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女のブルース
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女のブルース
雨がしとしとと降り続く夜、薄暗い街角の小さなバーに、一人の女が静かに入ってきた。彼女の名は美沙子(みさこ)。深い紺色のワンピースを身にまとい、髪を無造作に束ねている。顔には疲労とわずかな悲しみが浮かんでいた。
カウンターの端に座ると、バーテンダーが無言でグラスを差し出す。いつものように、ウイスキーのロックが目の前に置かれた。
「今日も変わらないんだね」
バーテンダーがさりげなく話しかけるが、美沙子は何も答えず、ただグラスを見つめていた。その琥珀色の液体は、彼女の心の奥底にある何かを映しているかのようだ。
40歳を過ぎた今、彼女は人生の岐路に立っていた。結婚生活は10年以上続いたものの、愛情が冷めきり、夫とはすれ違いの日々。仕事も一時は順調だったが、最近は社内の若手に押され、居場所を失いつつある。友人たちも家庭を持ち、疎遠になってしまった。子どももいない。孤独感が彼女を支配し、夜毎にこのバーに足を運ぶのが唯一の安らぎになっていた。
「私の人生って、なんだったんだろう……」
ふと、美沙子はそう呟いた。誰にも聞かれることのない、弱々しい声。彼女自身、問いかけの答えを求めていない。ただ、自分の中にあるモヤモヤした感情を少しでも外に出したかったのだ。
「女のブルース、か……」
美沙子は自嘲気味に笑った。いつも聞いている歌謡曲が、まるで自分の人生そのもののように思えてくる。愛、別れ、裏切り、そして孤独。それらはすべて彼女の人生に根を下ろしていた。
その時、カウンターの向こうで静かにグラスを磨いていたバーテンダーが、少し顔を上げた。
「人生は、そんなに悪くないさ。少し休んで、また歩き出せばいいんだ。」
彼の言葉は柔らかかったが、美沙子の心に少しだけ波紋を投げかけた。彼女はウイスキーを一口飲み込み、その苦さが口の中に広がるのを感じた。
「休むって、どうすればいいのか分からないのよ。ずっと走り続けてきたから、止まる方法が分からない……」
美沙子は顔を伏せ、再びグラスに視線を戻した。彼女の言葉には、人生の重さが込められている。
「誰でも迷うものさ。時には、自分自身を見つめ直すのも必要だよ。」
バーテンダーの静かな声が、彼女の心に少しだけ温かさをもたらした。美沙子は、彼の言葉に耳を傾けながら、自分のこれまでの人生を思い返していた。仕事に打ち込んできた自分、家庭を支えようとした自分。それが今、何のためだったのか分からなくなっていた。
しかし、バーテンダーの言葉が少しずつ彼女の心を和らげていた。人生が辛くても、そこにはまだ何かがあるのかもしれない。そんな小さな希望の火が、心の奥底で揺らいでいた。
美沙子が再びウイスキーを口に運び、その苦みを感じながら沈黙していると、バーテンダーがぽつりと話し始めた。
「俺もね、同じように迷っていた時期があったんだよ。」
その言葉に美沙子は少し驚き、彼を見上げた。いつも寡黙で物静かなバーテンダーが、自らの過去を語るとは思っていなかった。
「若い頃は夢があったんだ。音楽で食べていくって。バンド仲間と毎晩、ライブハウスで演奏していた。でもね、現実は厳しかった。仲間が次々と離れていって、結局、一人になったんだ。」
彼の声には、どこか遠い過去を振り返るような寂しさがあった。美沙子はその声に耳を傾けた。
「気がついたら、何も残っていなかった。夢も、仲間も、そして大切に思っていた恋人も、みんな俺の元を去っていったんだよ。」
彼は一瞬、グラスを磨く手を止め、美沙子の目を見た。
「それでもね、俺はなんとか生き延びてきたんだ。このバーを始めて、ここに来るお客さんと話すことで、少しずつ自分を取り戻せた。だから、君が今どう感じているのか、少しだけ分かる気がする。」
