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第3章
第07話 涙を拭って確かめた先に
しおりを挟むヒストリアが倒れた翌日。彼が倒れたことそのもにが、夢であることを願ったもののそれは叶わず……付き添い室で目が覚めた。備え付けの置き時計を確認すると、時刻は午前6時を過ぎたところ。空気の入れ替えのために窓を開けると、朝の日差しが心地よく小鳥の声が愛らしく響く。
あまりの平和な雰囲気に、夫のヒストリアが倒れたことも嘘なのではないかと思うくらいだ。まぁそんな都合の良い展開は、ないのだろうけれど。
「はぁ……これでヒストリアの具合が良くなっていれば、悩みなんかないのに。呪いがかけられているんじゃ、そんな簡単に治るはずないよね」
ふと鏡を見ると寝不足気味の素顔が、こちらを見つめている。洗顔や歯磨き、身嗜み程度のメイク、着替えなどの身支度をひと通り整えて、まずは夫ヒストリアが眠る病室へ。するとお医者様と看護婦さんがちょうどのタイミングで、病室から出てきた。
「あぁ紗奈子さん、おはようございます。今、新しい点滴に替えたばかりです。容態は安定していますが、呪いがまだ解除出来ていないので会話は難しいかと……」
「おはようございます。あの一応、夫の顔だけでも見たいので」
「……そうですよね。何かあったら、ナースコールで呼んでください。では」
コンコンコン!
「おはよう……ヒストリア、調子はどう? 入るわよ」
「……すぅすぅ……」
遠慮がちに付き添い室隣の病室のドアを開けると、夫の静かな寝息とカチコチと鳴る時計の秒針だけが聞こえてきた。いつもだったら蕩けるような美声で優しく『おはよう』と朝の挨拶を交わして、天使のような眼差しで微笑みながら柔らかなキスをくれるはずだ。けれどそれは、呪いのチカラで体力を奪われている彼にとって、無茶な話というものだろう。
「今日も点滴なんだね、痛くない?」
「…………」
「薬草がある隣の里までは半日くらいで着くらしいけど、すぐに折り返しで帰るのは難しそうだから、今日は向こうで泊まると思う。でも爺やさんや守護天使様が、こっちに残ってくれるから、安心してね」
「…………」
もちろん、返事が出来ないのは分かっているけれど、心のどこかで彼に言葉が届くと信じて話しかける。取り替えたばかりだという痛々しい点滴が、彼の腕の自由を奪っていて、触れることすら躊躇してしまう。
「ヒストリア、大好きよ。行ってきます……」
バタン……!
習慣通りのおはようのキスをヒストリアにそっと贈って、病室のドアを閉じる。
「…………紗奈子」
青白い顔で眠りながら呪いに抗うヒストリアが、ポツリと私の名を呼んだ気がした。
* * *
「ヒスのことは僕に任せて、紗奈子はフィードと採取に向かって。きっと上手いくから」
「ナルキッソス様、ヒストリアをお願いします」
私の代わりに待機してくれる守護天使ナルキッソス様に挨拶し、治療センターを出る。異なる観光客向け施設に泊まっていた守護天使フィード様や爺やさんと茶店で落ち合い、朝食を摂りながら今日の予定を話し合う。店内は小さめながら、色とりどりの折り鶴や赤い提灯が差し色となってお洒落な雰囲気だ。
特にゼルドガイア出身の爺やさんは、慣れない障子や靴を脱いで座る形式の畳に落ち着かない様子。
「お待たせしました。山登りにぴったりな軽食おにぎりセットです。ごゆっくりどうぞ!」
「ほう! これがおにぎりという奴ですか、米が三角形に形作られて携帯食にぴったりですな。ヒストリア様が元気になったら、ぜひ食べさせてあげなくては」
「……そうね、ヒストリアが回復したら、いろいろな東の都の料理を作ってあげたいわ」
爺やさんは必ずヒストリアの呪いは解けると信じているようで、前向きな未来を見据えたセリフしか語らない。
胃もたれしない程度の食事として人気だというセットは、麦茶、梅おにぎり、昆布おにぎり、卵焼き、きゅうりの漬物というシンプルな和のメニュー。異世界に転生してきてからというもの殆ど口にしていない『おにぎり』の味に、思わず懐かしさが込み上げる。そしていろいろな料理に挑戦していたにも関わらず、ヒストリアに『おにぎり』を作っていなかったことにも気付いてしまった。
(おにぎりなんて、前世が日本育ちの私からすると定番のメニューだから、敢えて新婚生活の食卓に並べなかったけど。西洋風文化のゼルドガイア地域の人達からすると、珍しい料理であることに違いなかったんだわ。和食好きのヒストリアに、もっといろいろ作ってあげれば良かった)
気がつけば目元が潤んできて、視界がぼやけてしまう。
「おやおや、紗奈子様にはこの梅干しとやら、ちと酸っぱかったでしたか。これはこれで、慣れるとかなりイケる味ですが」
「うん。ちょっと刺激があるけど、麦茶と一緒に頂けば、かなり美味しいわ。心配かけてごめんなさい……大丈夫よ」
思わず泣き出してしまうそうな思いは、側から見ると梅干しのすっぱさで涙目になっているようにしか見えないだろう。ううん、そういうことにしておかないと、これから薬草の採取だってまともに出来っこない。
涙がこぼれ落ちそうな瞳を擦り苦笑い、すると守護天使フィード様が、隣の里のパンフレットを片手に今日の予定について語り出した。
「山道の途中に休憩エリアがあるから、多分今日のお昼はそこになると思うんだけど。お弁当もここで買うから……隣の里までのおにぎりの具は、刺激の少ない味にしておこうか。はい、これパンフレットね」
「ありがとう。そういえば隣の里のパンフレットって、まだ読んでいなかったわ。えぇと、自然豊かな山間、最後の輪廻で訪れる運命の里、あらっ。ここって……」
「大胆なキャッチフレーズだよね、【最後の輪廻で訪れる運命の里】って。人気の移住地ってことを言いたいんだろうけど、噂もいろいろあるし……」
(最後の輪廻で訪れる運命の里って、スローライフを満喫出来ることがウリの乙女ゲームのキャッチフレーズだわ。やはりこの異世界は、ゲームの世界とリンクしている。ううん、問題はそこじゃない。プレイヤーが【一生をその里で過ごす】ことがテーマのスローライフ系乙女ゲームの舞台に、足を踏み入れて本当に大丈夫なの?)
涙を拭ってから確かめたパンフレットには、異世界転生者が集うと噂の不思議な里の紹介文。前世で見覚えのあるキャッチフレーズに動揺して、思わず心が震える。
そして、行ったっきり戻ってこなくなり、定住してしまう者が絶えないというそのカラクリが……【一生をその里で過ごす】というゲームシステムとのリンクが原因であることも、何となく気づき始めたのであった。
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