生きる

忘却の酒

忘却の酒

彼女は薄暗いバーの片隅に座っていた。窓から漏れる僅かな月明かりが、彼女の顔を淡く照らしていた。店内の喧騒も、酔客たちの笑い声も、彼女には遠くの音のように感じられた。目の前のグラスに視線を落とし、琥珀色の液体をじっと見つめていた。

「何もかも、一時でも忘れさせてくれるなら、酒でも阿片でもハッシュシュでも、私は即座にのみこむ。」

彼女は心の中で呟いた。昨夜の記憶がよみがえる。頭のしびれるような酔い心地、朦朧とした意識、そして頽廃におもむく瞬間の快感。それは現実から逃避するための一時的な安らぎだった。

「もう一杯、お願い。」

バーテンダーに声をかけると、新たなグラスが目の前に置かれた。彼女はそれを手に取り、一気に飲み干した。液体が喉を通り、体中に熱が広がっていく感覚。これが彼女にとっての現実逃避の手段だった。

彼女の名前は彩香。17歳の高校生だった。だが、その年齢には似つかわしくないほどの重い過去を背負っていた。家庭の問題、学校でのいじめ、孤独。誰もが彼女の存在を無視し、彼女自身もまた、自分の存在を無視することで心の平穏を保っていた。

「もう、何もかも嫌になった。」

彩香はそう思うたびに、このバーに足を運んでいた。ここは現実から逃れるための唯一の場所だった。酒に酔い、現実を忘れることができる場所。だが、それも一時的なものに過ぎないことを、彼女自身が一番よくわかっていた。

「ねえ、ちょっと話してもいい？」

隣の席に座っていた男が声をかけてきた。彼もまた、同じように現実から逃避しているように見えた。彩香は黙って頷いた。

「君も、何か辛いことがあるんだろう？」

男はそう言って、優しく微笑んだ。その笑顔に、彩香は少しだけ心を開く気持ちになった。彼女は自分の過去を少しずつ話し始めた。家庭の問題、学校でのいじめ、孤独。そして、ここに来ることでしか心の平穏を得られないこと。

「わかるよ。僕も同じだ。現実から逃げるためにここに来ている。」

男の言葉に、彩香は少しだけ救われた気がした。自分と同じような人がいることを知るだけで、心が軽くなるような気がした。

「でもね、逃げ続けることはできないんだよ。」

男の言葉に、彩香ははっとした。彼の言う通りだった。現実から逃げ続けることはできない。それは一時的な逃避に過ぎない。だが、それでも彼女は現実に向き合う勇気を持てなかった。

「でも、どうすればいいの？」

彩香はそう問いかけた。男はしばらく黙って考え込んだ後、静かに言った。

「自分を大切にすることだよ。自分自身を受け入れて、少しずつでも前に進むこと。」

その言葉は、彩香の心に深く響いた。彼女は自分自身を受け入れることができていなかった。現実を受け入れることができていなかった。だが、少しずつでも前に進むことができるかもしれない。彼女はそう思うようになった。

「ありがとう。」

彩香はそう言って、男に微笑んだ。その微笑みは、今までの彼女にはなかったものだった。彼女は少しずつ、現実に向き合う勇気を持ち始めていた。

その夜、彩香は初めてバーを出ることを決意した。現実から逃避することなく、自分自身と向き合うために。彼女は少しずつでも前に進むことを誓った。

外に出ると、夜風が心地よく吹いていた。彩香は深呼吸をし、新たな一歩を踏み出した。彼女はこれからも現実に向き合い続けるだろう。だが、それは一人ではなく、同じような人々と支え合いながら。彩香の新しい人生が、今、始まろうとしていた。