投資」であり、成功への道だと信じていたからだ。

「美雪ちゃん、これ、君に似合うと思ってね。」五十嵐はニヤリと笑い、豪華なジュエリーを差し出した。

「ありがとうございます…でも、こんなにいただいてばかりで申し訳ないです。」美雪はそう言いながらも、心の奥で複雑な感情が渦巻いていた。贈り物をもらうたびに、彼の期待が高まっているのがわかる。そして、その期待に応えなければならないという無言のプレッシャーが、彼女を締め付けていた。

その夜、五十嵐は美雪をさらに深い夜の世界へと誘った。いつものクラブではなく、もっとプライベートな空間へと。「少しだけ、特別な時間を過ごそう」と甘い言葉で彼女を誘い、ホテルのラウンジで静かにグラスを傾けた。

「美雪ちゃん、君もわかってるだろう？俺がどれだけ君に期待してるか。今までの贈り物だって、無駄にしたくないんだ。君もそのつもりでいてくれるんだろう？」

五十嵐の言葉は、優しさを装いながらも、どこか押しつけがましかった。美雪はグラスを見つめながら、これまでの自分の選択に迷いが生じ始めていた。華やかな世界で成功するために、多くのものを犠牲にしてきたつもりだったが、本当にこのままでいいのだろうか？

五十嵐の手が美雪の肩に触れた瞬間、彼女の心は叫んでいた。「これ以上は無理だ。私は…これ以上、何も差し出せない。」

「すみません…もう、今日はここまでにさせてください。」美雪は静かに席を立ち、五十嵐に頭を下げた。彼の顔に一瞬、驚きと苛立ちが走ったが、美雪はその場を後にした。

外に出ると、夜の風が冷たく彼女の頬を撫でた。石畳を歩きながら、美雪は自分自身に問いかけ続けた。この世界で成功するために、これまでどれだけ自分を犠牲にしてきたのか。着物代、お稽古代、高級なジュエリーや贈り物。そのすべては、今の自分を作り上げてきた。でも、本当にこれが自分の望んでいた人生なのだろうか？

次の日、美雪は店を休み、ぼんやりと街を歩いていた。ふと目に入ったのは、和菓子屋の小さな店。店先で手を動かしているのは、年配の女性だった。彼女の指先が丁寧に和菓子を形作る様子は、美雪にとってどこか懐かしく、温かいものだった。

「いらっしゃい、若い娘さん。甘いものでも食べていきなさいな。」女性は優しい笑顔で美雪を招き入れた。

小さな茶席で出されたお茶と和菓子を口にした瞬間、美雪の心は少しだけ軽くなった。思い返せば、自分が本当に好きなもの、心から楽しめるものが何だったのか、もう忘れてしまっていた。

美雪は、思い切ってその女性に話しかけた。「私、実は銀座で働いているんです。でも、最近自分が何をしているのか、よくわからなくなってきて…」

女性は優しく頷いた。「人間、迷うことは誰だってあるさ。大切なのは、何が本当に自分にとって大切なのか、ちゃんと見つめることだよ。金じゃ買えないものも、たくさんあるんだからね。」

その言葉に、美雪はハッとした。華やかな世界に埋もれ、自分の心の声を無視してきたことに気づいたのだ。銀座での成功は確かに魅力的だが、それは金だけで手に入るものではなかった。そして、金で買えない自分の価値も、どこかにあるはずだと感じ始めていた。

その日から、美雪は自分に向き合うことを決めた。お稽古や着物に費やす金額以上に、自分の心を大切にすること。そうして見つけた自分の新しい道は、また別の形で彼女を輝かせるものになるだろう。