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任意入院
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「任意入院」
静かな病院の一室。薄いカーテン越しに、夕方のやわらかな光が差し込んでいる。私はその光景をぼんやりと見つめながら、自分がここにいることの現実感がいまだに掴めずにいた。
「どうして、こうなってしまったんだろう……」
それが頭の中を何度も巡る。私は、自らの意思でこの精神科病院に入院した。いわゆる「任意入院」という形だったが、心の中には複雑な感情が渦巻いていた。私は本当に自分の意思でここに来たのか、それとも追い詰められて、逃げ場がなくなった結果だったのか。答えはまだ出ていない。
数か月前から、私はおかしくなっていた。何もかもがうまくいかなくなり、心が限界を超えてしまったのだ。夜眠れない日々が続き、仕事では常にミスを重ねた。友人との付き合いも次第に億劫になり、家にこもりがちになっていった。
「もう、頑張れない……」
その思いが頭から離れず、ふとした瞬間に泣き出すことも増えた。理由は分からない。ただ、心がどんどん壊れていくのを感じるだけだった。
周りの人たちは、私が異変を隠そうとしていることに気づいていたのかもしれない。親しい友人や家族からも、何度か「大丈夫?」と声をかけられた。しかし私はそのたびに、「大丈夫だよ」と答えていた。自分の弱さを認めることができなかったのだ。
だが、限界は突然やってくる。
ある夜、私はふとしたことで感情が爆発し、手にしていたコップを床に叩きつけた。割れたガラスの破片が散らばり、その光景を見た瞬間、自分がもう正常ではないことをはっきりと悟った。
その翌日、私はインターネットで「精神科」を検索し、最寄りの病院に電話をかけた。診察を予約し、恐る恐る病院を訪ねた。医師の前に座り、私の状況を話すことさえ、ものすごい勇気が必要だった。
「最近、ずっと調子が悪くて……何もかもが嫌になってしまって……」
医師は静かに私の話を聞いていた。診察の後、彼は穏やかにこう言った。
「あなたの状態は、かなり疲弊していますね。無理をしないで、少し休むことを考えた方がいいかもしれません。もし良ければ、入院して、治療に専念することも一つの方法です。」
その提案に、私は最初驚いた。入院? 私はそこまで追い詰められているのか? だが、反射的に断ることもできず、考える時間が欲しいと言って、その日は病院を後にした。
帰り道、心の中で葛藤が渦巻いていた。入院なんて、自分には必要ないのではないか? それとも、もう逃げ場はないのか? しかし、次第に自分でもどうしようもない状況にあることを認め始めた。私は疲れ切っていて、一人ではこの状態を乗り越えられない——それが現実だった。
数日後、私は再び病院を訪れ、任意での入院を決意した。医師は私の決断に理解を示し、すぐに手続きを進めてくれた。こうして、私はこの病院の一室に閉じこもることになった。
入院生活は想像以上に静かだった。朝は早く起き、食事を摂り、医師やカウンセラーとの面談を受ける。それ以外の時間は、ほとんど何もすることがない。外出もできないし、スマートフォンも持ち込むことはできない。テレビもあるが、特に見る気はしない。部屋に閉じこもり、ただ時間が過ぎていくのを感じるしかなかった。
最初の数日は、それが辛かった。自分が何をしているのか分からなくなり、孤独感が増していく。しかし、その孤独の中で、私は少しずつ自分と向き合う時間を持つようになった。これまで目を背けてきた心の痛みや、隠してきた不安が、次第に浮かび上がってきたのだ。
ある日、カウンセラーとの面談中、私は思い切って自分の気持ちを話してみた。
「私は、何をしても誰かに迷惑をかけてしまっている気がして……自分が嫌になるんです。そんな自分がここにいていいのか、分からなくて……」
カウンセラーはしばらく黙った後、優しく答えた。
「あなたが自分を責めてしまうのは、これまで頑張りすぎてきたからです。何もかも完璧にしようとする気持ちは素晴らしいですが、同時に自分自身に厳しすぎることもあるんですよ。少しずつ、その負担を下ろしていきましょう。」
その言葉に、私は不思議と安堵した。自分がこれまでどれだけ自分を追い詰めてきたのか、初めてはっきりと認識できたからだ。私は人に頼ることが苦手で、何もかも自分で解決しようとしていた。それが、逆に自分を壊していたのだ。
入院してから二週間が過ぎ、私は少しずつ元気を取り戻し始めた。完全に回復したわけではないが、少なくとも自分を責める気持ちは和らいでいた。そして、何よりも「休むこと」が許されるという事実に、心が軽くなっていくのを感じた。
退院の日、私は少し緊張しながらも、外の世界に戻る準備ができていた。病院を出ると、久しぶりに新鮮な空気が肺に入ってきた。木々の緑、青空、遠くで聞こえる車の音——すべてが新鮮に感じられた。
家に帰る道すがら、私はふと思った。自分が病院に入院したことは、決して失敗ではなかった。むしろ、あの時間があったからこそ、今ここに立っていることができる。そう思えるようになった。
任意入院は、私にとって人生のリセットボタンのようなものだった。逃げるための場所ではなく、自分を見つめ直すための時間だった。これからも不安や困難はあるだろうが、今なら少しずつ、それに向き合っていける気がする。
「もう無理をしないでいい」
