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1部最終章 終焉
初恋と失恋
しおりを挟む競技場に入ると……競技場の周囲、ゴール付近には、百人近い観客がいた。
「え?」
「あーーどこかで漏れたねえ」
あんただろ! と、怒鳴るのを堪え、僕はそのままゆっくりとスタート場所まで歩く。
「おーーい、頑張れよおお」
野球部十数人を引き連れた橋元がこっちに向かって手を振った。
それ以外にもサッカー部やバスケット部、陸上部やクラスメイトの面々の顔が並ぶ。
「いい見せ物だな……」
ポツリとそう呟くが……この状況は寧ろ僕にとって好都合だと思い直す。
ゆっくりと歩き100mのスタート位置に着くと、既に真ん中4コースの位置にスターティングブロックが用意されていた。
僕はコースの横に杖を置くとその場で準備運動を始めた。
本来ならばウォーミングアップから始めなければいけないのだが、今の僕に長い距離を走るのは不可能。
なのでさっき円と一駅手前で降り、出来るだけ早く歩くという事でウォーミングアップの代わりとした。
僕が小学生の頃は運動前には入念なストレッチをしろと言われていたけど、近年では運動前に行うと怪我の原因になるという研究結果が発表されたりしている。
なので現在は、筋肉や関節回りを解す様に、体操程度に留めて置くと良いらしい。
年々変化する練習方法、いまだにそれを追い掛けている自分に思わず苦笑した。
僕は十数分かけて柔軟体操をする、そしてそれを近くで黙って見ている会長。
僕は足を伸ばして座っている状態で会長を見上げる。
「大丈夫?」
「……はい」
準備は終わった……僕は会長に目でそう告げると会長は僕から目線を外し、どこか違う所を見て手を上げた。
誰に手を上げたのかと会長の視線を追うと、栗毛の小さな女の子がとととと小走りに近付いて来る。
まるで小学生の様な小柄な少女……でも、どこかで見たよう誰かに似ている様な、そんな気が……と思っていると、その女の子は顔を真っ赤で僕に向かって言った。
「あ、あのあの、わ、私、は、袴田 灯って言います、あの実は、ずっと先輩のファンで、えっとえっと」
「灯、自己紹介はいいから」
少し不機嫌な顔の会長……っていうか、その前に、この娘今、袴田って言ってたよな……。
「えっと、ひょっとして……妹さん?」
「はい! 今、中等部3年です先輩! 彼氏はいません!」
「だから、灯! 自己PRもいらないって言ってるでしょ! 早く主旨を言いなさい、皆待ってるのだから」
「ぶううう、えっと、あの、あの、今日私がお姉ちゃんに頼み込んで、スターターをやらせて貰う事になりました、宜しくお願いします!」
「あ、はい……」
「私、先輩の綺麗な走りにずっと憧れてて、今日直接見れるなんて、感激です!」
キラキラと瞳を輝かせ、期待に満ちた顔で僕を見つめる彼女に、僕は少し困った顔で言った。
「ごめん……多分その期待には……」
「……わ、わかってます……だから、お姉ちゃんに無理を言って……」
彼女は気を使ってか、その悲しい事実を、結末を僕に言わせない様に、僕の言葉を被せるようにそう言った。
会長と同じく彼女もかなりの陸上経験者なのだろう……僕の現状を理解してくれている。
そして多分、妹も、夏樹も、そして円も……この結末を知っているのだろう。
「じゃあ私はフィニッシュラインにいるから」
「はい、あ、会長……ここまでしてくれて、ありがとうございます」
「いいのよ……じゃあ頑張ってね」
会長は僕を見て一瞬悲しそうな顔をした。でも直ぐにまた笑顔に戻す。
そして、美しく軽やかに100m先のフィニッシュラインに向かって走って行った。
「綺麗な走り……」
いつもなら、その走りを見て羨ましいって思うのだけど、今日の僕はそう思わなかった。
いや、多分もう……そう思う事は無いのだろう……。
「じゃ、じゃあ、先輩……準備が出来たら手を上げて下さい」
「あ、うん、ありがとう」
彼女は笑顔でそう言うと、スターターの位置に向かって歩いて行く。
僕はそのまま彼女を見つめ、スターターピストルを持ったのを確認し、ゆっくりとスタート位置に歩み寄る。
100m先にゴールテープが見える……電光掲示板には0の表示。
グランドの外には、妹も夏樹もいる。
姿は見えないが恐らく妹に見付からない様にどこかで円も見ているのだろう。
余り曲がらない為に右足のスターティングブロックを外す。
どうしても、クラウチングスタートで走りたいから……。
スタート位置から見える景色、そして襲い掛かる緊張感、全てが懐かしい……スタートを待つピリピリとした空気、平均台の上を走る様な、失敗の許されない緊張感……今ここにいる事に、この思いを再び味わえる喜びに僕は思わず涙が溢れそうになる。
走りたかった、ずっと走りたかった……でも……走ればわかってしまう。
だから……走りたくなかった。
でも、もう逃げない、全部自分で受け止める。
