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父の歩幅

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「父の歩幅」

母が亡くなって半年、父と私の二人暮らしが始まった。72歳になる父は、もともと几帳面な性格で、家事は何でも一人でこなしてきた。それでも、母を失ってからの父の生活は、どこかぽっかりと穴が空いたようだった。

「今日、病院だって忘れてないか?」
「わかってるよ。午後2時に予約だ」

私は仕事の昼休みに電話をかける。毎週火曜日の定期検診に父が行くかどうか、何となく心配で確認してしまうのだ。父は少し面倒くさそうに答えるが、それがどこか安心感にもつながる。

ある休日、父がふと思い出したように言った。
「母さんと行った温泉に、もう一度行ってみたいな」

その場所は、私も小さい頃に連れて行ってもらった記憶がある。緑に囲まれた静かな山間の宿で、露天風呂からは満天の星空が見えた。

「今度一緒に行こうか」
「いや、お前は仕事があるだろう。一人で大丈夫だ」

そんなことを言いながらも、父の目には少し不安が見え隠れしていた。

父の体力の衰えを感じたのは、その少し後だった。
休日に一緒に近所の公園まで散歩に出たとき、父の歩幅が以前よりもずっと狭くなっていることに気づいたのだ。

「大丈夫?どこか痛いの?」
「別に痛くはない。ただ、ちょっと疲れやすくなったかな」

父はそう言いながらも、何事もないかのように歩き続けた。その姿がかえって心に刺さった。これまで、家族のために黙々と働いてきた背中が、少しずつ小さくなっていくのを感じた。

その夜、父が昔のアルバムを引っ張り出してきた。
「これ、お前が初めて海に行ったときの写真だ」

父が指差したのは、幼い私を肩車して笑う若い頃の彼の姿だった。母も隣で微笑んでいる。
「あのときは、お前が波を怖がって泣き出したんだよ」
「覚えてないなあ。でも楽しそうだね」

父はアルバムを一枚一枚めくりながら、思い出話を続けた。その声には少しだけ寂しさが混じっているように聞こえた。

月が変わり、父の定期検診の日がまたやってきた。その日は珍しく、私が休みを取って付き添うことにした。

「別に来なくてもいいって言っただろう」
「いいの。今日は私も休みだから」

病院の待合室で、父は少しだけ落ち着かない様子だった。診察が終わると、担当医が言った。
「全体的には健康です。ただ、やはり足腰が弱っていますね。運動を心がけてください」

父は頷きながらも、「わかってるよ」と軽く受け流すように答えた。その帰り道、私は父に提案した。
「今度、一緒にリハビリ教室に行ってみない?」
「いや、まだそんな歳じゃないだろう」

そう言いながらも、父の声には少しだけ弱さが滲んでいた。

数週間後、私は父を説得し、地域のリハビリ教室に連れて行った。そこには同じように年齢を重ねた人々が集まり、楽しそうに体を動かしていた。

「どうだ、やってみる?」
「まぁ、せっかくだから少しだけな」

最初は渋々といった様子だったが、体を動かすうちに父の表情は次第に明るくなっていった。教室の帰り道、父はぽつりと言った。
「こうやって体を動かすのも悪くないな」

その言葉に私は少しだけほっとした。父が自分の老いと向き合い始めたのだと感じたからだ。

父と過ごす日々の中で、私は一つのことを学んだ。それは、親の老いに向き合うのは決して悲しいことばかりではないということだ。父と一緒に散歩をしたり、アルバムを見たり、リハビリに行ったり――その一つ一つが、かけがえのない時間だった。

そしていつか、父が自分の歩幅で人生を終えようとするその日まで、私はその隣を歩き続けようと思った。






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