朱の緊縛

女装きつね

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 幾年月が過ぎたのだろう。

「また明日ねっ」

「うん、また明日、明日ね。うん……あれ、影が黒い。君は誰だっけ」

 小さな穴に器が置かれると、十七の影がそれに近づいた。常に低温で日の入らないこの場所はおそらく地下室なのだろう。幾程の時間だったのか。しかし極限の状態に時間などは無意味だ。本能で器を取り喉に通す。これからの諸行に肉体が耐えうるように。芋虫のような十六体の化け者が、その様子をジーッと眺めていた。彼女は止血の役目をしている布を、右肩からむしり取る。それは逃避や絶望ではない、彼女が貪欲に未来を求めた行為だ。滅の狭間で彼女は一体の化け者と左手の平を合わせる。

「私をお前に移す。外へ、……外へ出るぞっ」

 “ 生き移し” 
 
 いにしえでは、水面を使っていた行為だが、この場所は十六の鏡が面としている。封印と気を狂わせる為のものだろう。割ってしまっては音が出る。彼女は十五の鏡に、自らの鮮血で封をした。自殺行為だ。しかし、物理を超えるような諸行は、滅の狭間でなくては超える事は出来ない。その事を彼女は熟知していた。

「外へ出るぞ……ウッ……ググァアア"ッ」


「ギ、ギャアァァアッ」

「神弥宮様っ、ど、どうなされましたかっ」

 カナダ大使館で、スカッシュを楽しむ要人を写す鏡の前には、右腕より鮮血を流した彼女が倒れていた。


――昭和五十八年八月――

 京都市山科区きょうとしやましなく。そこに正暦しょうりゃく二年、約千年の歴史を誇る随心院ずいしんいんが門を構えている。真言宗しんごんしゅう同士による分派、対立に最後まで抗いを続けた一派だ。

 広々と開けた格子のふすまから、ひさしの陰向こうで青々とした八月の庭園を景観させる本堂の一間で、男性は拳を膝に添え、僅かに声を奮わせていた。

「だが桔梗ききょう殿っ、やはり共に暮らすべきではないのですかっ」

 織屋桔梗おりやききょう。平安時代に起こった宗派内の対立までは禁戒きんかいなどとはされていなかった女性の術僧だ。桔梗は中程に垂らした御簾みすの奥から、至極穏やかな口調で男性へゆっくりと言葉を返した。

「決して忌み子等と言う事ではないのです。あの者達が共に在ればどちらかは必ず滅となるのです」

「だけどっそれは殺すって事ではないのですか、それならば風習を絶ち切ればよいではないですかっ、桔梗殿」

 庇を潜った夏の陽射しが御簾を透かす。ゆっくりと、ゆっくりと桔梗は首を横に振る。

「違うのです。腹を痛めた我が子です。風習などでしたら私も手をこまねいてはおりません。これは抗いようのない事なのです」

「桔梗様ぁ、準備終わりました」

「これ。駆けるでないぞ、鏡子」

 十一歳になる桔梗の娘、鏡子がヒョイと顔を出した。環境のせいなのだろう、年齢を疑う程にりんとした雰囲気を感じる女の子だ。

慶滋よししげ殿にはしっかりと敬礼を伝えてくださいね。忠国を仕えておきました。宮崎までの道中、気を配るのですよ」

「はい。では行ってまいります、桔梗様」

 言葉は固いが、いわゆる夏休みの旅行なのだろう。鏡子は微笑みを隠す事もなく嬉しそうに駆けていった。

「これっ、駆けるではないと……酒井殿、よろしくお願いいたしますね。二人が平穏に過ごせるように」


――八月のうだるような暑さの中。宮崎空港に脚を降ろした鏡子と仕え役の忠国。ロビーで荷物を受け取り空港を出ると、タクシー専用車線の向こう側から、鏡子を呼ぶ幼い声がした。夏休みの期間、鏡子の世話を預る慶滋靖崇よししげせいたか。幼い声の主は彼の実子である女の子のものだ。

 五歳のその女の子は、姉妹が居ないせいか随分と鏡子を慕っていた。久方ぶりに見る鏡子の姿にすっかり心を踊らせていたのだ。

 慶滋の命で出迎えに着いたその車の助手席に仕えの忠国、後部座席には鏡子が腰を降ろす。鏡子の隣りには嬉々とした微笑みで鏡子の腕にしがみつく女の子の姿があった。慕い寄り添うその女の子の髪を指でかしながら鏡子は長旅の疲れを背凭せもたれに預けた。

