いとなみ

憧れ

憧れ

彼女に出会ったのは、夏の終わりのことだった。暑さが少しずつ和らぎ、夕方になると風が肌に心地よく触れる季節。僕はその日、いつものカフェで本を読んでいた。お気に入りの席は窓際で、そこから見える景色はどこか寂しげで、それでいて心を落ち着けるような不思議な場所だった。

彼女が現れたのは、そのカフェのドアが静かに開いた瞬間だった。足音はほとんど聞こえなかったが、ふと視線を上げると、彼女がそこに立っていた。彼女の長い黒髪は夕陽に照らされて、金色に輝いていた。白いワンピースが風に揺れて、まるでどこかの物語から抜け出してきたかのようだった。僕は一瞬、息を呑んだ。こんなにも美しい人が存在するのかと。

彼女はゆっくりとカフェのカウンターに向かい、注文をした。その間、僕は何度も彼女に視線を送ってしまっていた。恥ずかしいとは思ったが、目を離すことができなかった。それはただの憧れだった。彼女が振り向くことはないだろうと、そう思い込んでいた。

しかし、僕がその本に再び目を戻した瞬間、ふと気配を感じて顔を上げると、彼女が僕の前に立っていた。

「隣、いいですか？」彼女の声は柔らかく、まるで風の音に溶け込むかのようだった。

驚きながらも、僕は慌てて頷いた。「もちろん、どうぞ。」

彼女は微笑み、僕の隣に座った。カフェの静かな空気の中で、僕たちはしばらくの間、言葉を交わさなかった。ただ、彼女がそこにいるという事実だけで、心が満たされていた。

「何を読んでいるんですか？」彼女が突然、そう尋ねた。

僕は本の表紙を見せながら、「小説です」と答えた。それは最近話題になっていた恋愛小説だった。

彼女はその表紙をじっと見つめ、微笑んだ。「私もそれ、読んだことがあります。とても切ない物語ですよね。」

その一言で、僕たちの会話は始まった。初めて会ったばかりなのに、まるでずっと前から知っているかのように自然に話せた。僕たちは本や映画の話をし、好きな音楽や行きたい場所についても語り合った。彼女と話すたびに、僕の胸は高鳴り、彼女の言葉一つ一つが僕の心に響いた。

「また会えるかな？」僕は勇気を出して、そう尋ねた。彼女がこの瞬間だけの夢で終わってしまうのが怖かった。

彼女は少し考える素振りを見せた後、優しく微笑んで言った。「きっと、また会えますよ。」

その言葉に、僕の心は希望で満たされた。次に彼女に会える日が待ち遠しかった。

それから数日、カフェに通い続けた。しかし、彼女は現れなかった。毎日、彼女の姿を探していたが、どこにもいなかった。彼女との会話が頭から離れず、何度もその場面を思い返していた。あの日、彼女が座った席、彼女が微笑んだ瞬間、彼女の声。それらが僕の心に深く刻み込まれていた。

季節は秋に移り変わり、カフェの窓から見える木々も少しずつ色づき始めた。僕はその日も同じ席に座り、彼女を待っていた。しかし、カフェのドアが開くたびに期待しても、それはすぐに失望に変わってしまった。

ある日、僕はついに諦めかけていた。彼女はただの幻だったのかもしれないと。彼女にもう一度会いたいという気持ちは、時間と共に薄れていくのだろうと自分に言い聞かせようとしていた。

だが、そんな僕の前に、再びあの風のような気配が訪れた。

「久しぶりですね。」

その声に、僕は驚いて顔を上げた。そこには、あの日と同じ笑顔を浮かべた彼女が立っていた。まるで何事もなかったかのように。

「また会えましたね。」彼女は微笑みながら、僕の隣に座った。

「本当に…また会えるとは思わなかった。」僕は嬉しさと驚きで、うまく言葉が出てこなかった。

「約束しましたからね。」彼女はそう言って、僕の目を見つめた。

その瞬間、僕は彼女が特別な存在であることを確信した。彼女に惹かれる理由が、ただの憧れではなく、本当の気持ちであることを。

「これからも、会ってくれますか？」僕は彼女に尋ねた。

彼女は少し微笑んで、静かに頷いた。

それからというもの、僕たちは頻繁に会うようになった。彼女との時間は、まるで夢のように幸せで、僕は彼女の存在が日常の一部になっていくのを感じていた。

だが、彼女には一つだけ秘密があった。それは、彼女がもうすぐこの街を離れるということだった。

「いつか、戻ってきますか？」僕は恐る恐る尋ねた。

彼女は少しの間沈黙した後、答えた。「約束はできないけれど、忘れないでいてくれますか？」

その言葉に、僕は何も言えなかった。彼女がこの街を離れるという事実が、僕の心を締め付けた。

しかし、僕は彼女との思い出を大切にすることを決意した。たとえ彼女がいなくなったとしても、僕の中で彼女は永遠に輝いているだろう。

そして、いつかまた、彼女に会える日を信じて。