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ハイクオリティ要塞とは?
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ハイクオリティ要塞とは…?
一条瑠樹
熊本城でも大坂城でも江戸城でもなく… 史上最強の軍事要塞と断言する城の名前答えは名古屋城!
最も防御力が高いのはどの城か。歴史評論家の香原斗志さんは「徳川家康が建てた名古屋城だ。
本丸は高台にあり、そこにたどり着くまでに広大で深い堀と高石垣で囲われた曲輪を何度も越えなければならない。史上最強の軍事要塞といえる」という!
征夷大将軍になっても家康が最も恐れていたこと
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、総大将を務めた東軍が大勝しても、同8年(1603)に征夷大将軍に任ぜられても、徳川家康はまだ天下を掌握したとはいえなかった。
関ヶ原の戦いは、あくまでも豊臣政権の枠内における内部抗争で、家康は豊臣恩顧の大名たちの力で勝ったにすぎなかった。また、慶長8年(1603)の時点では、豊臣秀頼が成人したら関白になって天下を治める、というのが一般的な認識だった。
だからこそ、家康は征夷大将軍への任官にこだわったのだが、武家の棟梁である将軍になっても、豊臣家の権威自体が否定されるわけではない。そこで家康は、わずか2年で将軍職を嫡子の秀忠に譲り、徳川家が政権を世襲することを全国の大名たちに知らしめた。
それでも、家康の不安は消えなかった。大御所として実権を握りつづけても、将軍職を退いた時点で年齢は60代半ば。当時としてはすでに長生きで、自分が老いるのに反比例して秀頼は成長していく。
中国、四国、九州には、関ヶ原の戦い後の論功行賞で国持大名となった豊臣恩顧の大大名がひしめいており、彼らが豊臣家への忠誠心を失っていない以上、自分がさらに老いたのち、または死後に、徳川政権がどうなるかわからない。
そういう状況下で家康が意識していたのは、豊臣方との避けられない一戦だった。
「天下普請」の本当の意味
その日に備えて、家康は早い時期から対策を講じた。その中核が、諸大名に工事を割り振って費用まですべて負担させる、天下普請(御手伝普請)での築城だった。そうして築かれた城は豊臣秀頼の居城、大坂城を取り囲むように配置され、家康のための豊臣包囲網になった。
関ヶ原の戦いの翌年、東海道を押さえる膳所城(滋賀県大津市)を皮切りに、彦根城(滋賀県彦根市)、丹波亀山城(京都府亀岡市)、篠山城(兵庫県丹波篠山市)などが、大坂を囲む交通の要衝に築かれた。
包囲網の一翼を担ったそれらの城の築城工事は、豊臣恩顧の西国の外様大名たちを動員した天下普請だった。大名は将軍に領土を安堵してもらう代わりに、軍役を負っていた。しかし、平時には軍役がないので、こうした工事の負担が代わりとされ、大名は命じられれば拒めなかった。
家康はそれに乗じて、場合によっては敵になりうる西国の大名たちに重い工事の負担を課し、彼らの経済力を削ぎながらその技術力を利用し、徳川政権のための防衛体制を敷いたのだ。一石二鳥どころか一石三鳥の巧妙な戦略である。
豊臣包囲網のラストピース
家康の隠居城として、慶長12年(1607)から天下普請で大改修された駿府城(静岡県静岡市)も、豊臣方が東進してきた際、江戸の手前で食い止める役割を負っていた。
天下普請ではないが、姫路城(兵庫県姫路市)も西国の大名を牽制するために、家康が娘婿の池田輝政に命じて大改修させて生まれた城だし、伊賀上野城(三重県伊賀市)も、家康が信頼する藤堂高虎に命じて、大坂包囲網の一翼を担わせた城だった。
こうして着々と形成された大坂包囲網の決定版が、家康が慶長14年(1609)11月16日に築城を発令した名古屋城(愛知県名古屋市)だった。
もともと尾張国(愛知県西部)の中心は清洲だった。関ヶ原の戦いののち、家康は四男の松平忠吉を52万石で清洲に入れたが、慶長12年(1607)、28歳で早世してしまった。このため、まだ8歳だった九男の義直を清洲城主にしたが、その居城は清洲のままでいいのか。家康の答えは「否」だった。
というのも、清洲城は城内を五条川が横切っていて、思い通りの縄張り(基本設計)が困難なうえ、水害にも弱い。東海道を防衛するためにも適地ではない。そこで、家康は北側から北西側に広大な湿地が広がる熱田台地の北西に、まったく新しい城を築く決意をしたのだ。
恐ろしいくらい短かった工期
家康の力の入れ方は尋常ではなかった。西国や北陸などの豊臣恩顧の17大名に命じて、慶長15年(1610)閏2月に工事がはじまり、途中からさらに3大名が加わった。こうして20の大名が参加し、動員された人夫は20万人にもおよんだ。
