親子

産むだけなら猫でもできるんだよ！

「産むだけなら猫でもできるんだよ！」

その言葉が私の頭の中でこだまするようになってから、もう40年以上が経った。あのとき、私は30歳で、娘を産んだ直後だった。病院の産婦人科の薄暗い診察室で、疲れ果てた私に向かって、医師が突然叫んだのだ。

「産むだけなら猫でもできるんだよ！」

その瞬間、私は何も言い返せなかった。痛みと疲労、そして自分に対する漠然とした不安に包まれながら、ただその言葉を受け入れるしかなかった。だが、あれから何十年もの間、その言葉の意味をずっと考え続けている。

70歳になった今でも、あの時の出来事が忘れられない。娘は成長し、立派な大人になった。彼女自身も今は二人の子どもを持ち、幸せな家庭を築いている。私にとっても、孫たちは大きな喜びだ。それでも、あの医師の言葉が私の心に残り続け、何か大切なものを問い続けている。

——「産むだけなら猫でもできる」——

それは、母としての役割を考えさせる問いだったのかもしれない。私は、ただ子どもを産んだだけで満足していたのだろうか？ 産むという行為そのものに安住して、その後の育児や母親としての責任を十分に果たしていなかったのか？

娘を育てる過程で、私は必死だった。夫は仕事に忙しく、ほとんど家にはいなかった。家事と育児、そしてパートの仕事のすべてを抱え、休む暇などなかった。自分の時間はなく、ただ日々が流れていく。その中で、私が母として十分なことをできていたのか、ずっと自問自答してきた。

娘が小さい頃、私は彼女に何度も怒鳴りつけたことがある。思い通りに行かないことが続くと、イライラが募り、娘に八つ当たりしてしまうことがあった。娘が泣く姿を見ても、すぐには抱きしめてやれず、後になってから後悔する。そんな日々が何度も繰り返された。

「産むだけなら猫でもできる」という言葉は、そんな私に対する罰だったのかもしれない。私が母親として失敗しているという無言の非難のように感じられ、心に刺さったまま抜けない棘のようだった。

娘が大人になり、家を出たとき、私は少しだけほっとした反面、胸の奥にぽっかりと穴が空いたような気持ちになった。娘が自分の人生を歩んでいくことに対する喜びと、母親としての役割が終わったことへの空虚感が入り混じっていた。そして、その空虚感が再び、あの言葉を私の心に甦らせた。

——「産むだけなら猫でもできる」——

私は本当に、母親として何をしてきたのだろう？ ただ子どもを産み、育て上げることができただけで、十分だったのだろうか？

70歳になった今、孫たちが遊びに来ると、私は心の底から楽しむことができる。彼らが無邪気に笑う姿を見ると、あの時の娘の幼い姿が重なる。彼女もこんなふうに、私に笑いかけていたはずだ。でも、私はその笑顔をどれだけ受け止められていただろうか。自分の不安やプレッシャーに押しつぶされ、娘の笑顔に十分に応えることができなかったのではないか。

ある日、娘が久しぶりに訪ねてきた。今は母として忙しく過ごしている彼女だが、私の前ではいつも明るく、しっかりとした大人の女性だ。私たちはお茶を飲みながら、昔の話を少しずつしていた。

「お母さん、私の子育て、大変だったでしょう？」

突然、娘がそう言った。私は一瞬、戸惑ったが、すぐに正直な気持ちを口にした。

「うん、正直、すごく大変だったわ。あの頃は本当に余裕がなくて、あなたに辛く当たったこともあった。ごめんね。」

娘は微笑んで、静かに頷いた。

「ううん、大丈夫よ。私はお母さんが一生懸命だったの、ちゃんと分かってたから。子育てって、そんな簡単なことじゃないんだなって、自分が母親になって初めて気づいたの。」

その言葉に、私は胸が熱くなった。娘は、私が母親として失敗していたと感じていたわけではなく、むしろ私の頑張りを理解してくれていたのだ。その瞬間、あの40年も前の医師の言葉が、少しだけ軽くなったような気がした。

「産むだけなら猫でもできる」という言葉には、確かに母親としての役割の重さが含まれていたのだろう。しかし、それは単なる責めではなく、もっと深い意味があったのかもしれない。産むことだけが母親の仕事ではない、そこから始まる長い道のりがある——その意味を、私はようやく理解し始めたのだ。

娘が帰ったあと、私はふと鏡を見た。そこには70歳の自分が映っていた。深い皺が刻まれ、髪も白くなっているが、その中に、少しだけ晴れやかな表情が見えた。40年以上かけて問い続けてきた疑問に、少しずつ答えが見つかり始めたような気がしたからだ。

「産むだけなら猫でもできる……」

その言葉を、今では感謝と共に思い出す。母としての旅は決して簡単なものではなかったが、その旅の中で私は多くを学び、成長してきた。そして今、孫たちの笑顔に包まれながら、私はようやく自分が母親として十分にやってきたのだと、静かに自分を許すことができた。