 宮崎空港から二時間ほど走らせた宮崎県上伊形町かみいがたまち。鏡子は毎度、慶滋を訪ねる前に立ち寄らねばならない神社がある。上伊福形かみいがた神社だ。この神社は元の名前を丹生大明神にうだいみょうじんといい、天平感宝てんぴょうかんぽう元年。後に言われる天平勝宝てんぴょうしょうほう元年に、存在を葬られた太陽と炎の女神、天照大神あまてらすおおみかみの妹である水鐘みずかねの女神、丹生都比売にうつひめを奉る為に建てられた神社だ。

 修行禅の折、そこに納めてある “ しゅを施した鏡 ” が鏡子には必要だったのだ。鏡と言ってもそれは銅を磨いた年代物で、本来は持ち出す事など叶わない重要文化財であったが、それを悠々ゆうゆうと持ち出せる疑問など、十一歳の鏡子は気にもとめていない。その鏡を受け取り、上伊福形神社より北へ車で三十分ほど走った宮崎県日向市ひうがしにある大御おおみ神社。ここが鏡子が寝食を世話になる場所だ。

 慶滋靖崇の家屋かおくでもあるここは、丹生都比売の姉である天照大神を奉る神社だ。駐車場も整備され、最近は観光地としても賑わいを見せているらしい。その賑わいに車から脚を降ろした鏡子は舌打ちを隠しながら社殿しゃでんの脇を通り、家屋母屋おもやへ歩を進めた。

「おぉ、織屋殿。道中のご無事なによりですぞっ」

「御気遣いありがとうございます。この度もよろしくお願いいたします」

「いづれの花嫁に事があっては大変だからなっ」

 『ちっ、俗物めがっ』 

 鏡子はこの男、  慶滋靖崇が苦手だった。その品格の無さと俗欲ぞくよくれたさまは、子供心にも耐え難いものがあったのだ。まして、織屋家の了承もなく子息の靖那せいなを自らの御家の為につがいにさせようと目論んでいるのだから、鏡子には尚更だ。

「おぉ~鏡子ぉ。久方だなぁっ」

 子息の靖那。その様に鏡子は、血は争えぬものだと嘆息たんそくを漏らす。鏡子は無言で会釈えしゃくを済ませ、用意されている座に脚を向けると、先程の幼い女の子が腕に抱き着いて来た。そう、この女の子の為になのだ。気が進まずとも鏡子がここを訪れるのは。

 女性の神を奉っているからなのだろうか、直血を持つ女性をしいたげる一派だと桔梗に聞かされていた鏡子は、この女の子を出来る事ならば随心院へと想いを募らせていた。

 手を引き、外で遊ぼうと急かす女の子の声にあれよと誘われる鏡子。座の後を預けるとの言葉に引き止めかけた忠国を背に鏡子は『あの座で穢れ者に囲まれるよりは余程だ』と微笑みを浮かべていた。

 社殿を背にすると太平洋が目の前に広がる。本州の太平洋とは違い、随分と荒々しい波を立てている海岸だ。その海岸に向かい三分ほど歩くと、鵜戸うど神社と印された石碑と鳥居があり、その先が女の子の遊び場だった。急な岸壁に沿って作られた石段を女の子はすたすたと降りていく。鏡子も女の子の後を追うが、天候が悪い時には波に洗われるようなその石段はすっかりこけに被われ、どうにも足元がおぼつかない。石段を降りると、昇り龍の形に掘られた岩窟がんくつがある。女の子は鏡子の手を取ると、その岩窟がんくつの奥へと誘った。

「きょうねぇちゃんはもうここでおいのりしたんだもんねぇ、ねぇねぇこわかったあ?」

「あぁ、そりゃあもう怖かったよぉ~ヘビさんや虫さんがうじゃうじゃって。がぁあーっ」

「きゃあ~っあははっ、あははっ」

 岩窟を入り突き当たると奥行四十メートルほどあるほこらの奥に、御祈りの部屋がある。御祈りの部屋などと随分と聞こえの良い名前だが、そこは鏡子には酷烈こくれつな記憶の場所だった。小型の生き物を百匹と放し、それと共に八日の間そこに閉じられる。無事出て来る事が出来たのなら妖気をまとうとされている “ 蟲毒壺こどくつぼ ” という業を行う場所だ。