したがって、工事の進捗は恐ろしく速かった。およそ半年後の8月27日に天守台が完成し、年末までにほとんどの石垣が積みあがっている。面積が100ヘクタール近い巨大な城郭の石垣が1年足らずで完成するなど、常軌を逸している。
とはいえ作事、すなわち建物の建築にはそれなりの時間がかかる。本丸御殿が完成して城全体が竣工したのは、大坂夏の陣直前の慶長20年(1615)2月だった。
簡単には本丸にたどり着けない
おそらくは攻城戦を想定して築かれた名古屋城は、きわめて攻めにくい造りになっていた。まず、北から西南方面は低湿地が広がり、城がある台地はそこから絶壁ともいえる崖を上がった高台にある。
このように放っておいても防御力が高い北側に本丸をはじめ城の中枢部を置き、南に広がる平野部には二の丸、その外側に広大な三の丸が構えられた。それぞれ石垣と広く深い堀に囲まれているので、敵の侵入は困難だ。
それでも敵が外堀を超えて三の丸に侵攻したとしよう。ほぼ正方形の本丸は、左上の御深井丸、左下の西の丸など、広大な堀と高石垣に囲まれた曲輪で囲まれ、なかなかたどり着けないが、こうして幾重にも守られた奥にある本丸単体の防備もまたすごい。
敵の侵入はまず不可能
8メートルという深い堀で囲まれた本丸は南に大手口、東に搦手口があり、それぞれ門を二重構えにし、敵がまっすぐ入れないように二つの門をずらした枡形を構成している。さらに、それぞれの出入り口(虎口)の外側には、門を守るために堀で囲まれた馬出がもうけられた。
また、本丸の東北、東南、西南の隅には3階建ての櫓が建ち、西北の隅には天守がそびえていた。また、これら四隅は土塀ではなく、多門櫓でつながれていた。
多門櫓とは長屋式の櫓で、高石垣上にこれが連なっていると敵の侵入はまず不可能で、守る側は天候に左右されず屋内から敵を射撃できた。
姫路城の2倍というドデカい天守
そして、天守が超弩級の建築だった。加藤清正が築いた天守台の石垣上に建った、5重5階地下1階の巨大な天守は、1階の大きさが約37メートル×33メートル。内部に敷かれていた畳は1759畳におよんだという。
36メートルという高さは、のちの江戸城天守や徳川大坂城天守にかなわなかったが、4425平方メートルという延べ床面積は姫路城天守の約2倍で、史上最大だった。
大天守と小天守からなる連結式のこの天守は、一般には松や杉材が使われることが多いのに対し、高級な木曽ヒノキで建てられ、約30センチもあった壁には厚さ12センチのケヤキ板が鎧状に埋め込まれていた。
こうして壁面を強固にするだけでなく、ほかにも徹底した防御態勢が敷かれていた。小天守の入り口から入って大天守の1階にたどり着くまでに、4カ所の門扉を通り抜け、5回も直角に曲がらなければならなかった。また、小天守と大天守の入り口の門扉はともに総鉄板張りで、頭上に石落としが開けられていた。
完成してから300年以上、残っていたこの天守が、昭和20年(1945)5月の空襲で焼失したことは、悔やまれてならない。
名古屋市が東海地方の中心になったワケ
名古屋城は家康が、まさにこだわり通した末にできあがった、最後にして最強の軍事要塞だった。そして、この要塞をより堅固なものにするために、家康はさらに途方もないことを計画し、実行に移した。
新たな築城を決意すると同時に、清洲の町をそっくり名古屋に移すことにしたのだ。慶長15年(1610)には、いわゆる「清洲越し」がはじまり、武士や町人が約6万人、名古屋に引っ越し、67の町および約100の寺社も名古屋に移った。寺社は城の防衛に寄与するように、町人地の外側にまとめて配置したことも、家康のこだわりだといえるだろう。
とにかく、名古屋城とその築城の過程を眺めてわかるのは、家康の手抜きが一切ない徹底ぶりである。それは執念とか執着といった言葉では表現しきれないほどの、執拗なこだわりだが、そういう姿勢を貫いたからこそ、二百数十年も続く体制を築くことができたのに違いない。
慶長19年(1614)、大坂冬の陣に臨むために駿府城をたった家康は、まず名古屋城に立ち寄って陣容を整えている。家康がこれほど堅固な名古屋城を築いた理由は、その事実からも垣間見えるのでないだろうか。
さらには、名古屋城と城下町を包み込む、西洋の城郭都市のような総構えを築くのが家康の構想だったのだが、それは築かれずに終わった。豊臣氏が滅び、もはや包囲網が必要なくなったからである。
4月16日歴史 論文 一条瑠樹
一条瑠樹
熊本城でも大坂城でも江戸城でもなく… 史上最強の軍事要塞と断言する城の名前答えは名古屋城!