そう決めたから。
僕はスターティングブロックに左足を置いた。
そして出来るだけ右足を曲げ、両手を前に着いた。
そして、スタートの袴田さん(妹)に合図を出す。
袴田さん(妹)は小さく頷く。
僕は呼吸を整え目を瞑り集中する。
最後ぐらいは完璧にスタートを切りたい。
そう……これが最後、僕の最後の走り……。
「セット……」
袴田さんの声に合わせ腰を持ち上げ静止する……そして……。
『パン』
ピストルの電子音と共に僕は全身を伸ばしスタートする。
思い切り、全身をバネの様に使い、スタートを決めた。
完璧なスタート、今までにない位の完璧なスタート、ずっとイメージしていたスタートをぶっつけ本番で切れた。
そしてまず一歩目、左足を着地させる……次に右足を振り出した。
殆んど感覚の無い右足、曲がらない膝、頼るのは勘と音だけ。
右足のスパイクがタータンに刺さるギュっとした音が聞こえる。
いけた! 奇跡だ。
そのまま続いて左足を振り出す。
棒の様に感じる右足を軸に左足が着地する。
走ってる、僕は走れてる。
顔に風を感じる。自ら進んで風を……。
「おおおお」
観客が、皆がどよめく、僕の走りを見てくれている。
僕はもう一度右足を踏み出した。
しかし、右足は前に出なかった……。
奇跡は二度続かなかった。
僕はそのまま前のめりで転倒する。
顔から地面に突っ込んでしまう、
そしてそのまま倒れ込んでしまった。
ゴムの焼けた匂いがする。
全身から焼ける様な痛みが襲う。
顔から突っ込んだので、朦朧としている。多分脳震盪の様な状態になっているのかだろうか?
でも、まだだ、まだゴールテープを切っていない。
僕はゆっくりと起き上がる。
静まり返る観客……。
でもそれでいい……皆見てくれ、これが今の僕なんだ、過去の僕はもういないんだ。
僕はそう思いながら、朦朧としながら起き上がり、再び走る。
スターティングブロックが無いので、スピードは乗らない。
でも、今度は5歩も走れた。
しかし、やはりスピードが乗ると転倒してしまう。
まだ50mも行っていない、半分以上残っている。
走り切らなければ、終われない。
僕の恋を、僕の初恋を、そして僕の物語を……終わらせられない。
完走しなければ……終われない。
「お、おにいちゃんんんん、がんばれええええ!!」
「かーーくんがんばれええええ!!」
「そうだああ、たてえええ、最後まではしれええ」
妹が泣きながら僕に声援を送ってくれた、続いて夏樹も、それに吊られて橋元が、そして見ている皆が声援を送ってくれる。
「わかったって、わかってるよ……そんな事自分が一番わかってる」
嬉しい気持ちを押し殺して、僕はめんどくさそうにそう呟くともう一度立ち上がる。
前がゴールテープが見えない、涙で視界がぼやける。
でも一歩一歩足を踏み出す。
一歩一歩踏み出す毎に胸が締め付けられる。
僕はもう走れないって事を、無理やりにでもわからせられる。
それでも走る、最後まで走りたい、転倒しても最後まで……これが最後の走り、僕の引退試合なのだから。
そして……僕は血だらけに、傷だらけになりながら……ゴールテープを切った。
ゴールの先には会長が立っていた、僕はフラフラと避けきれずに会長の胸に飛び込んだ。
「あーーーーー!」
「きゃああああああ!」
「うおっっ!」
周囲からそんな声が聞こえるが、僕は今それどころではなかった。
全身が焼けるように痛い……でも、最後まで走り切った……最後の最後まで……。
「頑張ったね、ずっと……お疲れ様でした」
会長は僕をそう言って抱き締めてくれた。
その言葉に僕はホッとした。
「情けない姿を……皆見てくれたかな?」
僕は会長にそう言った。
昔の僕じゃない、今の僕の姿を見せたかった。走る事も出来ない自分の姿を、そうすれば今の僕を見てくれるって思った。
そして自分自身も、もう走れないんだって、そう思う事が出来る。
諦める事が出来る。
走れない自分を、もう全力で走る事が出来ないって事を……嫌でも認識できる。
「そんな事……ううん、そうだね、皆見ていたよ、今の宮園君を、しっかりと……」
見てくれた、今の自分を皆……そう聞いて、これで終わったって、はっきりと自分の中でそう思う事が出来た。
走る事に恋をして、そして僕は今日……その恋に終止符を打った。
そう、僕は今大失恋をした。
こんなラブコメの主人公がいてもいいだろう? ヒロインは走る事……ヒロインは陸上。
そして、最後はバッドエンド……そんな笑える終わり方。
こんな物語もあっていいだろう? 僕の悲しい物語。
さあ、次は普通の恋をしたいな…いや、普通じゃ面白くない……笑えて泣ける、本当の恋をしたいなって……。
会長に抱きしめられながら、そんな事をぼんやりと考えていた。
僕の最後の100m記録は、4分10秒89だった。
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