 二年前の夏、鏡子は九歳の時にここに閉じられた。その記憶はたかが二年でぬぐう事等叶わない酷悪こくあくなものだった。と、ふと鏡子は靖那が九歳だという事を思い出し、兄の業は終わったのかと女の子に言葉を投げる。

「ううん、まだだよぉ。こわいからやだっていってたもん」

 その日、暮れるまで遊んだ二人は『また明日ね』と小指を絡め、家屋母屋で別れた。明日、また差し出せる小指を何一つ疑う事も無く。

 『うーそついたらはりせんぼんのーますっ、ゆびきったっ。きゃははは、きょうねぇちゃ……』


――日中の喧騒けんそうも消えた午後七時。逢魔時おうまがどきける頃、波打ちの音だけが響き月灯りが射し込む社殿の本殿に、鏡子は独り眼をつむり座を降ろしていた。 “ 朱を施した鏡 ” を対として。

「現れたな……さて、始めるか」

 瞑っていた眼を開き。不動のまま鏡を見つめていた鏡子が脇に備えていた刃渡り三尺一寸、朱い柄巻きの刃を手に取り鞘を抜く。と、朱を施した鏡よりもう一人の “ 鏡子 ” が形を成し現れた。

 “ 朱を施す鏡 ” その名の由来なのだろう。その鏡は映る者の一段格上を現世に作り出す業の器だ。格上の自分と刃を交わせ己れを磨く。誰に強いられる事もなく鏡子自ら好み、挑んでいる業だった。一際に常軌を逸した光景だが、それは幻想等では無い。鏡から成し現れた鏡子は楽々と鏡子の刃を避け、隙も無く斬り込んで来る。その刃は確かに鏡子の皮膚を裂き、鮮血を流させている。永遠に勝つ事が叶わない相手。いかに腕を上げようとも、さらにの格上が姿を現わし刃を交わす。しかし鏡子はそれに恍惚さえ覚えていた。

「はぁはぁっつ……く、くそぉムカつく顔しやがってぇえ……ハァアアッ」

 風を裂く刃音と鏡子の息遣いは、漆黒の闇が深くなるうしの刻、午前ニ時まで続いていた。


 翌の日中。社殿は夏休みというのも相まって、観光客であわただしく喧騒に満ちている。

「忠国ぃ~せっかくだからさぁ、チーズ饅頭とチキン南蛮は外せないよねぇ」

 時折、旅行気分で仕えの忠国にそれらしいおねだりをするあたりは、荒業あらぎょう嬉々ききとしてこなすとはいえ、まだまだ十一歳の女の子だという事を忠国に改めさせる。

「そうですね、では車を用意して参りますので」

「そういえば今日は姿が見えないなぁ……地元の子達とでも遊んでいるのかなあ?」

「きっとそうではないかと。私も今朝より目にしておりませんので」

 夕刻となる頃、僅かな観光を終わらせ大御社殿に戻った鏡子と忠国は、家屋母屋の間に座を降ろし、慶滋の者達と一時の談話を交わしている。するとえん軋轢あつれきを交わすような声が皆が座としている間にまで響いてきた。

「靖那殿っ、遅くとも今宵よりは蟲毒の業を始めなくては」

「ダメだよぉ~、だって昼間見て来たら鎖鍵くさりかぎがかかっていたもん。誰かがやっているんじゃないのぉ?」

「誰か等とっ、今年度は靖那殿以外にはおりませんっ」

「だってぇ~、鍵がしてあったもん。いいんじゃない? そんな古臭い事やらなくてもさぁ」

「ふ、ふぁははっ、靖那も我が儘だなぁ。よいよいわ」

 様子を伺っていた父の靖崇が構わないとばかりに笑い飛ばす。その態度と子息靖那の振舞いに、鏡子は憤懣ふんまんを膝上の拳と下唇に堪える。

 ふと鏡子の拳から力が抜けた。疑心が走ったのだ。昨日見た時は祠に鎖鍵などはされていなかったはずなのだ。鏡子は無言で忠国に視線を投げる。と、それを悟られないよう至極浅く忠国は瞼を閉じ返答をした。