最も防御力が高いのはどの城か。歴史評論家の香原斗志さんは「徳川家康が建てた名古屋城だ。
本丸は高台にあり、そこにたどり着くまでに広大で深い堀と高石垣で囲われた曲輪を何度も越えなければならない。史上最強の軍事要塞といえる」という!
征夷大将軍になっても家康が最も恐れていたこと
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、総大将を務めた東軍が大勝しても、同8年(1603)に征夷大将軍に任ぜられても、徳川家康はまだ天下を掌握したとはいえなかった。
関ヶ原の戦いは、あくまでも豊臣政権の枠内における内部抗争で、家康は豊臣恩顧の大名たちの力で勝ったにすぎなかった。また、慶長8年(1603)の時点では、豊臣秀頼が成人したら関白になって天下を治める、というのが一般的な認識だった。
だからこそ、家康は征夷大将軍への任官にこだわったのだが、武家の棟梁である将軍になっても、豊臣家の権威自体が否定されるわけではない。そこで家康は、わずか2年で将軍職を嫡子の秀忠に譲り、徳川家が政権を世襲することを全国の大名たちに知らしめた。
それでも、家康の不安は消えなかった。大御所として実権を握りつづけても、将軍職を退いた時点で年齢は60代半ば。当時としてはすでに長生きで、自分が老いるのに反比例して秀頼は成長していく。
中国、四国、九州には、関ヶ原の戦い後の論功行賞で国持大名となった豊臣恩顧の大大名がひしめいており、彼らが豊臣家への忠誠心を失っていない以上、自分がさらに老いたのち、または死後に、徳川政権がどうなるかわからない。
そういう状況下で家康が意識していたのは、豊臣方との避けられない一戦だった。
「天下普請」の本当の意味
その日に備えて、家康は早い時期から対策を講じた。その中核が、諸大名に工事を割り振って費用まですべて負担させる、天下普請(御手伝普請)での築城だった。そうして築かれた城は豊臣秀頼の居城、大坂城を取り囲むように配置され、家康のための豊臣包囲網になった。
関ヶ原の戦いの翌年、東海道を押さえる膳所城(滋賀県大津市)を皮切りに、彦根城(滋賀県彦根市)、丹波亀山城(京都府亀岡市)、篠山城(兵庫県丹波篠山市)などが、大坂を囲む交通の要衝に築かれた。
包囲網の一翼を担ったそれらの城の築城工事は、豊臣恩顧の西国の外様大名たちを動員した天下普請だった。大名は将軍に領土を安堵してもらう代わりに、軍役を負っていた。しかし、平時には軍役がないので、こうした工事の負担が代わりとされ、大名は命じられれば拒めなかった。
家康はそれに乗じて、場合によっては敵になりうる西国の大名たちに重い工事の負担を課し、彼らの経済力を削ぎながらその技術力を利用し、徳川政権のための防衛体制を敷いたのだ。一石二鳥どころか一石三鳥の巧妙な戦略である。
豊臣包囲網のラストピース
家康の隠居城として、慶長12年(1607)から天下普請で大改修された駿府城(静岡県静岡市)も、豊臣方が東進してきた際、江戸の手前で食い止める役割を負っていた。
天下普請ではないが、姫路城(兵庫県姫路市)も西国の大名を牽制するために、家康が娘婿の池田輝政に命じて大改修させて生まれた城だし、伊賀上野城(三重県伊賀市)も、家康が信頼する藤堂高虎に命じて、大坂包囲網の一翼を担わせた城だった。
こうして着々と形成された大坂包囲網の決定版が、家康が慶長14年(1609)11月16日に築城を発令した名古屋城(愛知県名古屋市)だった。
もともと尾張国(愛知県西部)の中心は清洲だった。関ヶ原の戦いののち、家康は四男の松平忠吉を52万石で清洲に入れたが、慶長12年(1607)、28歳で早世してしまった。このため、まだ8歳だった九男の義直を清洲城主にしたが、その居城は清洲のままでいいのか。家康の答えは「否」だった。
というのも、清洲城は城内を五条川が横切っていて、思い通りの縄張り(基本設計)が困難なうえ、水害にも弱い。東海道を防衛するためにも適地ではない。そこで、家康は北側から北西側に広大な湿地が広がる熱田台地の北西に、まったく新しい城を築く決意をしたのだ。
恐ろしいくらい短かった工期
家康の力の入れ方は尋常ではなかった。西国や北陸などの豊臣恩顧の17大名に命じて、慶長15年(1610)閏2月に工事がはじまり、途中からさらに3大名が加わった。こうして20の大名が参加し、動員された人夫は20万人にもおよんだ。
