生きる

跨ぐ生活

跨ぐ生活

狭いアパートの一室に、70歳の美代は住んでいた。そこには一緒に暮らす息子の慎太郎もいる。慎太郎は40代でありながらも、母の介護と自身の生活を両立させるために懸命に働いていた。しかし、その小さな部屋は二人にとって窮屈で、彼女がトイレに行くためには、寝ている息子を跨がなければならなかった。

「また、慎太郎を跨がなきゃいけないのね…」

美代は心の中でため息をつきながら、暗闇の中、そっと息子の足を跨ぐ。寝息を立てる息子の姿は、彼女にとって唯一の安心材料だったが、それでも自分が息子の上を跨いでいかなければならない現実に、情けなさが込み上げてきた。

毎日、同じことの繰り返し。部屋の中で息を殺して生活することに慣れてしまった美代だが、外から聞こえる音が耐えられなかった。聴力過敏症を患っている彼女には、周囲の家々の建て替え工事の音や、車のクラクションがまるで頭の中に直接響くように感じられた。

後ろの家が二世帯住宅に立て直された時も、耐え難い騒音に悩まされた。やっとその騒音が収まったかと思えば、今度は少し離れた家が取り壊され、新しい家が建つという。どこへ行っても音がついてくるようで、美代は安らぐ場所がないと感じていた。

「こんなにイライラするのは、単にうるさいだけじゃないんだ…」

美代は思った。騒音そのものも辛かったが、それ以上に自分の置かれた状況が、彼女を苦しめていた。清瀬の一軒家を手放してしまったこと。小さなアパートに住み、息子を跨がなければトイレに行かれない自分が、どうしても受け入れられなかった。

「あの一軒家があれば、今頃…」と、美代はふと思う。しかし、それはもう叶わない夢だった。あの家を手放したのは、美代が経済的な困難に直面し、もうどうすることもできなかったからだ。

夜遅く、美代は息子が眠る横で、小さなデスクに座り、パソコンを開いた。電気を消して真っ暗な部屋で、彼女は小説を書くのが日課だった。音に敏感な美代にとって、静かな時間こそが安らぎだったのだ。しかし、思い描く理想の部屋には程遠かった。あと一部屋あれば…と何度も考えた。そうすれば、自分の世界にもっと没頭できるのにと。

パソコンの画面に向かっていると、ふと涙がこぼれた。「お前は負けたんだ」と自分を責める声が、頭の中で響く。家を失ったこと、今の状況に甘んじていること、新しい家を建てられる人たちへの嫉妬。心の中の怒りや悔しさが美代を苛んだ。

「もう許してあげなよ。お前はよくやった。」美代は自分自身に語りかける。毎日の生活が厳しくとも、息子がいつも優しく寄り添ってくれることを、彼女は心の奥底で知っていた。慎太郎はADHDを抱えており、物事を片付けるのが苦手で、カレーを焦がすこともある。それでも、母親の美代に対しては変わらぬ愛情を注いでいた。

「ありがとう、慎太郎…」と、美代は小さく呟いた。自分を責める気持ちから解放されたいと願いながら、彼女はパソコンの画面を閉じた。美代は知っていた。過去に囚われて生きることの無意味さを。家や部屋がないこと、理想の生活が遠いこと、そうしたないものにばかり目を向けるのではなく、今あるものに感謝して生きようと、少しずつ心を切り替えることが必要なのだと。

翌朝、太陽がアパートの窓を照らす。美代は慎太郎を跨いでトイレに向かい、その帰り道、慎太郎が目を覚まして彼女に微笑みかけた。

「おはよう、母さん。今日はいい天気だね。」

その言葉に、美代はほっと息をつき、微笑みを返した。跨ぐ生活は続くが、それでも彼女の心には、少しずつでも明るい光が差し込んでいた。