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52, 異世界の魔法
しおりを挟む気球から降りた後の記憶はあまりない。
いつの間にか自分の狭いワンルームにたどり着いた後は、無断欠勤で着信だらけのケータイで上司のメールに一言辞めますとだけ送って倒れるように眠った。
それから1週間くらいは寝て起きてを繰り返していたとぼんやり覚えている。
空腹や喉の渇きで意識が戻ると部屋に溜め込んだ栄養ドリンクや携帯食を食べて、また眠った。
あっちの世界に行った時と同じでとにかくだるかったけど、そっちの方が何も考えなくて済んで良かった。
体が少し回復するとオージの夢ばかり見るようになって、見ている間は幸せなのに目が覚めると涙が出てきた。
無理やり寝てオージの夢を見ようとしても、寝足りてくるとだんだん難しくなってくる。
1週間を過ぎた頃、とうとう俺は体を起こした。
思えば、帰ってきてから風呂はおろか着替えてすらしていない。
しみったれたワンルームの散らかった部屋で、質の良い生地のフリフリブラウスを着た髭面の俺は側から見ればえらく滑稽だろう。
「着替えるか……。」
本音を言えば、帰ってきてから何もかもどうでもいい気持ちが続いてるけど、夢の中で俺が泣き言を言う度にオージが励ましてくれたから少し気力が湧いてきた。
ポケットに入っていた、オージとの結婚宣誓書を取り出す。
寝込んでいる間も、目覚めた時に取り出しては眺めて、眠くなってきたらまたポケットにしまっていた。
大分しわくちゃになってしまったけど、半分に千切れたオージの名前と俺の名前を見ると、悲しいけど少しでもオージを感じる事ができる。
更にポケットを探って、もう一つ入れていたトトを取り出した。
「またお前と2人になっちゃったな。」
父親と縁が切れて、母親が死んだ後、トトと一緒に上京してこの部屋に住み始めたんだった。
「またお前が、動けるようになればいいのに。」
『オブジェクト指定、トト。コンソールプロパティ……四足動物の生体反応スクリプトを呼び出して……あとは、細かい反応はモジュール読み込みにしておいて……』
オージが、トトに魔法をかけた時の呪文を思い出す。
「……ん?」
トトを見つめていると、視界が何かで霞む感じがした。
「なんだろ。これ。」
よく見るとそれは霞んでるんじゃなくて、何かの線がトトの前に浮かび上がっているのだった。
「……嘘だろ。」
体を丸めて、更にトトを凝視する。
だんだんと線が、文字に見えてきた。
この世界のものじゃない、けど、俺がよく知ってる。
「呪文だ……これ……。」
慌てて読もうとしても、何が書いてあるか部分的にしか理解できない。
多分、オージが俺にかけた言語の魔法が消えてるからだろう。でも、向こうにいた時に読んでいた本で、俺の頭の中に言葉がいくらか残っているみたいだ。
「だめだ。トトは難しすぎる。もっと簡単なの。俺でも読めるやつ。」
急いで立ち上がり、水を飲みに行く。
今は、どんなに細い糸でも掴みたい心境だった。
もし、もし俺に魔法が使えるなら……。
『カナトちゃんは凄い魔法が使えるわよ。西の魔女の呪いも解いちゃうかも!』
「はぁ……。」
見えてきた可能性に気分が高揚してきて、シンクの淵に手をついてため息を吐いた。
「……見えやすい。」
蛇口を見つめていると、浮かんできた呪文はすごく単純なものに見える。
「やっぱり、プログラムコードに似てるんだよな。」
専門学校時代から、食い扶持にするため真面目に勉強はしてきたし、一年足らずの社会人生活ではひたすらコードを書く現場の兵隊をやっていた。
素地はあるはずなんだ。片端から呪文を見ていって何としても、習得してやる。
蛇口の呪文を丁寧に見ていくと、状態を規定するコードのようなものが見えた。
ここを、今入っている”閉”から、”開”に書き換えられれば、触らずに蛇口から水を出せるはずだ。
向こうで読んだ本によれば、呪文の書き換えには三段階ある。まずは、今固定されている呪文のプロテクト解除。次にプログラムの書き換え。最後に、書き換えた呪文を固定すると、魔法が発動する。
蛇口の呪文をよく読んで、プロテクトに関わるところを探した。
それらしい所を見つけたので、じっと見つめてそのプロテクトコードが消えるように念じる。
すると、ぱたぱたと目の前に浮かびあった呪文の一部が消えていった。
これで呪文が書き換えできるはずだ。
次に、物体のステータスを書き換えていく。
これが中々難しかった。
俺が勉強した本では、杖がないとコードの書き換えは少し変えるだけでも段違いに難しくなると書いてあったから、
魔法を自在に使うにはやはり杖は不可欠だろう。
でも、そんな物今となっては絶対に手に入らない。
何とか杖なしでやらなきゃ。
「ステータス変更、”閉”を”開”に、セット。」
口に出して唱え、指先で”開”の文字をスマラルダスの言葉で書いてみる。
何度も繰り返して、やっと何回目かでピコンと呪文の一部が指示通りに変化した。
「やった!!あとは、さっき消したプロテクトを……」
指を動かしてプロテクトをかけていく。
これも、杖がないせいか何度も指で試してやっとできた。
プロテクトが入った瞬間、触っていないカランがきゅっ、とひとりでに動いて、蛇口から水が出始めた。
「で……できた……。」
流れ出る水をごくごく飲んで、手で蛇口を閉めた後、財布を引っ掴んで近所のスーパーに駆け込み食料をありったけとノートを買い込んだ。
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