生きる

取説が読めない

取説が読めない

「またか…」恵美はため息をつきながら、新しいルーターの箱を開けた。古いルーターが先週から不調で、インターネットが頻繁に途切れていたため、ようやく新しいものを買ってきたのだ。しかし、問題はそこから始まる。彼女にとって、何よりも恐ろしいのは「取扱説明書」だった。

取扱説明書は、彼女にとって単なる紙の束以上の存在だった。それはまるで魔法の呪文が書かれた難解な書物であり、どれだけ頑張ってもその内容を理解することができない。文字はそこにあるのに、どうしても頭の中で一つの意味のある文章として繋がらないのだ。

彼女は以前から自分に「ディスレクシア（識字障害）」があることを知っていた。学生の頃から文字を読むのが人一倍苦手で、試験の問題文を解読するのにも時間がかかった。しかし、大人になってからもその困難は続いている。メールやニュースを読むことも苦労するし、特に説明書やマニュアルは、彼女にとって乗り越えられない壁のように感じられた。

「とりあえずやってみよう…」

そう自分に言い聞かせて、恵美は説明書を開く。文字が並んでいる。黒いインクが白い紙の上で踊るように、ページ全体が歪んで見える。彼女は目を凝らし、一文一文を読み解こうとするが、途中で何が書いてあるのかわからなくなる。文字がぼやけ、意味が飛んでしまう。

「まずは…ルーターに電源を…」彼女は声に出して読もうとするが、すぐに混乱してしまった。文字が正しい順番で並んでいるのかさえ、自信がなくなってくる。

「なんで、こんな簡単なことができないの？」自分に対する苛立ちが募る。普通の人なら簡単にできることなのに、どうして自分はこんなにも苦しんでいるのだろう。取扱説明書が読めないことが、彼女にとってはまるで自分の無力さを突きつけられる瞬間のように感じられた。

「わたし、できない…」涙が滲んできた。

それでも、恵美は諦めなかった。彼女は何度も説明書を読み返し、インターネットで「ルーターの設置方法」を検索してみたが、それもまた文字の海に溺れる結果となった。動画なら何とかなるかもしれないと思い、動画を見つけたが、説明が早すぎてついていけない。

時間だけが過ぎていく。時計を見ると、もう夕方だ。朝からずっと取り組んでいるのに、ルーターの設置は一向に進んでいない。パーツは机の上に散らばり、ケーブルも絡まり合ったままだ。

その時、ふと携帯が鳴った。画面には「お母さん」の名前が表示されている。

「恵美、大丈夫？何してるの？」母親の優しい声が電話越しに響く。

「ルーターがね…新しいの買ったんだけど、設置できなくて…」恵美はできるだけ平静を装いながら答えたが、声には疲れがにじんでいた。

「また説明書で苦労してるの？」母親はすぐに察してくれた。

「うん…何度読んでも、意味がわからないんだ。何でみんな簡単にできるのに、私だけできないんだろうって思っちゃう…」

「恵美、無理しなくていいのよ。あなたにはあなたのペースがあるんだから、焦らなくて大丈夫。ちょっと待ってて、今からそっちに行くから。」

母親の言葉に少しだけ救われた気がした。しばらくして、母親が到着すると、恵美の心の重荷が少しずつ軽くなっていくのを感じた。母親は手慣れた様子で説明書を手に取り、何の苦労もなくルーターの設置を進めていった。

「ほら、これでいいのよ」と母親が言ったとき、ルーターのランプが無事に点灯した。インターネットも正常に接続され、いつもの画面がパソコンに映し出される。

「ありがとう、お母さん…」恵美はホッとしながらも、少し複雑な気持ちだった。母親がいてくれることには感謝しているが、やはり自分一人ではできなかったという事実が彼女の心に引っかかっていた。

「恵美、取扱説明書を読めないことなんて、恥ずかしいことじゃないのよ。」母親は優しく微笑みながら続けた。「できないことがあれば、誰かに頼ればいい。それも一つの力だから。」

恵美はその言葉を胸に刻んだ。彼女はディスレクシアを抱えながら生きている。それは確かに時に厄介なものだが、それでも彼女は自分の方法で人生を歩んでいる。取扱説明書が読めなくても、ルーターが自分一人で設置できなくても、それでいいのだ。

その夜、恵美はようやくインターネットが使えるようになったパソコンを前に座りながら、母親の言葉を思い返していた。自分にできないことを受け入れ、助けを求める勇気。それもまた、大切な力だということに気づいたのだ。