生きる

失われた記憶のしおり

 「失われた記憶のしおり」

一

春の暖かい日差しが差し込む小さな家のキッチンで、上田佳子はそろそろ自分の記憶が怪しくなってきたと感じるようになっていた。彼女の手元には、数冊のノートとカラフルなラベルが並んでいる。これらは彼女が「記憶のしおり」と呼んでいたもので、アルツハイマー病が進行する中で、できる限り自分の生活を支えるための手助けとなるツールだった。

佳子は、毎日の生活で直面する困難を少しでも軽減しようと、これらの対策を実施していた。まず、記憶の消失に対応するために、日々の出来事や重要な情報をノートに書き留めることにしていた。ノートには、日付、場所、出会った人々の名前、さらにはその日の出来事などが詳細に記されていた。

二

「これが今日のノートです」と、佳子は自分に話しかけるように呟いた。彼女はノートを開き、書かれた内容をじっくりと読み返した。ノートには、午前中にスーパーで買い物をしたこと、午後に訪れる予定の友人の名前、さらには夕食に作る予定のレシピが書かれていた。

次に、食器棚や引き出しにはラベルを貼っていた。ラベルには、内容物や用途がわかるように大きな文字で「スプーン」「フォーク」「皿」「コップ」などと書かれており、彼女が必要なものを見つけやすくしていた。この小さな工夫が、料理をする際や家事をする際に役立っていた。

三

佳子の家の壁には、普段会う人々の写真が掲示されていた。家族や友人の笑顔が並ぶ写真を見ながら、彼女はその人物たちの名前や関係を再確認することができた。これにより、出会った時に名前を思い出せない場合でも、写真を見れば思い出すことができた。

一方、彼女の娘、ゆりは母の取り組みを支えるために、定期的に家を訪れていた。ゆりは母が進行する病気に対してどう対応するかを考え、できる限り母の生活をサポートしようとしていた。

「お母さん、今日は何か手伝いが必要？」と、ゆりは優しく聞いた。

佳子は微笑みながら、ノートを指さして言った。「今日もこのノートを使って、重要なことを書き留めることにしようと思ってるの。」

四

ある日、佳子はいつものようにノートを取り出して、書かれた内容を確認していた。しかし、その日のうちに何度も同じ内容を確認しなければならないことが増えてきた。佳子は、記憶が曖昧になってきている自分に対して、少しの不安を感じることがあった。

「どうしたの、お母さん？」と、ゆりが心配そうに尋ねた。

佳子は肩をすくめながら、「ちょっと…このノートの内容がよくわからなくなってきたわ。何度も同じことを確認しないといけないの。」

ゆりは母の手を優しく握り、「大丈夫よ。ノートやラベルがあるから、少しずつでも安心して生活できるようにしていこうね。」

五

ある晩、佳子は寝室でラベルが貼られた引き出しを開けようとしていたが、どうしてもその引き出しが開かない。焦りを感じた佳子は、ついに自分の感情が高ぶってしまった。

「どうして開かないの？」と、佳子は涙を流しながら呟いた。

ゆりが部屋に入ってきて、母の側に座りながら落ち着かせるように言った。「お母さん、心配しないで。ラベルを見てみましょう。一緒に確認すれば、きっと大丈夫。」

ゆりは引き出しのラベルを確認し、やっと引き出しがスムーズに開いた。佳子は感謝の気持ちでいっぱいになりながら、「ありがとう、ゆり。助かったわ。」

六

佳子の生活は、進行するアルツハイマー病によって多くの困難を迎えていた。しかし、彼女が日々の生活を支えるために行っていた工夫や、家族の支えによって、彼女はできる限りの自尊心を保ちながら、穏やかな時間を過ごすことができた。

ノート、ラベル、写真—これらの「記憶のしおり」は、佳子にとって単なる道具ではなく、彼女の人生を支える大切な要素となっていた。それは、彼女がどれだけ記憶を失っても、自分の生活をできる限り保ち続けるための大切な手段であり、また家族との絆を深めるための手助けでもあった。

アルツハイマー病によって変わってしまった生活の中でも、佳子は自身の尊厳を守り、少しでも穏やかに過ごすことができた。それは、愛と支えによって守られた尊厳の一部であり、彼女の人生における最後の章をより意味のあるものにしていた。