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断章
地球の葉桜
しおりを挟む「桜、ついに散っちゃったかぁ。いや、葉桜はまだ残ってるかな」
朝のニュースを見るなり、桜との別れを嘆く若い男の声が広いダイニングに響く。
「せめてこの間の休みが、あんな雨降りじゃなければね」
「だよね……おはよ、莉亜さん」
雪の季節が過ぎ去り、春が来て、あっという間に桜は散ってしまった。春の雨が長かった影響で、美しい桜を鑑賞するタイミングを失ったのだ。
(この夢は何? 一体、誰の記憶)
今朝はようやく晴れた土曜日の朝で、残念ながら桜はもう鑑賞出来ないことが確定済み。地球の日本という国は、四季が愉しめるのが良いところのはず。だが、この数年は寒暖の差が異様に激しく春も秋も短く終わってしまう。
地球温暖化の影響を受けているのだと誰もが口を揃えていうけれど、莉亜は何処か納得がいかなかった。
(莉亜って、誰? 私はルクリア、莉亜は私……?)
莉亜という女性は髪の長さはルクリアと同じくらいのロングで、今日はハーフアップに結んでいる。地毛は東洋人特有の黒髪のようだが、色を入れているらしく、亜麻色になっていた。
夫の方は莉亜よりも幾つか歳下ということだけは、ルクリアにも当然のようにインプットされている。黒髪を揺らしてまだ幼なげな表情で妻を見つめる姿が、不思議と同情を誘った。何故彼から哀愁を感じるのか、理由はルクリアにも分からない。
「せっかく晴れたのに、もう葉桜になっちゃったわ」
「こんな時、一軒家だったらスキマ時間に庭先で花見でも出来たのかなって思うけど。タワーマンションは、ちょっとだけ不便だね。けど、駅前の桜の通りは花見気分を味わえたんじゃないかな。病院へ行くのに駅前を通るだろう?」
まだ新婚といっても差し支えない莉亜と歳下夫だが、最近はギクシャクしがちである。やはり、子供を授かったのがきっかけの結婚は、ほんの少し性急さが否めない。
住まいのタワーマンションは彼がもともと借りていたもので、彼の方が歳下で尚且つ若い年齢だが似合わないほど良い暮らしである。莉亜は突然変貌した生活環境に、新妻とは思えないほど萎縮していた。
高級であろう大理石のテーブルに朝食を並べて、自らも席につく。今は未だ二人暮らしだが、近い将来増える家族のためにファミリーサイズのダイニングテーブルセットである。
(お互い気を遣わなければ、あっという間に再び他人に戻ってしまいそうな空気感。というか、危うさがあるわね。けど、この歳下夫って……何処かで見たことがあるような?)
「雨が多かったから歩かないでタクシーを使っちゃったの。ほら、転んだらお腹の赤ちゃんに悪影響でしょう」
「そうだった、ごめん。家事もキツかったら交代制にしよう。明日の朝食はオレが作るよ」
「ありがとう助かるわ。さっせっかく作ったのだから、食べて! 和食のリクエストに応えたのよ」
いわゆる定番の和食だが、一つ一つにこだわりを感じる。
メインの焼き魚は麹の鮭、白米ではなくヘルシー思考のもち麦、味噌汁は懐石用のものを使い具材はお取り寄せの京野菜と油揚げ。
卵はだし巻き、小鉢に付け合わせのおかずが三種類。デザートはフルーツ入りのヨーグルト、お茶は鉄瓶で沸かしたもの。
「へぇ。なかなか。そういえば、以前読んでいた小説では、新妻は夫にだけハムステーキを一品加えていたんだ。よし、次はオレが莉亜さんにハムステーキを作ろう!」
「貴方って痩せているのに結構食べるわよね。何だか不平等だわ。あと夫と妻のポジションが逆転してない?」
「ふふっ莉亜さんは、これから栄養つけなきゃいけないんだから。オレと同じメニューを食べてれば、お腹の赤ちゃんも健康に育つよ」
ようやくお互いに、作り笑顔ではない本物の笑顔が戻った。子は鎹(かすがい)と云うそうだが、この夫婦の心を結びつけているのがお腹の赤ちゃんなのは確かだろう。
しかし、幸せなはずの新婚生活が何故ギクシャクとした空気感だったのか、疑問が残る。だが、俯瞰の目から見守っているルクリアにもそれとなく分かる部分が出てきた。
「そうだ。本当は桜の下で渡したかったんだけど、これ……」
「あら? この小箱って、もしかして」
「うん。注文してた結婚指輪、石はオレに任せて欲しいっていってたやつ。実は昨日、完成したのを店から受け取っていたんだ」
食事が片付けられて綺麗に拭かれた大理石のテーブルに、深緑の小箱がコトンと置かれる。莉亜がおそるおそる小箱を開けると、グリーンの宝石が飾られたプラチナの指輪。
「任せて欲しいって言ってた宝石ってこのグリーンの石のことだったのね。けど、なんて言う名前の宝石なのかしら? エメラルドでもペリドットでも無いような……」
「モルダバイトっていう宝石だよ。正確には天然石じゃなくて、隕石の落下から発生する熱で出来たガラスなんだ。その色はチェコのモルダウ川周辺でしか採れない貴重なもので、数百年前のヨーロッパでは永遠の愛を誓う時にモルダバイトの指輪を贈ったんだって」
「隕石落下でこんな綺麗なガラスが生まれるのね。知らなかったわ……貴重なものを指輪にあしらってくれて、ありがとう」
モルダバイトのプラチナリングを左手の薬指に嵌めて喜ぶ莉亜は、嬉し泣きなのか、他に理由があるのか。
「キミが、あの人から貰った隕石のネックレスを寂しそうに身につけているのを見て、このままじゃいけないって思ったんだ。オレ、まだ若造だけど。あの人の遺志を引き継いで、莉亜さんのことを幸せに出来るように頑張るから」
「ええ……そうよね。遺された人間は幸せにならなきゃ、ダメよね。ああ、そうだわ……葉桜でもいいからお花見しようか?」
「葉桜には、きっと葉桜の良さがあるよ。行こう!」
この瞬間、莉亜(りあ)は、もう会えない昔の恋人のことを思い出していた。けれど、隕石のようにあっという間に過ぎ去った彼のことは、そのうち思い出に変わると心に言い聞かせる。
まさか、思い出を忘れられない代償が夢見の始まりだなんて、ルクリアでさえ夢の主の本音は分からなかった。
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