親子

子離れできない親

子離れできない親

春の暖かな日差しが差し込む窓辺で、香奈は静かに手紙を書いていた。机の上にはまだ未開封の手紙が数通、そしてその隣には、ずっと使い続けてきた万年筆が置かれている。今、彼女の心の中には一つの決断があった。大学卒業を機に、東京での新しい生活を始める。ずっと家にいたいと思ったこともあったが、もう家に縛られて生きるのは嫌だった。新しい環境、新しい自分を見つけたかったからだ。

しかし、手紙を書く手が止まった。何度も何度も読み返したその言葉を、母がどんな反応をするかが気になった。今までにも、家を出たいと何度も言ってみたが、その度に母は驚き、そして悲しんだ顔をしていた。母は、香奈が家を離れることをどうしても受け入れられなかった。父は無口で、母が何かを言い出す前に「香奈が決めたことなら、支えてあげよう」といつも優しく言ってくれたが、それでも母の心の中にある「香奈は家にいるべきだ」という思いは強かった。

「香奈、どこか行くのか？」突然、母の声が聞こえた。振り返ると、リビングの入口に立つ母の姿が見えた。いつもと変わらぬ、あたたかい微笑みを浮かべているが、その目には何か隠しきれない不安が宿っているようだった。

「うん、ちょっと…東京に行こうと思って」香奈は少しだけためらいながらも、告げた。

母の表情が一瞬固まった。「東京に？」と、小さく繰り返すように言った。その声には、驚きと疑念が入り混じっていた。「でも、香奈はここで十分じゃないか。まだ家にいてもいいんだよ、たとえ就職してもね。」

香奈は深呼吸をし、母に言った。「でも、私は自分の力で生きていきたい。今までずっと家にいたけれど、これからは自分の足で立ちたいんだ。」

母は一瞬黙った後、静かに言った。「そんな、急に。お父さんも、あなたが出て行くなんて、思っていないわ。」

香奈はため息をついた。母の言葉の中に、どこか香奈を手放すことができないという気持ちが滲み出ていた。それはわかっていたが、香奈にはもうこれ以上家にいられなかった。

「わかっている。でも、私の人生は私のものだから。」香奈は毅然とした口調で言った。

母は肩を落とし、手のひらを膝に置いた。「でも、私が香奈を育ててきた意味は…」

「それがわからないわけじゃないけど…」香奈は言葉を続けた。「お母さん、私はもう大人なんだから。自分で決めたことをやりたいんだよ。」

その瞬間、母の顔から笑顔が消え、目に涙が浮かんだ。香奈はその涙を見るのが辛かった。母の涙は、香奈が家を離れることへの悲しみの表れだったから。

「香奈、お願いだから考え直して…」母は震える声で言った。香奈は一瞬、心が揺らぐのを感じた。しかし、それでも心の中で強く決めたことがあった。

「もう決めたよ、母さん。」香奈は静かに答えた。「私は行く。」

その言葉を聞いて、母はしばらく黙っていた。香奈は立ち上がり、机の上に置かれていた手紙を持ち、母に差し出した。「これ、私の気持ち。読んでおいて。」

母はそれを受け取ると、少しだけ戸惑いながらも、涙をこらえて手紙を読み始めた。香奈はその間、ただ静かに立っていた。

数分後、母が手紙を読み終えた。もう涙は流れていなかったが、香奈はその目の奥に深い悲しみがあることを感じ取った。「ありがとう…香奈。あなたがどうしても行きたいというなら、私は応援する。」母は力なく言った。その声は、香奈にとってとても辛かった。母は、愛する子供を手放さなければならないことが、こんなにも苦しいのだと、香奈は思った。

「ありがとう。」香奈は母の肩を軽く抱きしめて言った。「でも、私は大丈夫だから。しっかりやってみせる。」

その後、母は黙ってうなずき、しばらく何も言わなかった。しかし、その沈黙の中に、香奈に対する愛情と、彼女を手放すことへの怖れが入り混じっていることを感じた。

翌日、香奈は家を出る準備をしていた。母は何度も部屋にやってきては、「何か忘れていない？」と尋ねたが、香奈はすべてを持って出かける準備を整えていた。母は結局、何も言わずに最後の瞬間を迎えた。

「行ってらっしゃい。」母は言った。

香奈は少し寂しそうに微笑んだ。「うん、行ってきます。」

そして、家を出る瞬間、香奈は振り返った。母が静かに立っているその姿が、心に深く刻まれた。

家を出ることが香奈にとって正しい選択だったのか、まだわからない。でも、母の悲しみと愛情を背負いながら、新しい生活に踏み出すことを決意したのだ。

その後、東京での生活が始まり、香奈は少しずつ自分の力で生きることを学んでいった。しかし、心の奥にはいつも、家で待っている母のことがあった。そして、香奈は知っていた。母がどれほど自分を愛し、どれほど手放すことに苦しんでいるのか。だけど、彼女は決して後悔はしなかった。

「いつか、母さんに自分の成長を見せるんだ。」香奈は心の中で誓った。

それが、香奈の新しい人生の一歩だった。