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2部1章 再スタート

夏樹の足、灯の足

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「ふーーーーん、それでその灯ちゃんは納得したの?」

「どうなんだろね?」

「だろねって……」

「とりあえずマッサージしながら話すから、そんじゃ」
 ベッドに寝そべる夏樹、僕は久しぶりに夏樹のマッサージをやりに来た。
 いつもの様にベッドにビニールシートを敷いて、手にベッタリとオイルをつける。

「ちょ、ちょっと待って!」

「えーー?」

「ちょっと、覚悟が……すーーはーーすーーはーー」
 夏樹が僕を待たせたまま深呼吸を始めた。
 オイルを手に付けた状態で、手術する前の医者の様に、手を上に向け待たされる僕……。

「よし! 覚悟は出来た! やれ!」

「やれって……まあするけど」
 そう言われ僕は夏樹の黄金の足を手に取ると、左のふくらはぎからマッサージを始めた。

「ひう!」

「──そんでさ、とりあえず灯ちゃんには走るなって言ってあるんだよね、あのフォームじゃ、僕のフォームじゃ勝てないからねえ」

「くふ!」

「筋力もそうだけど、灯ちゃんはどっちかって言うと夏樹にタイプが似てるんだよね、スタートダッシュに長けてる、天才型に多いタイプだよねえ、やっぱりバネってのは持って生まれた物だよねえ」

「きひ!」

「……僕の走りは後半伸びる走り方だからねえ、灯ちゃんはスタートダッシュタイプだと思うんだ、ほら夏樹もそうだっただろ? スタートで飛び出して逃げ切っちゃう走り、小さい頃はずっと背中を見せられてたよなあ」

「ふ、っふ!」

「ねえ、聞いてる?」

「き、きい、てるううぅ、きゃふ!」

「そか、だからとりあえず僕の練習道具とそのマニュアルを渡したんだ、二週間の基礎トレと筋力トレーニングを書いた奴」

「う、うぐ!」
 両足のふくらはぎのマッサージを終え、続いて太ももに移る。

「ま、まままま、待って待って! やっぱり変?」

「ん? やっぱりまずかった? でもさあ、二週間はやって貰わないとその先が」

「ち、違う! かーくんのマッサージの方!」

「そうかなぁ? いつも通りな筈だけど」
 変なのは夏樹の方だろ?
 夏樹は起き上がると以前と同じく僕の手を掴んだ。

「お、オイルが付いちゃうよ?」

「……なんか触り方が……やらしい」

「な!」

「かーくん、私の事好きなの?」

「は?」

「だ、だって、だって、おかしいもん」

「まあ、好きだけど……」
 恋愛感情では無い……。

「……そうか、かーくんの好きなのは……私の足か」

「え?」

「かーくんって、足フェチ?」

「ええええええ!」

「……ぷっ、あはははははは、かーくんどんだけ私の足が好きなのよ~~うける!」

「そ、そんな、そんな事無いよ!」
 夏樹が僕の手をニギニギしながらケラケラと笑う。
 言い掛かりだって、そう思ったけど、向日葵の様な夏樹の笑顔につられ、僕もつい笑ってしまった。
 まあ、いいや……そういう事で。
 
 足フェチでは無いが、多分僕は天才が好きなんだろう……。

 自分の持っていない物に憧れる。
 走れなくなった今でも……それは変わらない。

 さあて、素直に僕の言う事を聞くのかな?

 もう一人の天才は……どうなる事やら……。


◈◈◈


 これって……。
 
 先輩から貰った練習道具とノートを家に持ち帰りもう一度確認する。
 古いノートの最後のページには新しく書き込まれた二週間分の練習メニューが記載されている。

 それよりもそのノート前半の書き込みに私は驚愕した。
 拙い子供の字だったが、その膨大な書き込みの量はとても子供が書いたとは思えない程に的確に書かれ、さらには骨や筋肉の絵、雑誌の切り取り等が貼られていた。
 
「もう僕は使わないから」
 先輩は説明をしながら私にそう言った。
 寂しそうに、でも愛しそうに、このノートを見つめていた。

「むううううう」
 でも、でもでも納得出来ない。
 だって、だって、もう時間が無いのに今さら走基にミニハードルに筋トレって……。
 走基とは走の基本と言って、50mくらいの距離を歩いたりスキップしたりと、腕振りや足の振り方、一つ一つの動作を確認する陸上の基本的な練習方法。
 未経験者や1年生、シーズンオフ、そんな時にやるのはわかる……でも最後の大会まであと2ヶ月も無い今するのは絶対に間違っている。

 ミニハードルも同じく、等間隔に並べ、足あげ等をしながら走り抜ける基礎トレーニング。

 そして筋トレ

 20キロって、軽!
 バーベルのシャフトがちょうど20キロ、それのみでの筋トレって聞いたことが無い。
 しかも回数も少ない……。

 ただ、赤文字で大きく【全力でやる事】って書かれている。

「これって何の意味が?」
 先輩も説明の時に、とにかく全力でって、それだけ言っていた。
 一体何が目的で……。
 まさか先輩手を走れる私を妬んで……。


「ねーーー灯聞いてえよおおお」
 そんな疑惑を抱いたその時、いつもの様にお姉ちゃんが愚痴をこぼしにやって来た。

「ひ、ひううう! お、お姉ちゃんノックしてよ!」

「何よ今さら? あ、ひょっとしてエッチな本でも見てた? 灯も思春期だからなあ……ってそれ何? あんたマジで?!」
 そう言いながら近付くお姉ちゃんは私が見ていたノートを目にすると、素早く取り上げた。

「あ、だ、駄目?!」

「なんだ? 灯の練習ノートか……って、字、きったな、って……これ」

「だ、駄目、それ先輩の……」
 
「……先輩のって、まさか、宮園君?」

「──うん」

「ちょ、頂戴!」

「だ、駄目に決まってるでしょ!」

「えーーけちいいいい」
 ノートを抱いて綺麗な金髪をフルフルさせるお姉ちゃんから私はそのノートを奪い返す。
 昔から人の宝物とか欲しがるよねこの姉って、どっちが姉で妹だかわからない。
 人前だと格好いいのに……。

「ねえ……お姉ちゃん、この練習方法って、意味あるの?」

「へーー、灯が人の意見を聞くなんて、さすが宮園様ですねえ」
 クスクスと笑うお姉ちゃん……うっさい、その宮園様が信用出来なくて聞いてるの!

「これを今さらやれとか、先輩の意図が、何を考えてるのかわかんない」
 ノートの練習方法の書かれたページをお姉ちゃんに開いて見せる。

「ふーーん、まあ、時期に関してはそう思うけど、別に変な事は書いてないよ? 軽い重さで全力って、瞬発力強化の練習方法だし」

「そうなの?」

「低強度筋力トレーニングって言うのよ?」

「そ、そうなの?!」

「うん、そう──最新の……ってか、っやっぱり宮園君……あはははは」

「ど、どうしたの?」

「うん、相変わらず部内に反対派が多くて、でも、そうか中等部も巻き込めば……過半数を取れるかも」
 お姉ちゃんは私を見ながらなにやらブツブツと一人言を言っている。

「え?」

「灯、宮園君の今後は、あんたにかかってるからね!」

「え? ええええええ!?」

「頑張れえ~~」
 ニコニコと両手を上げて変な踊りをするお姉ちゃん。

「そ、そんなああ」
 何か……自分だけの問題ではなくなってきていたのを、私は今さらに実感し、先輩に教えを請うた事を、ほんの少しだけ後悔していた。
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