生きる

ひとりの食卓

 「ひとりの食卓」

静かな午後、私は小さなラーメン店に足を踏み入れた。暖簾（のれん）をくぐると、湯気と共に豚骨の香りが鼻をくすぐり、店内には柔らかな照明が溢れていた。数人の客が静かにラーメンを啜っているだけで、いつもとは違う寂しさが漂っていた。

「いらっしゃいませ」と店員が声をかける。

私はカウンターの隅に腰を下ろし、メニューも見ずにいつものラーメンを注文した。これといって特別なラーメンではない。自宅からほど近いこの店には、家族と一緒によく来ていた。いつもなら私たちは笑いながら、テーブルを囲んでラーメンを分け合い、次はどこに行こうかと楽しげに話していた。しかし、今日は私ひとり。ラーメンを注文する声も、やや震えていたかもしれない。

注文を終え、しばらくカウンター越しに湯気が立ち上る鍋をぼんやりと眺めていた。頭の中では「ごめんなさい」という言葉が何度も巡る。彼は閉鎖病棟に入院したばかりだった。家族として支え合うべきなのに、私には力が足りなかったのだ。彼の苦しみを本当の意味で理解できていたのだろうか？そんな問いが、喉元まで押し寄せてくる。

「お待たせしました。」

店員が目の前にラーメンを置いてくれる。湯気がふわりと上がり、香ばしい香りが鼻腔を満たした。これを食べたら少しは元気が出るだろうか？そう考えて箸を手に取るも、気持ちは沈むばかりだ。ラーメンを口に運ぶたびに、心の中で「ごめんなさい」と呟いていた。彼に対する謝罪なのか、それとも自分自身に対するものなのかは分からない。ただ、何かを埋め合わせるように一口一口を慎重に運んだ。

不思議と、いつもと同じラーメンが今日は少し味気なく感じられた。味覚そのものが鈍くなってしまったのかもしれない。あれほど好きだった味が、こんなにも淡白に思えるのはなぜだろう。目を閉じると、かつての笑顔や会話が浮かんでくる。ラーメンをすすりながら、彼が冗談を言って笑い合っていたあの日々が、まるで遠い過去のもののように思えた。

突然、隣の席に座っていた年配の男性が小さく独り言を呟いた。「一人の食事は味気ないもんだな…」と。私はふと視線を横に向けたが、彼もまた何かに打ちひしがれたように、静かにラーメンを啜っていた。もしかしたら、この男性も大切な誰かを失ったのかもしれない。その表情は、どこか私の心に重なるものがあった。

「そうですね…」と、私は小さく呟いた。聞こえたかどうかも分からない声だったが、その言葉を口にしたことで、少しだけ胸の奥が軽くなった気がした。自分だけではない、この重荷を背負っているのは自分ひとりではないのだと、初めて感じられた。

ラーメンを最後まで食べ終えると、どっと疲れが襲ってきた。店を出ると、冷たい風が頬に当たる。振り返ると、暖簾の向こうに灯りが揺らめいている。彼がいない食卓に戻る日々は、まだしばらく続くだろう。しかし、それでも少しずつ歩みを進めていくしかないのだ。彼が安心して戻ってこられる場所を、私が守り続けていかなければならない。

「ごめんなさい」──またその言葉が喉元まで出かかったが、私はそれをぐっと飲み込んだ。