名言

イラっときたら、負けだと思っています

イラっときたら、負けだと思っています

大谷翔平


「イラっときたら、負けだと思っています」

朝の通勤電車。車内はぎゅうぎゅう詰めで、息苦しいほどの人の波が押し寄せている。私は吊り革に掴まりながら、目の前の男性の背中を見つめていた。その男はバッグを振り回し、周囲を気にせずスマホをいじっている。

バッグが私の足に何度も当たるたび、イラっとする。だが、私は深呼吸をして、自分に言い聞かせた。

「イラっときたら、負けだ」

そう心の中で呟くのが、私の日々のルールだ。

私がこのルールを作ったのは、3年前のことだった。

当時の私は、何かと怒りっぽかった。電車で足を踏まれれば、舌打ちをする。スーパーのレジで列が遅ければため息をつく。家に帰れば、些細なことで妻や子どもに怒鳴ってしまう。

ストレスだらけの毎日で、怒りは私にとって自然な感情だった。だが、それが家庭を壊しかけていたことに気づいたのは、妻がこんな言葉を口にしたときだ。

「あなた、最近ずっと怒ってるよね。家の中がいつもピリピリしてるのよ。子どもたちも怖がってる」

その一言は胸に刺さった。子どもたちにとって「父親」という存在が恐怖の対象になりつつある――その現実を突きつけられ、私は愕然とした。

そこから私は、自分を変えようと決意した。怒りの感情を抑える方法を本で学び、ネットで検索した。そして見つけたのが、「イラっときたら、負けだ」と自分に言い聞かせるというシンプルな方法だった。

「負けたくない」という気持ちが働くのか、この言葉は意外と効果があった。

例えば、電車での出来事。前の男のバッグが足に当たるたび、心の中で呟く。

「イラっときたら、負けだ」

すると、不思議なことに怒りが少しずつ薄れていく。むしろ、バッグを振り回す男が滑稽に思えてくる。

スーパーのレジで前の人が小銭を数えて時間がかかっても、心の中で呟く。

「イラっときたら、負けだ」

待っている間に商品ラベルをじっくり見る余裕が生まれる。

もちろん、最初からうまくいったわけではない。特に仕事の場面では、感情をコントロールするのが難しかった。部下がミスを繰り返し、何度も同じ説明を求めてくると、思わず怒鳴りたくなることもあった。

そんなときも、私は自分を冷静に保つために深呼吸をする。そして頭の中で「イラっときたら、負けだ」と繰り返す。

すると、不思議なことに、怒りの感情が沈み込み、代わりに「どうしたら彼が同じミスをしなくなるか？」と考える余裕が生まれるのだ。

怒りは何も生まない。そう気づくまでに時間はかかったが、気づいてからは確実に私の生活が変わった。

そして、あの日。

妻と口論になりかけたときのことだ。

夕食の後、妻が「あなた、最近またイライラしてる気がする」と言った。その言葉に私はカチンときた。ここ数週間、自分なりに気をつけていたつもりだったからだ。

「そんなことないよ」と言い返しそうになった瞬間、心の中で例の言葉が浮かんだ。

「イラっときたら、負けだ」

深呼吸をしてから、ゆっくりと答えた。

「そうかもしれないな。最近、忙しくて自分でも気づいてなかったけど、気をつけるよ。ありがとう」

妻は驚いた顔をしていたが、それからふっと微笑んだ。

「あの頃よりずっと変わったよね。ありがとう」

その言葉に私は救われた気がした。変わる努力は無駄ではなかったのだ、と。

今朝の電車の中でも、私は例の言葉を心の中で呟きながら、スマホをいじる男の姿を見つめていた。

そんなとき、電車が急停車し、私はバランスを崩してその男にぶつかってしまった。

「すみません！」と謝ると、彼は驚いたように顔を上げ、少し笑った。

「いや、こっちこそごめんなさい。バッグ、当たってましたよね？」

その一言に、私もつい笑ってしまった。怒りや苛立ちを抱えるのではなく、こうして些細なやりとりで済ませることができる――そんな余裕を持てるようになった自分に、少し誇りを感じた。

通勤電車が再び走り出し、私は静かに目を閉じた。今日もいい日になりそうだ、と。

「イラっときたら、負けだ」

私の小さなルールは、これからも私を支え続けるだろう。

終わり