親子

春秋花壇

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忘却の中で

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忘却の中で

日々の中で、父が少しずつ何かを失っていくのを感じ始めたのは、数年前のことだった。最初は、ちょっとした物忘れからだった。鍵をどこに置いたか忘れる、予定を勘違いする。それが次第に日常的なこととなり、父の表情に混乱が見え始めた。母は「年を取ると誰でもそうなるわよ」と言っていたが、僕は心の奥底で不安を抱えていた。

やがて、父は物を失くすだけではなく、記憶そのものを失い始めた。僕たち家族の顔さえも、彼の中で薄れていくようだった。医者の診断はアルツハイマー病。僕はその言葉が持つ重さをまだ理解しきれずにいたが、日常が次第に父の病に支配されていくにつれて、その現実が容赦なく押し寄せてきた。

父は、次第に僕たち家族を敵視するようになった。自分の家で暮らしているはずなのに、見知らぬ場所に閉じ込められていると感じるようで、時には激しく暴れ出すこともあった。家具を倒し、叫び声を上げ、僕たちを押しのけようとする。母は懸命に父をなだめようとするが、その試みはいつも徒労に終わるばかりだった。

「あなた、落ち着いて!ここはあなたの家よ。私たちは家族なの、覚えているでしょ?」母の声は震えていた。

しかし、父の目には恐怖と混乱が映っていた。僕たちの言葉は彼の心に届かず、彼の目には僕たちが見知らぬ敵に映っているのだろう。父の顔に浮かぶその表情は、以前の彼の姿からは考えられないものだった。優しくて穏やかな父は、どこに行ってしまったのかと、胸が締め付けられる思いだった。

ある晩、父がまた暴れ出した。家の中をぐるぐると歩き回り、何かに怯えるように目を見開いていた。彼は僕たちに向かって叫んだ。「ここから出せ!お前たちは誰だ?ここはどこなんだ?」

僕は怖かった。これまでに見たこともない父の姿に、どうしていいのか分からなかった。母も涙をこらえながら必死に父を抑えようとしたが、彼の力は意外にも強く、母を振り払ってしまった。

「父さん、やめて!」僕は恐る恐る声をかけた。しかし、その声は父には届かなかった。

その瞬間、父は突然僕に向かって突進してきた。僕はとっさに後ずさりしたが、足がもつれて倒れ込んだ。父は僕を押さえつけ、その目には以前の愛情の欠片も見当たらなかった。僕の心臓は激しく鼓動し、息が詰まるような恐怖が全身を包んだ。

「お父さん、やめて!」母の叫び声が聞こえた。彼女が父に飛びかかり、何とか僕を引き離した。僕は混乱と恐怖で震えながら、その場に座り込んだ。母は父を必死になだめようとし続けたが、父はなおも暴れ、叫び続けた。

その後、どうにか父を落ち着かせることができたが、僕たちは消耗しきっていた。父は、まるで何事もなかったかのように、そのまま疲れ果てて眠りについた。僕と母は、ただ無言で彼を見守ることしかできなかった。

その夜、僕は母と二人で静かに座り、言葉を交わさずにいた。母の顔には疲労と悲しみがにじみ出ていたが、同時に彼女の目には決意の色が見えた。

「こんなことが続くなんて、耐えられない…でも、お父さんを見捨てるわけにはいかないのよね。」母は静かに言った。

僕は何も言えなかった。ただ、父がかつての父ではなくなってしまった現実に向き合うことが、あまりにも辛かったからだ。以前は頼りがいがあり、家族を守ってくれた父が、今では自分自身をも制御できない状態になってしまっている。その事実が、僕の心を重くしていた。

数日後、母は専門の医師や介護士と相談し、父のケア方法を見直すことに決めた。僕たちはできる限り父の暴力を防ぎつつ、彼にとって最も安心できる環境を作ろうと努めた。これからも続くであろう厳しい日々に備えて、母は決して諦めず、父のために最善を尽くす覚悟を固めていた。

ある夜、父が再び暴れ出す気配があった。だが、僕は今回は違った。僕は恐怖を感じながらも、父の目をじっと見つめ、優しく声をかけ続けた。

「父さん、僕だよ。僕のこと、覚えている?」

父は混乱した目を僕に向けた。彼の手が震え、力が抜けていくのを感じた。僕はその手をそっと握り締め、「大丈夫だよ、父さん」と繰り返した。

その時、父の目にかすかに浮かんだ涙が見えた。彼の目には一瞬だけ、昔の父の優しさが戻ってきたように感じた。父は何も言わず、ただ僕の手を握り返した。僕たちはそのまましばらくの間、静かに過ごした。

夜が明け、父が再び眠りにつく頃、僕は心の中で決意を固めた。どんなに辛くても、父を支えるためにここにいよう。父が僕たちを忘れてしまっても、僕は決して父を忘れない。そして、父の心の奥底に、僕たち家族の絆がまだ存在していることを信じ続けようと誓った。

アルツハイマーは、僕たちの家族から多くのものを奪っていった。でも、愛情まで奪われるわけではない。父が誰であろうと、僕たち家族の絆は永遠だと、僕は信じている。







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