したがって、工事の進捗は恐ろしく速かった。およそ半年後の8月27日に天守台が完成し、年末までにほとんどの石垣が積みあがっている。面積が100ヘクタール近い巨大な城郭の石垣が1年足らずで完成するなど、常軌を逸している。
とはいえ作事、すなわち建物の建築にはそれなりの時間がかかる。本丸御殿が完成して城全体が竣工したのは、大坂夏の陣直前の慶長20年(1615)2月だった。
簡単には本丸にたどり着けない
おそらくは攻城戦を想定して築かれた名古屋城は、きわめて攻めにくい造りになっていた。まず、北から西南方面は低湿地が広がり、城がある台地はそこから絶壁ともいえる崖を上がった高台にある。
このように放っておいても防御力が高い北側に本丸をはじめ城の中枢部を置き、南に広がる平野部には二の丸、その外側に広大な三の丸が構えられた。それぞれ石垣と広く深い堀に囲まれているので、敵の侵入は困難だ。
それでも敵が外堀を超えて三の丸に侵攻したとしよう。ほぼ正方形の本丸は、左上の御深井丸、左下の西の丸など、広大な堀と高石垣に囲まれた曲輪で囲まれ、なかなかたどり着けないが、こうして幾重にも守られた奥にある本丸単体の防備もまたすごい。
敵の侵入はまず不可能
8メートルという深い堀で囲まれた本丸は南に大手口、東に搦手口があり、それぞれ門を二重構えにし、敵がまっすぐ入れないように二つの門をずらした枡形を構成している。さらに、それぞれの出入り口(虎口)の外側には、門を守るために堀で囲まれた馬出がもうけられた。
また、本丸の東北、東南、西南の隅には3階建ての櫓が建ち、西北の隅には天守がそびえていた。また、これら四隅は土塀ではなく、多門櫓でつながれていた。
多門櫓とは長屋式の櫓で、高石垣上にこれが連なっていると敵の侵入はまず不可能で、守る側は天候に左右されず屋内から敵を射撃できた。
姫路城の2倍というドデカい天守
そして、天守が超弩級の建築だった。加藤清正が築いた天守台の石垣上に建った、5重5階地下1階の巨大な天守は、1階の大きさが約37メートル×33メートル。内部に敷かれていた畳は1759畳におよんだという。
36メートルという高さは、のちの江戸城天守や徳川大坂城天守にかなわなかったが、4425平方メートルという延べ床面積は姫路城天守の約2倍で、史上最大だった。
大天守と小天守からなる連結式のこの天守は、一般には松や杉材が使われることが多いのに対し、高級な木曽ヒノキで建てられ、約30センチもあった壁には厚さ12センチのケヤキ板が鎧状に埋め込まれていた。
こうして壁面を強固にするだけでなく、ほかにも徹底した防御態勢が敷かれていた。小天守の入り口から入って大天守の1階にたどり着くまでに、4カ所の門扉を通り抜け、5回も直角に曲がらなければならなかった。また、小天守と大天守の入り口の門扉はともに総鉄板張りで、頭上に石落としが開けられていた。
完成してから300年以上、残っていたこの天守が、昭和20年(1945)5月の空襲で焼失したことは、悔やまれてならない。
名古屋市が東海地方の中心になったワケ
名古屋城は家康が、まさにこだわり通した末にできあがった、最後にして最強の軍事要塞だった。そして、この要塞をより堅固なものにするために、家康はさらに途方もないことを計画し、実行に移した。
新たな築城を決意すると同時に、清洲の町をそっくり名古屋に移すことにしたのだ。慶長15年(1610)には、いわゆる「清洲越し」がはじまり、武士や町人が約6万人、名古屋に引っ越し、67の町および約100の寺社も名古屋に移った。寺社は城の防衛に寄与するように、町人地の外側にまとめて配置したことも、家康のこだわりだといえるだろう。
とにかく、名古屋城とその築城の過程を眺めてわかるのは、家康の手抜きが一切ない徹底ぶりである。それは執念とか執着といった言葉では表現しきれないほどの、執拗なこだわりだが、そういう姿勢を貫いたからこそ、二百数十年も続く体制を築くことができたのに違いない。
慶長19年(1614)、大坂冬の陣に臨むために駿府城をたった家康は、まず名古屋城に立ち寄って陣容を整えている。家康がこれほど堅固な名古屋城を築いた理由は、その事実からも垣間見えるのでないだろうか。
さらには、名古屋城と城下町を包み込む、西洋の城郭都市のような総構えを築くのが家康の構想だったのだが、それは築かれずに終わった。豊臣氏が滅び、もはや包囲網が必要なくなったからである。
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