生きる

春秋花壇

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希死念慮こそなくなったけれど

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「希死念慮こそなくなったけれど」

詩織は机の前に座り、無造作に散らばった書類や筆記用具をぼんやりと見つめていた。いつものことだ。片付けようと思っても、手がつかない。何度もやりかけては途中で忘れてしまう。それどころか、書類の山を見るだけで気が滅入る。注意欠陥多動性障害、ADHDと診断されたのは高校生のときだった。以来、彼女の人生は常に「何かを忘れている」感覚に支配されていた。

「もう少し普通に生きられないだろうか」と、彼女は何度も心の中でつぶやく。日常の些細なことさえ、詩織にとっては全力を尽くさなければならない戦いのようだった。食事を忘れることも、約束をすっぽかすことも、つい先ほどまで話していたことさえも忘れてしまう。それを取り繕うために、詩織はいつも自分を責め続けてきた。

数年前までは希死念慮が彼女を支配していた。どれだけ努力しても、誰かと同じように日常を送ることができない自分を、詩織は許せなかった。「いなくなったほうが楽だろう」と、何度も考えた。しかし、家族や友人の存在が、彼女を生き続けさせていた。

「なんとか、希死念慮は消えた」と詩織は思う。それでも、心のどこかで生きづらさは変わらないままだ。「生きるのがしんどい」という感覚が、詩織の毎日を彩っている。自分の頭がどうしてこうも整理できないのか、どうして計画通りに物事を進められないのか。考え始めるとキリがなく、結局は何も進まない日が続く。

今日も会社で、上司に指摘を受けた。「詩織さん、この資料、また抜けてるよ」と。詩織は何度も確認したつもりだった。それでも、何かが漏れている。もう一度やり直せと言われて、頭の中が真っ白になった。

「どうして、私だけこんなにできないんだろう」と、胸の奥でつぶやく。涙がこぼれそうになるのをぐっとこらえた。これ以上迷惑をかけたくない。けれど、頭の中でぐるぐると回る思考は、どうしても止まらない。

家に帰ると、いつものように疲れ果てていた。ソファに倒れ込んで、スマホを手に取る。SNSを見ても、心は晴れない。周りの人たちは順調にキャリアを積み、プライベートも充実しているように見える。それが、詩織には遠い世界の出来事のように思えた。

「普通に生きるって、どうすればいいんだろう…」

詩織の中で繰り返されるこの問いに、答えは見つからない。それでも、詩織は知っている。答えを見つけるために、これからも生きていかなければならないことを。希死念慮は消えたけれど、生きること自体が苦しみであることには変わりない。

一度、カウンセラーにこう言われたことがある。「詩織さん、自分を責めすぎないでください。あなたは他の人と違う脳の特性を持っている。それは悪いことではありません。ただ、あなたに合った方法で生きる方法を見つける必要があるだけです。」

その言葉は心に響いたものの、詩織はそれが現実になるまでの道のりの遠さを痛感していた。「合った方法で生きる」なんて簡単に言われても、それを見つけるのがどれだけ大変なことか。彼女は何度も試みたが、うまくいくことはほとんどなかった。

ある日、詩織は一冊の本を手に取った。それはADHDの特性を持つ人々の成功体験をまとめたものだった。ページをめくるうちに、彼女は自分の抱える問題と同じような悩みを経験している人たちがいることに気づいた。混乱、焦燥、そして自分を責める気持ち――それは詩織だけのものではなかった。

「私は一人じゃないんだ」と、彼女は少しだけ安心した。自分だけが苦しんでいるのではなく、多くの人が同じように日常の中で戦っているのだと知ることで、少しだけ肩の力が抜けた。

そして詩織は少しずつ、日々の小さな成功を見つけるようにした。部屋を片付けることができた日、仕事で失敗しなかった日、友人との約束を守れた日。そうした小さな成果を、一つ一つ丁寧に感じ取ることが、詩織にとっての新しい生き方だった。

「完璧じゃなくてもいい」と、詩織は思う。「少しずつでいいから、私なりに前に進んでいけば、それで十分なんだ。」

希死念慮はもうない。だが、生きづらさはまだ残っている。それでも、詩織は知っている。生きることに意味があることを。そして、自分がこの世界でどう生きていくかを、少しずつ模索していく力が自分の中にあることを。






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