親子

振り返った時

「振り返った時」
美咲は、久しぶりに手帳を開き、息子・拓也の小さい頃の写真を見つめていた。笑顔の彼を抱きかかえる自分の姿。あの頃は、愛情を注ぐことが正しい親の役目だと思っていた。

拓也が生まれた時、美咲は全てを捧げる覚悟で彼を育てた。夫の仕事は忙しく、家庭での育児は美咲一人に任されていた。彼女は、良い母親でありたいという思いから、子育てに全力を注いだ。

拓也が保育園に通うようになると、美咲は毎日彼の成長を細かくチェックした。食事のバランス、遊び方、友達関係、どれも気を抜くことなく監視し、適切に導こうと努力した。彼の言葉遣いや態度もすぐに注意し、改善するように言い聞かせた。

しかし、拓也が小学生になる頃、彼の行動に少しずつ違和感を覚え始めた。学校から帰るとすぐに部屋に閉じこもり、勉強や遊びの様子をあまり見せなくなったのだ。友達との約束を断り、家で一人で本を読んだり、ゲームをしたりする姿が増えた。美咲は、それが心配でたまらなかった。

「どうして外で遊ばないの？友達ともっと楽しく過ごした方がいいわよ」と、彼女は何度も説得したが、拓也はうつむいたまま、「別にいいんだ」としか答えなかった。焦った美咲は、彼の学校生活についても詳しく知ろうと、担任の先生に電話をかけたり、保護者会で他の母親たちに情報を集めたりした。

「拓也君、最近元気がないみたいだけど、大丈夫？」と心配してくれる他の母親たちの言葉に、美咲は焦りを募らせた。そんなことはない、彼は大丈夫だ、と自分に言い聞かせるが、家に帰るとまた息子に問い詰めてしまう。

「学校で何かあったの？誰かにいじめられてるの？言ってくれなきゃ分からないわよ」

「別に、何もないよ…」

そんな会話が続くうちに、次第に美咲は苛立ちを抑えられなくなっていた。「何もないはずがない」と思い込み、彼が話さないことに対して怒りを覚えるようになった。ある日、彼の学校のプリントを見つけた時、美咲は思わずそれを手に取り、細かくチェックした。彼の成績表を見て、今までになく低い点数に目が止まった。

「なんでこんな点数なの？ちゃんと勉強してるの？言ったことを守ってる？」

その時、拓也の顔には悲しげな表情が浮かんでいたが、美咲はそれに気づかず、彼にもっと勉強するように強く言い聞かせた。何も言い返さず、ただ頷くだけの息子の姿に、美咲はまたもやイライラを募らせた。

そんなある日、拓也は学校で倒れ、病院に運ばれた。原因は過労とストレスだった。美咲はその知らせを受けた瞬間、体が震え、急いで病院へと向かった。病室で横たわる息子の姿を見て、彼女は涙が止まらなかった。

「ごめんね、拓也…お母さんが、気づかなかった…」

しかし、拓也は無表情のまま、何も言わなかった。彼の目は空虚で、どこか遠くを見つめていた。その時、美咲は、初めて自分が彼を追い詰めていたことに気づいた。息子のためと思い、正しい母親であろうと必死に頑張ってきたことが、実は彼の自由を奪い、重圧をかけていたことに。

その日から、美咲は少しずつ自分を変えようと決めた。拓也の生活に干渉するのをやめ、彼の意志を尊重し、話を聞くことに徹した。だが、息子との距離は簡単には縮まらなかった。拓也は高校に進学しても、心を閉ざしたままだった。彼女の言葉に対しても、必要最低限の返事しかせず、どこか冷めた態度を取り続けた。

美咲はそれでもあきらめず、彼に寄り添い続けた。無理に会話をせず、ただ「見守る」ことに専念した。休日には、一緒に過ごすことを提案するものの、彼が断れば無理強いはしなかった。少しずつ、少しずつ、彼の心の扉をノックし続けた。

そして、ある日、大学受験を終えた拓也が、「話したいことがある」と言い出した。リビングのソファに座り、彼はゆっくりと口を開いた。

「お母さん、俺のことを考えてくれてたのは分かる。でも、俺は自由に生きたかったんだ。自分の力で、自分の道を歩きたかったんだよ。」

美咲は息を呑んだ。息子の言葉は痛みと共に、彼女の心に深く突き刺さった。だが、それ以上に彼の気持ちを聞けたことが、彼女には何よりも嬉しかった。

「今はどうしたい？」と美咲が尋ねると、拓也は少し考えた後、静かに答えた。

「俺、留学したいんだ。自分の力で世界を見てみたい。」

その言葉に、美咲は大きく頷いた。彼の決意を尊重し、背中を押してあげることが、彼女にできる唯一の贖罪だと思ったのだ。

「わかった。応援するよ、拓也。」

それから数か月後、拓也は留学先へと旅立った。空港で手を振る彼の姿を見送りながら、美咲は心の中で彼の幸せを祈った。これから先、どんな道を歩んでも、彼の人生は彼自身のものだということを。

そして、美咲は一人、静かな空の下で、これまでの自分を振り返り、深い息を吐いた。母親としての過ちを、彼女は一生かけて償っていくつもりだった。もう二度と、彼の翼を縛ることはしないと、心に誓いながら。