生きる

失われた時間

失われた時間

山田直樹は、まさにその「企業戦士」の一人だった。40代の保険外交員であり、会社の「今が正念場だ」というスローガンを信じて、150%の力で毎日働いていた。彼の一日は、早朝から夜遅くまで会議や商談で埋め尽くされ、常に車で各地を回っていた。月に約3,000キロメートル走ることは珍しくなく、帰宅は深夜が常だった。

家に帰ると、家族はすでに眠っている。妻の美紀子は心配している様子だったが、彼に何も言わなかった。二人の子供たちは父親との時間をほとんど持てなかったが、彼はそれを「家族を支えるためだ」と自分に言い聞かせていた。仕事は彼のアイデンティティであり、会社への貢献が全てだと思い込んでいた。

その日は、特に忙しい一日だった。朝から夕方まで商談が続き、昼食を取る暇すらなかった。夕方には、また次の顧客を訪問するために高速道路を飛ばしていた。頭痛がする。最近よく感じるようになった鈍い痛みだが、彼はそれを気に留めなかった。「あと少しだ。あと一件だけこなせば今日は終わる」そう自分に言い聞かせ、アクセルを踏んだ。

目的地に着いたとき、彼はふらふらと車から降り、胸に強い痛みを感じた。目の前がぐるぐると回り、吐き気が襲ってきた。何とか車に戻ると、力尽きたようにシートに倒れ込み、鞄だけはしっかりと握りしめていた。その鞄は、彼の仕事そのものを象徴していたのだ。

四日後、彼は病院で亡くなった。死因は急性心不全。医者は彼の体に蓄積された過労が直接の原因だと指摘したが、家族にはそのことがすぐには理解できなかった。妻の美紀子は、直樹が亡くなるまで、彼が自分の体を限界まで酷使していたことに気づかなかった。

葬儀が終わった後、家の中は静まり返っていた。美紀子は彼の机の上に置かれた鞄をじっと見つめていた。直樹の最後の瞬間まで、彼はその鞄を離さなかった。まるで、鞄が彼の人生そのものを象徴しているかのようだった。中には、彼の手書きのメモや書類、そして彼が取引先との商談に使っていた資料が詰まっていた。

彼の死後、美紀子はふと気づいた。直樹は家族のために働いていたはずだったが、その結果、家族との時間を犠牲にし、自分自身の健康さえも犠牲にしてしまった。そして、その結果は最も悲しい形で表れてしまったのだ。

彼女は静かに鞄を開け、その中から一枚の手紙を見つけた。それは直樹が自分宛に書いた未送信の手紙だった。

「美紀子へ、いつも僕の無茶な働き方を黙って見守ってくれてありがとう。本当は君に謝りたい。君や子供たちと過ごす時間をもっと大切にするべきだった。でも、仕事が大切だと思ってしまっていたんだ。これからは、もう少し君たちと時間を過ごすつもりだ。ちゃんと休んで、家族を大切にするよ。」

美紀子は涙を流しながら、手紙をそっと胸に抱きしめた。直樹が気づいたのは、もう手遅れだった。しかし、美紀子は決意した。彼の遺志を無駄にしないように、子供たちと共に新しい生活を築いていくと。

過労死という現実は、直樹だけのものではなかった。彼のように多くの人々が、仕事のプレッシャーに押しつぶされ、健康を害していく。そして、彼らの家族はその悲しみと共に生きていかなければならないのだ。

直樹の死から学ぶべき教訓は、仕事だけが全てではないということ。健康、家族、そして自分自身を大切にすることが、真の意味での「働く」ということなのだと、美紀子は心の中で誓った。