生きる

影の中で

「影の中で」

中村美和は会社のデスクで資料を見つめながら、心の中にじわりと広がる不安感に気づいていた。手元にあるプレゼンの準備はほとんどできているはずだったが、何もかもがうまくいかない気がして、焦りが募る。数週間前から、会社にいるだけで胸が締めつけられるような感覚に襲われることが増えた。

「こんなはずじゃなかったのに……」

彼女は心の中で何度も呟く。入社して2年目、初めは理想の仕事だと思っていた。新卒で入社した大手広告会社でのキャリアは順風満帆に見えた。周囲からも期待され、自分自身もその期待に応えるために頑張ってきた。しかし、次第に業務のプレッシャーが重くのしかかり、上司からの厳しい指摘や周囲の評価に対する過敏な反応が美和の心を疲弊させていった。

「最近、遅れてるね。やる気がないの？」

上司の冷たい声が脳裏にこびりついて離れない。何度も反省し、自分を責めた。今度こそミスをしないように、と強く思うたびに、逆に手が震え、仕事がうまく進まなくなる。それがまた自己嫌悪を生み、さらに焦燥感が募るという悪循環に陥っていた。

仕事を終えて自宅に帰ると、疲れ果てた体をベッドに横たえた。だが、眠れない。時計を見るたびに、明日の仕事が不安で仕方がなくなる。次第に、週末ですら心が休まることがなくなっていった。友人と会う気力もなくなり、部屋にこもって泣く夜が増えていく。

ある日、とうとう出社できなくなった。朝、目が覚めた時、全身が鉛のように重く、布団から起き上がることができなかった。頭の中では「行かなければ」と何度も繰り返されるが、体が動かない。携帯電話を手に取り、上司に休む旨のメッセージを打つのも精一杯だった。

その日は一日中ベッドに横たわっていた。気づけば夕方になり、部屋の中は暗くなっていた。美和はカーテンを引くことさえできず、暗闇の中でじっとしていた。その時、ふと「このままじゃいけない」と思った。

翌日、彼女は会社に「もう一度話がしたい」と連絡を入れ、休暇を申請した。心の中では「逃げているだけだ」と自分を責める声が聞こえたが、それ以上無理をして働き続けることはできなかった。

その後、美和は心療内科を受診し、適応障害と診断された。適応障害とは、環境の変化やストレスに対してうまく適応できず、精神的な症状が現れる状態だと説明された。医師からは、しばらく仕事を休み、リラックスできる時間を持つことを勧められた。彼女は、自分が心の中でずっと無理をしていたことに気づかされた。

「仕事ができない自分なんて価値がない」

そう感じていた美和は、少しずつその考えが間違っていたことに気づき始めた。家で過ごす時間が増える中で、彼女は自分を責めることをやめ、少しずつ自分を受け入れられるようになった。毎日を乗り越えるために必死だったが、その「必死さ」自体が自分を追い詰めていたことに気づいたのだ。

ある日、彼女は久しぶりに公園を散歩していた。木々の緑が心を落ち着かせる。風に揺れる葉の音が、今まで感じたことのない静かな癒しをもたらした。

「少し、休んでもいいんだ」

自分にそう言い聞かせると、今までの焦りや不安が少しだけ和らいだ気がした。

適応障害という診断を受けたことが、彼女にとって最初はショックだった。自分が「病気」であるという現実に向き合うのは辛かった。しかし、その後の時間を経て、彼女は少しずつ自分のペースを取り戻し始めていた。

それでも、完全に回復するまでにはまだ時間がかかるだろう。だけど、美和は今、少しずつでも前に進んでいるという感覚を持てていた。それが何よりも大事なことだった。

――仕事は大切だけど、自分自身を見失わないことがもっと大切。美和は、これからの人生でそのバランスを取るための方法を見つけていく決意を新たにした。暗闇の中で見つけた一筋の光。それを頼りに、彼女はもう一度歩き出す準備をしていた。