そう自分に言い聞かせながら、私は新しい一歩を踏み出した。
静かな病院の一室。薄いカーテン越しに、夕方のやわらかな光が差し込んでいる。私はその光景をぼんやりと見つめながら、自分がここにいることの現実感がいまだに掴めずにいた。
「どうして、こうなってしまったんだろう……」
それが頭の中を何度も巡る。私は、自らの意思でこの精神科病院に入院した。いわゆる「任意入院」という形だったが、心の中には複雑な感情が渦巻いていた。私は本当に自分の意思でここに来たのか、それとも追い詰められて、逃げ場がなくなった結果だったのか。答えはまだ出ていない。
数か月前から、私はおかしくなっていた。何もかもがうまくいかなくなり、心が限界を超えてしまったのだ。夜眠れない日々が続き、仕事では常にミスを重ねた。友人との付き合いも次第に億劫になり、家にこもりがちになっていった。
「もう、頑張れない……」
その思いが頭から離れず、ふとした瞬間に泣き出すことも増えた。理由は分からない。ただ、心がどんどん壊れていくのを感じるだけだった。
周りの人たちは、私が異変を隠そうとしていることに気づいていたのかもしれない。親しい友人や家族からも、何度か「大丈夫?」と声をかけられた。しかし私はそのたびに、「大丈夫だよ」と答えていた。自分の弱さを認めることができなかったのだ。
だが、限界は突然やってくる。
ある夜、私はふとしたことで感情が爆発し、手にしていたコップを床に叩きつけた。割れたガラスの破片が散らばり、その光景を見た瞬間、自分がもう正常ではないことをはっきりと悟った。
その翌日、私はインターネットで「精神科」を検索し、最寄りの病院に電話をかけた。診察を予約し、恐る恐る病院を訪ねた。医師の前に座り、私の状況を話すことさえ、ものすごい勇気が必要だった。
「最近、ずっと調子が悪くて……何もかもが嫌になってしまって……」
医師は静かに私の話を聞いていた。診察の後、彼は穏やかにこう言った。
「あなたの状態は、かなり疲弊していますね。無理をしないで、少し休むことを考えた方がいいかもしれません。もし良ければ、入院して、治療に専念することも一つの方法です。」
その提案に、私は最初驚いた。入院? 私はそこまで追い詰められているのか? だが、反射的に断ることもできず、考える時間が欲しいと言って、その日は病院を後にした。
帰り道、心の中で葛藤が渦巻いていた。入院なんて、自分には必要ないのではないか? それとも、もう逃げ場はないのか? しかし、次第に自分でもどうしようもない状況にあることを認め始めた。私は疲れ切っていて、一人ではこの状態を乗り越えられない——それが現実だった。
数日後、私は再び病院を訪れ、任意での入院を決意した。医師は私の決断に理解を示し、すぐに手続きを進めてくれた。こうして、私はこの病院の一室に閉じこもることになった。
入院生活は想像以上に静かだった。朝は早く起き、食事を摂り、医師やカウンセラーとの面談を受ける。それ以外の時間は、ほとんど何もすることがない。外出もできないし、スマートフォンも持ち込むことはできない。テレビもあるが、特に見る気はしない。部屋に閉じこもり、ただ時間が過ぎていくのを感じるしかなかった。
最初の数日は、それが辛かった。自分が何をしているのか分からなくなり、孤独感が増していく。しかし、その孤独の中で、私は少しずつ自分と向き合う時間を持つようになった。これまで目を背けてきた心の痛みや、隠してきた不安が、次第に浮かび上がってきたのだ。
ある日、カウンセラーとの面談中、私は思い切って自分の気持ちを話してみた。
「私は、何をしても誰かに迷惑をかけてしまっている気がして……自分が嫌になるんです。そんな自分がここにいていいのか、分からなくて……」
カウンセラーはしばらく黙った後、優しく答えた。
「あなたが自分を責めてしまうのは、これまで頑張りすぎてきたからです。何もかも完璧にしようとする気持ちは素晴らしいですが、同時に自分自身に厳しすぎることもあるんですよ。少しずつ、その負担を下ろしていきましょう。」
その言葉に、私は不思議と安堵した。自分がこれまでどれだけ自分を追い詰めてきたのか、初めてはっきりと認識できたからだ。私は人に頼ることが苦手で、何もかも自分で解決しようとしていた。それが、逆に自分を壊していたのだ。
入院してから二週間が過ぎ、私は少しずつ元気を取り戻し始めた。完全に回復したわけではないが、少なくとも自分を責める気持ちは和らいでいた。そして、何よりも「休むこと」が許されるという事実に、心が軽くなっていくのを感じた。
退院の日、私は少し緊張しながらも、外の世界に戻る準備ができていた。病院を出ると、久しぶりに新鮮な空気が肺に入ってきた。木々の緑、青空、遠くで聞こえる車の音——すべてが新鮮に感じられた。
家に帰る道すがら、私はふと思った。自分が病院に入院したことは、決して失敗ではなかった。むしろ、あの時間があったからこそ、今ここに立っていることができる。そう思えるようになった。
任意入院は、私にとって人生のリセットボタンのようなものだった。逃げるための場所ではなく、自分を見つめ直すための時間だった。これからも不安や困難はあるだろうが、今なら少しずつ、それに向き合っていける気がする。
「もう無理をしないでいい」
そう自分に言い聞かせながら、私は新しい一歩を踏み出した。
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