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春秋花壇

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予約の電話

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予約の電話

日曜日の午前、診療所の受付にいる玲子の電話が鳴った。

「はい、こちら佐藤クリニックです。」

「主人の診察の予約をしたいのですが…」と、女性の声がした。

玲子はため息をつきそうになったが、ぐっとこらえた。

「かしこまりました。ご主人のお名前とご年齢をお願いします。」

「佐藤一郎、45歳です。」

「ありがとうございます。どのような症状でしょうか?」

「えっと、ちょっと待ってください。主人に聞いてきます。」

電話の向こうで声が遠くなり、しばらくの間、何やらごそごそとした音が聞こえた。やがて、再び女性の声が戻ってきた。

「お待たせしました。主人が最近、胸が痛むって言ってまして…。」

「胸の痛みですね。他に何か症状はありますか?」

「ちょっと待ってください。もう一度聞いてきます。」

玲子は電話を保留にして、椅子にもたれかかった。こういう電話は珍しくない。なぜか、受診を希望する本人ではなく、配偶者が電話をかけてくる。そして、症状を尋ねるたびに「ちょっと待ってください」と言われる。このやり取りが何度も繰り返されるのだ。

「本人が電話してくれれば、もっとスムーズなのに…」

玲子は独り言のように呟いたが、再び電話に戻る。

「お待たせしました。主人が最近、食欲もなくなってるって…。」

「なるほど。食欲不振もですね。他に何かありますか?」

「ちょっと待ってください…」

玲子は大きく息をついて電話を切り、考え込んだ。なぜ、こんなにも多くの男性が自分で電話をかけないのだろうか。そんな時、診療所のドアが開き、一人の男性が入ってきた。

「おはようございます、佐藤先生。」

それは玲子の夫、浩司だった。彼もまた、玲子が勤務するこのクリニックの常連患者だった。

「おはよう、玲子。今日も忙しい?」

「うん、まあね。でも浩司、聞いてほしいことがあるの。」

玲子は夫に向かって話し始めた。なぜ、多くの男性が自分で予約の電話をかけないのか、という疑問について。浩司はしばらく考え込んでから、口を開いた。

「それはね、玲子。男たちはプライドが高いんだ。病院に行くこと自体、彼らにとっては自分の弱さを認めることになる。だからこそ、妻に頼むんだよ。」

「でも、それは無駄な時間を生むだけじゃない?自分で電話すれば、症状も正確に伝えられるし、すぐに予約も取れる。」

「玲子、それは正論だよ。でも、男たちはなかなかその正論を受け入れられないんだ。自分の弱さを見せたくないからね。」

玲子はしばらく黙って考え込んだ。確かに、浩司の言うことにも一理あるかもしれない。だが、それでもなお、受診希望者本人が電話をかけることの重要性を感じていた。

変化の一歩
次の日、玲子はあるアイデアを思いついた。診療所の受付に新しいポスターを貼ることにしたのだ。

「受診希望者ご本人が電話してください。より正確な診察のために。」

ポスターを見た患者たちは、一瞬驚いた表情を浮かべたが、すぐに納得した様子でうなずいた。

それからしばらくして、電話の鳴る回数が減った。だが、その代わりに電話がかかってきた時は、受診希望者本人が電話をかけてくることが増えたのだ。ある日、再び電話が鳴った。

「はい、佐藤クリニックです。」

「すみません、私、佐藤一郎です。診察の予約をお願いしたいのですが。」

玲子は笑顔を浮かべた。自分の努力が実を結んだ瞬間だった。

「もちろんです、佐藤さん。ご予約のお手伝いをさせていただきます。どのような症状でしょうか?」

電話の向こうで、佐藤一郎の穏やかな声が続いた。

「最近、胸が痛むんです。そして、食欲もなくて…」

玲子は丁寧に話を聞き、予約を取った。電話を切った後、彼女は深く息をついた。少しずつではあるが、状況は改善しているように感じた。

玲子は診療所の窓の外を見ながら思った。変化は時間がかかるかもしれないが、一歩一歩、確実に進んでいくことが大切なのだ。患者たちが自分自身の健康に向き合い、自らの声で医師に相談することで、より良い診察が可能になる。それは、彼ら自身のためだけでなく、医療の質を高めるためにも必要なことだった。

玲子は決意を新たに、今日も診療所での業務に励むのだった。








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