『何か胸がざわつく……頼む、忠国』

『わかりました鏡子様。お任せください』


――逢魔時を越えた刻。鏡子はざわつく胸を抑え、またも社殿の本殿で刃を奮わせていた。

「はぁはぁ……んっとにムカつく顔だなぁこいつぅ」

「き、鏡子様っ」

 突如荒々しく戸を引いた忠国に “ 朱を施した鏡 ” の鏡子はスーッとその姿を消す。

「な、なんだ? どうした、忠国」

「鏡子様……お、恐らく岩窟の祠の奥には」

「な……んだとぉ……っ」

 忠国の言葉を聞いた鏡子は、その形相を更に一変させると、刃を鞘に収める事もなく素足のままで本殿を飛び出し岸壁へ向かう。石段を駆け降り、一層に闇を拡げる岩窟に入り祠までたどり着くと、昨日までは無かった鎖鍵が幾重にも掛けられていた。鏡子は直感で悟った。中に居るのはあの子だと。

「くぅそぉおっ、あの人外どもぉおっ、まだ五歳だぞふざけんっ……」

 何度も何度も鎖鍵へ鏡子は刃を叩き突ける……その鬼の形相のまま頬を濡らしながら。

「切れ……たか、忠国ぃっ祠をっ」

「は、はいっ」

 ようやく解いた鎖鍵を外し、忠国が祠を避けようとに力を込める。と、倒された祠の奥には無数のむしに囲まれ首をもたげた女の子の姿があった。

「た、忠国ぃ救急車っ、早くうっ」

「……は、はいっ」

「ごめんっごめんっ、私が付いていなが……っ、」

 女の子を抱き抱える鏡子がそれに目線を奪われ硬直した。全ての蟲がぴくりとも動かず死んでいたのだ。いや、蟲だけではない。岩を削り作られたその部屋中の全てが凍っている。

「き、鏡子様ぁ、手配しました、すぐに救急車は来るそうですっ」

 女の子を忠国に抱え渡し、すーっと顎を上げた鏡子は、刃を持ち直すとその気配を尖鋭せんえいに変える。その様は忠国に言葉を許さずに封じようも無く膨らんだ……まるで鏡子のそこだけが烈火に包まれたように。

「忠国……あとは頼む……っ」

「き、鏡子……様」



「……靖那ぁああっ」

「ひ、ひっ……ギ、ギャアァアッ、」

 家屋母屋に駆け上がった鏡子は寝息を立てる部屋の戸を破り、一切の問答なしに靖那にその太刀を入れた。その形相……それは誠に “ 鬼 ” と化していた。

「靖那殿っいかがなされ……ギャアァアッ」

「何事だっ、これは……鏡子殿っ」

 駆け付けた靖那の父、靖崇が激しい形相で声を荒げる。しかし、これが鏡子には更なる煽りとなってしまったのだ。

「きっ……さまがぁっ」

「ヒッ……ギャアァアッ」

 月灯りに格段の冴えを走らせた鏡子の刃が靖崇の手首をボトンと床へ落とす。間はたちまち噴射するが如き、噴き出す血に朱く染まっていった。

「き、鏡子様……っ」

 刃を握り立ち尽くす鏡子の顔は返り血で “ 狐面 ” のように彩られている。月夜に照らされたそれは人為らざる物の、しかし息を浸くほどに妖艶な “ もののけ ” の如く……忠国はその様にまるで時が止まったかのように魅入ってしまっていた。


――京都市随心院――

「致し方ありませぬ」

「しかし桔梗様っ、鏡子様の致した事はっ」

「わかっておる忠国っ、恐らく私とてその様にしたかもしれません」

「で、では破門などと……まだ十一歳ですぞ、鏡子様はっ」

「鏡子とそなたを破門にしなくては西とだけではなく、最終的には宮との争いになるっ……収めなくてはならないのだ」

 それは是が非でも避けなければならない事だった。桔梗は憤慨の収まらぬ忠国にひとつの提案をした。しかしそれは我が子をまたも手放さなくてはならないという辛い選択だった。

「忠国、そなたには名を変え医者として世を過ごす手筈をしておきます。故、後末まで鏡子の側に居てはくれまいか」

「わ、わかりました桔梗様……この忠国、命に代えても、その命を全ういたします」

 僅かに透ける御簾の奥で桔梗は肩を奮わせ頬を濡らしていた。この時より忠国はその名前を変え、鏡子の側で密かに仕える事となった。
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