生きる

わたしが人間でなくなっていく

わたしが人間でなくなっていく

陽子は、鏡の中の自分を見つめながら、どこか違和感を覚えていた。顔は同じ、笑顔も変わらないはずなのに、何かが失われていくような気がした。最近、物忘れがひどくなり、言葉がうまく出てこないことが増えていた。

ある日、陽子は診察を受けるために病院に行った。医師は穏やかな声で言った。「アルツハイマー病の初期症状が見られます。」その言葉は、まるで鋭い刃のように陽子の心に突き刺さった。

帰り道、陽子は道端の花を見つめながら歩いた。花の名前が思い出せないことに気づき、胸が締め付けられるような思いをした。「私はこれから、どんどん忘れていくんだ…。」その思いは恐怖となり、彼女の心に影を落とした。

日々が過ぎるごとに、陽子の記憶はますます曖昧になっていった。朝食の準備中にガスをつけっぱなしにしたり、買い物リストを忘れてしまったりすることが日常茶飯事になった。そんな陽子を支えてくれるのは、夫の健一だった。

健一は陽子の変化に気づいていた。彼は優しく、しかし悲しげな眼差しで陽子を見守り続けた。ある日、陽子が散歩から帰ると、健一が家の前で待っていた。「おかえり、陽子。」その言葉に、陽子は安心感を覚えた。

「今日はどこに行ってたの？」健一が尋ねると、陽子はふと立ち止まり、答えに詰まった。「わからない…思い出せないの。」その瞬間、陽子は自分が少しずつ人間でなくなっていくような感覚に襲われた。

ある晩、健一は陽子に一冊のアルバムを渡した。「これは私たちの思い出だよ。忘れないように、一緒に見よう。」アルバムの中には、二人の結婚式や旅行、子供たちとの日々が写っていた。陽子は涙を浮かべながら、ページをめくった。

「これは…どこだっけ？」陽子が写真を指さして尋ねると、健一は微笑んで答えた。「これは京都だよ。紅葉が綺麗だったね。」その瞬間、陽子の中にかすかに記憶の断片が蘇った。だが、すぐにまた霧の中に消えてしまう。

陽子の病状は進行し、言葉を発するのも困難になっていった。ある日、彼女は鏡の前に立ち、自分の名前すら思い出せないことに気づいた。「私は誰…？」その問いに答えられるのは、健一だけだった。

「君は陽子だよ。私の大切な妻だ。」健一は涙をこらえながら、優しく彼女を抱きしめた。その温もりが、陽子にとって唯一の現実だった。

ある晩、陽子はベッドに横たわりながら、ふと子供たちの顔が思い浮かんだ。「彼らはどこに…？」その問いに答える声は、彼女の中にはもうなかった。

健一は陽子の手を握りしめ、静かに囁いた。「彼らは大丈夫だよ。君も大丈夫。私がいるから。」その言葉に、陽子はかすかに微笑んだ。

やがて、陽子は記憶の中に完全に閉じ込められ、現実との接点を失っていった。だが、健一は決して彼女を見放さなかった。毎日、彼女の手を握りしめ、愛の言葉を囁き続けた。

「陽子、君は私の光だ。たとえ記憶が消えても、君の存在は私にとって変わらない。」その言葉に、陽子はわずかに微笑み返すことができた。

そして、ある日の朝、陽子は静かに息を引き取った。健一は彼女の手を握りしめながら、涙を流した。「ありがとう、陽子。君は最後まで私の光だった。」

陽子の存在は、彼女が忘れても周りの人々の記憶の中で永遠に生き続けた。彼女が人間でなくなっていく過程を見守り続けた健一は、彼女の愛と笑顔を心に刻みながら、これからも生き続けることを誓った。