生きる

人からしてほしいと思う通りに

「人からしてほしいと思う通りに」

久美子は、毎朝通勤する電車の中で「どうしてこんなに世の中は冷たいんだろう」と感じるようになっていた。人の波に押されて黙々と乗り込む人々、肩が触れ合っても気づかぬふり。無言の通勤ラッシュは、彼女にとって息苦しい時間だった。仕事でもプライベートでも人間関係に苦労し、少し心が疲れていたのだ。

ある日、久美子は通勤途中でふと目を引かれたフリーペーパーの一文を読んだ。「人からしてほしいと思う通りに、人にもしなさい」――ルカ 6:31。シンプルな言葉だったが、なぜか久美子の胸にじわりと響いた。

その日、久美子は職場に向かうと、あえていつもとは少し違う行動をとってみることにした。会釈だけで通り過ぎていた先輩には「おはようございます」と目を合わせてあいさつし、業務に取り組む後輩には「いつもありがとう。助かってるよ」と声をかけた。自分が少しでも優しく接すれば、相手も同じようにしてくれるのではないかという思いが、自然と心に芽生えてきたのだ。

昼休み、いつもなら一人で食事を済ませる久美子だったが、今日は同僚たちの輪に加わった。最初は戸惑ったが、いつも黙々と仕事に打ち込む後輩の佳奈の隣に座り、彼女が仕事で困っていることを尋ねてみた。

「久美子さん、実は…どうしたらいいか悩んでいたんです。相談に乗ってくれてありがとうございます」

佳奈がほっとした顔を見せたとき、久美子はその表情の柔らかさに驚いた。彼女もまた、人知れずプレッシャーを抱えていたのだ。自分が相手を気遣い、助けの手を差し伸べることで、少しでも相手の心を軽くできるのだと気づいた瞬間だった。

午後、営業先から戻った久美子は、重い荷物を抱えたままエレベーターに乗ろうとした。その時、他の同僚が「大丈夫？手伝おうか？」と声をかけてくれた。「ありがとう。でも、大丈夫だよ」と答えながら、彼女の心には温かいものが広がっていった。自分が他人にしてほしいことを相手にする姿勢が、少しずつ周りにも伝わり、戻ってきたのだろうかと感じた。

仕事が終わり、久美子はいつもと違う気持ちで帰路に着いた。駅で見かけた年配の女性が駅員に道を尋ねているのを見かけると、自然と近づいて「お手伝いしましょうか？」と声をかけた。その女性は驚きながらもにっこりとほほ笑んで「ありがとう。親切な方ですね」と礼を言った。

人に優しさを向けると、何かしらの形でそれが自分に返ってくる。あのルカの言葉が彼女の心を暖め、人との接し方を少しずつ変えてくれた。久美子は、それからも小さな行動で相手を気遣うことを続けた。

自分が変われば周りも変わる。この小さな気づきが、久美子の心に大きな安らぎをもたらしたのだった。