生きる

生きてるだけで丸儲け

「生きてるだけで丸儲け」

夕暮れ時、介護施設の一室で、芳子さんは窓の外をぼんやりと眺めていた。彼女はアルツハイマー病を患い、最近は自分の名前さえも忘れてしまうことが増えていた。昔は生き生きとした人生を歩んでいた彼女だが、今では何もかもがぼんやりとして、過去の記憶も霧の中に消えてしまったように感じる。

「芳子さん、今日も綺麗な夕日ですね。」

介護士の美咲が声をかけると、芳子さんは一瞬だけ反応するが、すぐにまた窓の外へ目を戻す。美咲は、芳子さんが以前のように生き生きとしていたころを思い出しながら、その手をそっと握った。だが、芳子さんにはその手の温かさが届いているのかどうか、美咲にはわからなかった。

芳子さんの子どもたちは、頻繁に施設を訪れることはなくなっていた。彼女の病状が進行し、母親である彼女のことを理解できないどころか、彼女の存在が重荷になりつつあることを感じていたのだろう。美咲は、彼らが時折見せるため息や苦々しい表情を知っていた。

ある日、芳子さんが突如として言葉を発した。

「生きてるだけで、丸儲けよ。」

その瞬間、部屋の中が一瞬凍りついたように静まり返った。美咲は驚いて彼女を見つめた。芳子さんが言葉を発すること自体が珍しかったが、その言葉の内容は、あまりにも現実とかけ離れていた。

「芳子さん……」

美咲は言葉を探したが、続けることができなかった。目の前の芳子さんは、虚ろな目をしているが、その言葉には不思議な力があった。

「丸儲けって、どういう意味ですか？」

美咲が問いかけると、芳子さんは静かに笑った。だが、その笑顔の裏には何かが隠れているようだった。美咲は、彼女がその言葉にどれだけの意味を込めたのか分からなかった。

その日の夕方、芳子さんの長男である健一が施設を訪れた。彼は、母親の様子を確認しながらも、どこかうんざりとした表情を浮かべていた。母親が日々周りに迷惑をかけていることに対しての苛立ちと、病気の進行を受け入れられない葛藤が、彼の中で渦巻いていた。

美咲が芳子さんが言った言葉について健一に伝えると、彼は思わず苦笑した。

「生きてるだけで丸儲けだなんて、そんなこと言ってられる立場じゃないのに。母さん、もうみんなに迷惑をかけてばかりじゃないか。」

健一の声には冷たさが含まれていた。彼は、自分の仕事や家庭の事情で母親の世話ができないことに罪悪感を感じていたが、それを表に出すことができず、無意識のうちにその感情を母親に向けてしまっていた。

「……でも、それは彼女の本心なのかもしれませんよ。」

美咲は健一に優しく言った。芳子さんが本当にその言葉をどう思っていたのかはわからないが、それでも美咲は、芳子さんがどこかで自分の存在を肯定しようとしているように感じたのだ。

健一は眉をひそめた。

「本心？ 迷惑ばかりかけて、何も覚えてないくせに？ 俺たちがどれだけ苦労してるかも知らないんだぞ？」

その言葉は鋭く、美咲の心に刺さった。だが、彼の気持ちも理解できた。介護は苦しく、愛する家族が別人のように変わっていく様子は耐えがたいものだ。

「確かに、今の芳子さんは以前の彼女とは違います。でも、だからこそ、その言葉には重みがあるのかもしれません。自分自身を見失いながらも、何かを信じているのかもしれない。」

美咲の言葉に、健一はしばらく黙っていた。彼の中で何かが揺れ動いているのを美咲は感じたが、同時に、彼がまだ母親を完全に諦めてはいないことにも気づいた。

その後、健一はしばらく母親のそばに座っていた。芳子さんは相変わらず無表情で、彼がそこにいることに気づいているかどうかもわからなかった。それでも、彼はその場を離れなかった。

「生きてるだけで丸儲けか……」

健一は小さな声で呟いた。その言葉が、どれだけの意味を持つのか、今はまだわからない。ただ、その言葉が何かを変えるかもしれないという思いが、彼の心の中で静かに芽生えていた。

芳子さんは、そのまま何も言わず、ただ外の景色を見つめ続けていたが、健一はその背中を見つめながら、母親の存在を改めて感じていた。

生きていることに、どれだけの意味があるのか。それは、誰にもわからない。ただ、母親がまだここにいること、それだけで十分かもしれない。