美沙子は驚いていた。いつもは穏やかな顔で客を迎えるこのバーテンダーにも、そんな過去があったのだ。そして、その過去が彼を今のような優しさを持つ人間に変えたのだと理解した。
「……ありがとう。」
美沙子は小さな声でそう言った。彼の過去を知り、自分が一人ではないことに少しだけ救われた気がした。人生が辛くても、誰もが苦しみを抱えながら生きている。それを知っただけでも、彼女の心は少しだけ軽くなった。
外の雨はまだ降り続いている。美沙子はカウンターに置かれたグラスを見つめながら、明日もまたここに来ることを決めた。
美沙子は、ふと微笑みを浮かべた。バーテンダーの話を聞いたことで、彼の過去が今の彼を支えているように、彼女自身も今の苦しみや悩みがいつか自分の未来を形作る一部になるのかもしれないと思えたからだ。
「自分を見つめ直すか……簡単なことじゃないわね。」
そう呟きながらも、少しだけ肩の力が抜けていくのを感じた。今までの自分は、常に何かに追われるように生きてきた。夫との関係や仕事のプレッシャーに押しつぶされそうになりながら、それでも前に進もうとしていた。でも、今は少し立ち止まってもいいのかもしれない。自分を取り戻すために。
「少し休んでみる。私、何をしたいのか、もう一度考えてみるわ。」
バーテンダーは静かに頷いた。
「それでいいと思うよ。焦らなくても大丈夫だ。」
美沙子はグラスを手に取り、最後の一口を飲み干した。その苦さが、これまでの痛みや辛さと一緒に喉を通り抜けていくような気がした。これからの自分の人生がどうなるかは分からない。だが、少なくとも今夜、彼女は少しだけ前を向けるようになった。
「ありがとう。また、来るわね。」
カウンターから立ち上がり、コートを羽織ると、彼女はバーテンダーにそう言って微笑んだ。彼は優しい眼差しで彼女を見送った。
「いつでも待ってるよ。」
美沙子は雨の降る夜の街へと足を踏み出した。傘をさすと、冷たい雨がコートに染み込んでいく感覚が少しだけ心地よかった。この雨の中でも、何か新しいものが芽生えているような気がした。
彼女の足は自然と早まった。新しい明日が、すぐそこに待っている気がしたからだ。
雨がしとしとと降り続く夜、薄暗い街角の小さなバーに、一人の女が静かに入ってきた。彼女の名は美沙子(みさこ)。深い紺色のワンピースを身にまとい、髪を無造作に束ねている。顔には疲労とわずかな悲しみが浮かんでいた。
カウンターの端に座ると、バーテンダーが無言でグラスを差し出す。いつものように、ウイスキーのロックが目の前に置かれた。
「今日も変わらないんだね」
バーテンダーがさりげなく話しかけるが、美沙子は何も答えず、ただグラスを見つめていた。その琥珀色の液体は、彼女の心の奥底にある何かを映しているかのようだ。
40歳を過ぎた今、彼女は人生の岐路に立っていた。結婚生活は10年以上続いたものの、愛情が冷めきり、夫とはすれ違いの日々。仕事も一時は順調だったが、最近は社内の若手に押され、居場所を失いつつある。友人たちも家庭を持ち、疎遠になってしまった。子どももいない。孤独感が彼女を支配し、夜毎にこのバーに足を運ぶのが唯一の安らぎになっていた。
「私の人生って、なんだったんだろう……」
ふと、美沙子はそう呟いた。誰にも聞かれることのない、弱々しい声。彼女自身、問いかけの答えを求めていない。ただ、自分の中にあるモヤモヤした感情を少しでも外に出したかったのだ。
「女のブルース、か……」
美沙子は自嘲気味に笑った。いつも聞いている歌謡曲が、まるで自分の人生そのもののように思えてくる。愛、別れ、裏切り、そして孤独。それらはすべて彼女の人生に根を下ろしていた。
その時、カウンターの向こうで静かにグラスを磨いていたバーテンダーが、少し顔を上げた。
「人生は、そんなに悪くないさ。少し休んで、また歩き出せばいいんだ。」
彼の言葉は柔らかかったが、美沙子の心に少しだけ波紋を投げかけた。彼女はウイスキーを一口飲み込み、その苦さが口の中に広がるのを感じた。
