生きる

春秋花壇

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退去届

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「退去届」

俺は昨日、管理会社に鍵を返した。半年分の家賃を滞納し、ついに観念して退去することを決めたのだ。何度も払おうと頑張ってきたが、収入は伸びず、家賃は雪だるま式に膨らんでいくばかりだった。

マンションの部屋で、俺は執筆をしていた。アルファポリスで小説を書くことが日課であり、唯一の生き甲斐でもあった。物語の中に逃げ込むことで、現実の重みから一瞬でも解放される気がしたからだ。しかし、やがて俺の生活は執筆だけでは成り立たなくなり、いつの間にか家賃の支払いが滞り始めた。

収入の足しになるはずだった小説も、思うようには売れなかった。ランキングにも載らず、読者の反応もほとんどなかった。俺の夢見た作家生活は、現実に押しつぶされてしまったようなものだった。日に日に精神のバランスを崩していく中で、ある日、ネット上で「高収入」「ホワイト案件」と謳われた怪しいバイトの募集を見つけた。心の中では「やばい」と感じつつも、かすかな好奇心が湧き上がったのも事実だった。

「このまま家賃も払えず、生きている意味があるのか?」

そんな声が頭に響いていた。だが、俺はその「ホワイト案件」に飛びつくことを思いとどまった。統合失調症の急性期に経験したことがある人ならわかるだろうが、俺には妄想や幻覚がつきまとっていた。俺を罵り、俺の存在そのものを否定する声が四六時中頭の中に響いていたのだ。

「いつまで人に迷惑をかけて生きているんだ。さっさと死ねよ」

その声は冷たく、苛烈だった。あまりにリアルな声で、俺は思わずその幻聴に従いそうになる。それでも、家族に心配をかけたくない一心で必死に耐え続けた。薬を飲み、医者にも通い、少しでもまともに生きようと努力してきた。しかし、幻覚や妄想は俺の隙間を見つけては忍び寄り、俺を追い立て続けた。

心の中の闇と戦いながら、俺は一つずつ「けじめ」をつけていくことを決意した。退去もそのひとつだ。マンションの管理会社に電話をかけ、滞納の事実を伝えた時、向こうのスタッフは冷静に「鍵を返していただければ結構です」と言った。その冷静さに、どこか安堵し、同時に自分の無力さが身に染みた。

荷物を少しずつまとめ、家を出る準備をしていた時、不意に大家さんの顔が浮かんだ。入居時、どんな理由でこの部屋を借りたのかを質問された時、俺は「小説家になりたい」と言った。その時、大家さんは少し驚いた表情をしながらも、「夢があるっていいことだよ」と励ましてくれたのだ。

大家さんの言葉は、その後の俺の支えになっていた。だが、その支えを失った今、もうその部屋で夢を追うことはできない。最後に一言でも礼を言いたいと思い、俺は手紙を書き始めた。

「退去のご挨拶」

大家さん、短い間でしたが、お世話になりました。

夢を追いかけてこの部屋に入居し、執筆を続けてきましたが、力が及ばず、このような結果になってしまいました。家賃の支払いも滞り、心配と迷惑をかけてしまったことをお詫びします。

この部屋で過ごした日々は、俺にとって大切な時間でした。執筆に集中できる場所をいただき、本当に感謝しています。思うように生きることができず、悩み苦しんでいる自分を、どうかお許しください。

最後に、もう一度だけ感謝を伝えさせてください。

ありがとうございました。ご迷惑をおかけしました。

手紙を書き終えた時、少しだけ肩の荷が下りたように感じた。退去することで俺の夢は一時途切れるが、これもひとつの「けじめ」だ。俺が今抱えている闇から、少しでも抜け出すために必要なことだと思った。

鍵を管理会社に返却した後、俺は街の中を当てもなく歩いた。夜の東京は眩い光が溢れ、人々の活気で溢れている。だが、その光がどこか遠く、別世界のように思えた。すれ違う人々の笑顔や楽しげな声が、なぜか心に重く響く。

「俺もあんなふうに笑えたら…」

そう思ったが、頭の中で冷たい声が響く。

「お前はそんな資格があるのか?」

その言葉に反論する元気もなく、ただ歩き続けた。周りにはカップルや友人たちが笑い合い、温かな空気が漂っている。自分だけがその流れから取り残され、どこにも居場所がないような気がした。

けれども、俺はふと思い返した。確かに闇バイトに手を出さなかっただけでも、今の俺には小さな「誇り」があると。簡単に手を出せば、もっと深い闇に沈んでいたかもしれない。幻覚や幻聴がどれだけ俺を追い詰めても、それでも罪を犯すことなくここまで耐えてきた。俺は自分にそう言い聞かせることで、なんとか心を保つしかなかった。

歩き疲れ、俺は小さな公園のベンチに腰を下ろした。しんと静まり返った公園には冷たい風が吹き抜け、秋の深まりを感じさせた。だが、俺の心は少しずつ静かに、冷えた体の奥に微かな温もりが宿っているのを感じた。周囲の無関心が、逆に俺を少しだけ安堵させてくれる気がした。

「まだ、終わっちゃいない」

どんなに小さくても、一つずつけじめをつけながら生きていけば、もしかしたらいつか、自分を取り戻せる日が来るかもしれない。俺はそう信じたかった。誰にも迷惑をかけず、もう一度自分の足で立ち上がれる日が来ることを、心のどこかで信じている自分がいると感じたからだ。

俺は公園の風に身を任せ、深く息を吸い込んだ。そして、闇の中にあっても、わずかな希望を見失わないように前を向こうと誓った。

明日からの俺がどうなるかはわからない。だが、今夜だけは、ささやかな安堵の中で眠ろうと思った。

東京温度12℃、湿度47%。

月曜日に精神病院に入院する予定だが、予定は未定なのだ。
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