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冬の唇
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『冬の唇』
冬になると、唇があれる。これは生まれてからずっと、香澄(かすみ)にとっての避けられない運命だった。どれだけ高価なリップクリームを買い、どれほど水分補給を心がけても、乾燥した冷たい空気には勝てない。裂けた唇から滲む血を舌でそっと拭うたび、冬が嫌いだと心の中で呟いた。
東京の大学に通う香澄は、帰り道のカフェでアルバイトをしている。店内は暖房でぽかぽかしているが、窓際の席に座る客たちは寒そうにコートを脱がず、指先を温かいカップに添えていた。ある日、その席に見慣れない男性が現れた。
「ジンジャーティーをください。」
彼はそう言いながら、マフラーでほとんど隠れた顔の下から、少しだけ笑みを見せた。その笑顔を見た瞬間、香澄の胸に妙な感覚が広がった。彼の唇も、ひび割れていたのだ。
「お客様、唇が荒れてますね。ジンジャーティー、温かくしてお持ちしますね。」香澄はつい、余計なことを口にしてしまった。
「ああ、そうなんです。この季節は特に酷くて。冬、苦手なんですよね。」
その一言が、香澄には自分の心を見透かされたように感じられた。
その日から彼は、週に一度必ずカフェを訪れるようになった。彼の名前は翔太(しょうた)。隣の会社でエンジニアをしているらしい。
「なんでジンジャーティーなんですか?」
香澄が聞くと、翔太は少し照れくさそうに答えた。
「風邪予防にいいって聞いたから。でも、正直に言うと、味はあまり好きじゃない。」
「じゃあ、頼まなくてもいいのに。」
「いや、香澄さんが入れてくれるから飲むんだよ。」
香澄は思わず赤くなりながら、「そんなこと言わないでください」と笑った。
クリスマスが近づくころ、香澄の唇は相変わらず荒れたままだった。しかし、翔太がカフェに来る日だけは、不思議とその痛みが気にならなかった。彼の声を聞き、ささやかな会話を交わすだけで、冷え切った冬の空気も少し暖かく感じられたのだ。
ある日、翔太は仕事帰りにカフェに現れ、香澄に一枚の袋を差し出した。
「これ、リップクリーム。実は僕がずっと使ってるやつで、結構効くんだ。試してみて。」
香澄は驚きつつも、「ありがとう」と受け取った。
「でも、どうして私に?」
翔太は少し考え込むような顔をして、それからこう答えた。
「香澄さんが、冬を嫌いにならないように、少しでも助けになればと思って。」
香澄の心が一瞬止まったようだった。優しい言葉と翔太の真剣な眼差しに、今まで感じたことのない温もりが広がる。
それから、二人の間に少しずつ距離が縮まっていった。カフェの閉店後、一緒に近くの公園を歩いたり、ホットココアを片手に夜景を見たりする時間が増えた。
冬は、相変わらず唇が荒れる季節だった。でも、その荒れた唇を、翔太が気遣ってくれることが、香澄にとって何よりの救いだった。
「来年の冬は、もっと楽しく過ごせるといいな。」
翔太のその一言に、香澄は大きくうなずいた。
冬の冷たい風が吹く中、二人の唇はまだ荒れていたけれど、その心は誰よりも温かかった。
おわり
冬になると、唇があれる。これは生まれてからずっと、香澄(かすみ)にとっての避けられない運命だった。どれだけ高価なリップクリームを買い、どれほど水分補給を心がけても、乾燥した冷たい空気には勝てない。裂けた唇から滲む血を舌でそっと拭うたび、冬が嫌いだと心の中で呟いた。
東京の大学に通う香澄は、帰り道のカフェでアルバイトをしている。店内は暖房でぽかぽかしているが、窓際の席に座る客たちは寒そうにコートを脱がず、指先を温かいカップに添えていた。ある日、その席に見慣れない男性が現れた。
「ジンジャーティーをください。」
彼はそう言いながら、マフラーでほとんど隠れた顔の下から、少しだけ笑みを見せた。その笑顔を見た瞬間、香澄の胸に妙な感覚が広がった。彼の唇も、ひび割れていたのだ。
「お客様、唇が荒れてますね。ジンジャーティー、温かくしてお持ちしますね。」香澄はつい、余計なことを口にしてしまった。
「ああ、そうなんです。この季節は特に酷くて。冬、苦手なんですよね。」
その一言が、香澄には自分の心を見透かされたように感じられた。
その日から彼は、週に一度必ずカフェを訪れるようになった。彼の名前は翔太(しょうた)。隣の会社でエンジニアをしているらしい。
「なんでジンジャーティーなんですか?」
香澄が聞くと、翔太は少し照れくさそうに答えた。
「風邪予防にいいって聞いたから。でも、正直に言うと、味はあまり好きじゃない。」
「じゃあ、頼まなくてもいいのに。」
「いや、香澄さんが入れてくれるから飲むんだよ。」
香澄は思わず赤くなりながら、「そんなこと言わないでください」と笑った。
クリスマスが近づくころ、香澄の唇は相変わらず荒れたままだった。しかし、翔太がカフェに来る日だけは、不思議とその痛みが気にならなかった。彼の声を聞き、ささやかな会話を交わすだけで、冷え切った冬の空気も少し暖かく感じられたのだ。
ある日、翔太は仕事帰りにカフェに現れ、香澄に一枚の袋を差し出した。
「これ、リップクリーム。実は僕がずっと使ってるやつで、結構効くんだ。試してみて。」
香澄は驚きつつも、「ありがとう」と受け取った。
「でも、どうして私に?」
翔太は少し考え込むような顔をして、それからこう答えた。
「香澄さんが、冬を嫌いにならないように、少しでも助けになればと思って。」
香澄の心が一瞬止まったようだった。優しい言葉と翔太の真剣な眼差しに、今まで感じたことのない温もりが広がる。
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冬は、相変わらず唇が荒れる季節だった。でも、その荒れた唇を、翔太が気遣ってくれることが、香澄にとって何よりの救いだった。
「来年の冬は、もっと楽しく過ごせるといいな。」
翔太のその一言に、香澄は大きくうなずいた。
冬の冷たい風が吹く中、二人の唇はまだ荒れていたけれど、その心は誰よりも温かかった。
おわり
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