「休むって、どうすればいいのか分からないのよ。ずっと走り続けてきたから、止まる方法が分からない……」
美沙子は顔を伏せ、再びグラスに視線を戻した。彼女の言葉には、人生の重さが込められている。
「誰でも迷うものさ。時には、自分自身を見つめ直すのも必要だよ。」
バーテンダーの静かな声が、彼女の心に少しだけ温かさをもたらした。美沙子は、彼の言葉に耳を傾けながら、自分のこれまでの人生を思い返していた。仕事に打ち込んできた自分、家庭を支えようとした自分。それが今、何のためだったのか分からなくなっていた。
しかし、バーテンダーの言葉が少しずつ彼女の心を和らげていた。人生が辛くても、そこにはまだ何かがあるのかもしれない。そんな小さな希望の火が、心の奥底で揺らいでいた。
美沙子が再びウイスキーを口に運び、その苦みを感じながら沈黙していると、バーテンダーがぽつりと話し始めた。
「俺もね、同じように迷っていた時期があったんだよ。」
その言葉に美沙子は少し驚き、彼を見上げた。いつも寡黙で物静かなバーテンダーが、自らの過去を語るとは思っていなかった。
「若い頃は夢があったんだ。音楽で食べていくって。バンド仲間と毎晩、ライブハウスで演奏していた。でもね、現実は厳しかった。仲間が次々と離れていって、結局、一人になったんだ。」
彼の声には、どこか遠い過去を振り返るような寂しさがあった。美沙子はその声に耳を傾けた。
「気がついたら、何も残っていなかった。夢も、仲間も、そして大切に思っていた恋人も、みんな俺の元を去っていったんだよ。」
彼は一瞬、グラスを磨く手を止め、美沙子の目を見た。
「それでもね、俺はなんとか生き延びてきたんだ。このバーを始めて、ここに来るお客さんと話すことで、少しずつ自分を取り戻せた。だから、君が今どう感じているのか、少しだけ分かる気がする。」
美沙子は驚いていた。いつもは穏やかな顔で客を迎えるこのバーテンダーにも、そんな過去があったのだ。そして、その過去が彼を今のような優しさを持つ人間に変えたのだと理解した。
「……ありがとう。」
美沙子は小さな声でそう言った。彼の過去を知り、自分が一人ではないことに少しだけ救われた気がした。人生が辛くても、誰もが苦しみを抱えながら生きている。それを知っただけでも、彼女の心は少しだけ軽くなった。
外の雨はまだ降り続いている。美沙子はカウンターに置かれたグラスを見つめながら、明日もまたここに来ることを決めた。
美沙子は、ふと微笑みを浮かべた。バーテンダーの話を聞いたことで、彼の過去が今の彼を支えているように、彼女自身も今の苦しみや悩みがいつか自分の未来を形作る一部になるのかもしれないと思えたからだ。
「自分を見つめ直すか……簡単なことじゃないわね。」
そう呟きながらも、少しだけ肩の力が抜けていくのを感じた。今までの自分は、常に何かに追われるように生きてきた。夫との関係や仕事のプレッシャーに押しつぶされそうになりながら、それでも前に進もうとしていた。でも、今は少し立ち止まってもいいのかもしれない。自分を取り戻すために。
「少し休んでみる。私、何をしたいのか、もう一度考えてみるわ。」
バーテンダーは静かに頷いた。
「それでいいと思うよ。焦らなくても大丈夫だ。」
美沙子はグラスを手に取り、最後の一口を飲み干した。その苦さが、これまでの痛みや辛さと一緒に喉を通り抜けていくような気がした。これからの自分の人生がどうなるかは分からない。だが、少なくとも今夜、彼女は少しだけ前を向けるようになった。
「ありがとう。また、来るわね。」
カウンターから立ち上がり、コートを羽織ると、彼女はバーテンダーにそう言って微笑んだ。彼は優しい眼差しで彼女を見送った。
「いつでも待ってるよ。」
美沙子は雨の降る夜の街へと足を踏み出した。傘をさすと、冷たい雨がコートに染み込んでいく感覚が少しだけ心地よかった。この雨の中でも、何か新しいものが芽生えているような気がした。
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