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第3章 50万円の落とし穴
3章 50万円の落とし穴
しおりを挟む「…………!」
「…………!」
「それでは、今回の学祭テーマは『運命の相手との出会い』に決定しました」
俺とエンドが絶句して見つめ合う中、委員長の声が響いた。
声のした方を向くと、書記が黒板に大きくテーマを書きあげているのが目に入る。
黒板には『学園祭実行委員会』という文字。
周囲の面々は、皆思い思いにラフな格好をしていた。
俺は、デニムのパンツにパーカー。
そしてエンドは、ジャージ姿。
そう、ここは大学の教室。
学祭実行委員会の会議中。
(お……お前、学生だったのか!? しかも同じ大学! おまけに、その格好!)
(それはこっちの台詞だ……です。あとこれはさっきまで体操の一般教養の講義があったので)
一瞬砕けそうになった口調を慌てて訂正するエンド。
仕事中はアップして固めてあった前髪をおろしている。
そうしていると、着ているジャージのせいもあってたしかに学生のように見えなくもない。
(いや敬語は止めろ。同年だろ? 周りに変に思われたらお互い困る)
(ああ、助かります……助かる)
エンドはほっとした様子で答えた。
そりゃ、あの仕事は学校や周囲には内緒だろう。
俺だって、バレたらいろいろ面倒だ。
ふと、エンドの机にある委員会の名札が目に入った。
『遠藤 終』と書いてある。
「お前……エンドって遠藤か! まんまじゃねーか!」
思わず大きな声が出る。
「いや。名前が『終』でエンドだ」
「そっちかよ!」
つい吹き出しそうになったが、不意の声にその笑いは引っ込む。
「シュウー! もう終わったのか? なら購買行こうぜー!」
窓から、声がかけられたせいで。
その声に俺はびくりと身体を震わせた。
遠藤も何か思う所があったのか、眉を潜ませる。
いつの間にか会議は終わっていた。
閉散とした会議室で、俺とエンドだけが向かい合っている。
「シュウ!」
「あ……ああ、ちょっと待ってろ!」
遠藤はどこか慌てた様子で、しかし俺と話していた時とは全くトーンを変え明るい声で返事をする。
だが、そんなのは全く気にならなかった。
シュウ、って呼ばれた。
終……シュウ。
あの時、ついシュウって呼んでしまった時。
こいつ、妙な反応をするなと思ったら……成程、こいつの名前も『シュウ』っていうのか……
妙に納得している間に、教室の扉が開いた。
先程声をかけて来た、遠藤の友人らしい生徒が顔を出す。
「何やってんだよ! 珍しく待っててやったっつーのに」
「悪ぃ悪ぃ。っつーかお前は部活だろ?」
「んな事より金曜どうするよ? 佐々木はOKだってよ」
「マジか。あいつバイトはいいのかー。いや俺は無理だわ」
目の前で始まった会話を、ぼんやりと眺めていた。
俺を無視して……いや、そんなことよりも。
遠藤の、顔。
その、表情。
……笑っていた。
今まで俺が見ていた、皮肉気に歪ませた唇。
それを、大きく開けて。
こんな風に笑ってみればいいのにと思った、それ以上の楽しげな笑顔で。
……いや、誰がこいつに笑ってみればいいのにとか思うもんか!
それでもその笑顔は楽しげで、思わず目が引きつけられる程、魅力的で。
「あ……っと」
ぼんやりとそんな事を考えていると、遠藤は俺がいた事を思い出したらしく、慌てた様子で口を押える。
こちらに向き直った時にはその顔から笑顔は消え、取り繕うように唇が歪む。
「すいません……あ、悪かったな」
「別に」
それ以上何も言う事なく、背を向けた。
なんだ……なんだってんだ。
物凄く苛々する。
その感情を振り払うように、そのまま歩き出した。
「え、シュウ今週の金曜も駄目か?」
「言ったろ。用事があるんだって」
「なんだよテメー毎週毎週NGって。デートかこら」
「だから悪いって……」
遠藤たちの会話が小さくなっていく。
最後に小耳にはさんだ会話が、妙に心に残っていた。
金曜日。
今週の金曜日、か……
その夜、俺は再び100万円を支払った。
ホストクラブにいたエンドに。
あいつの、今週の金曜日を買う為に。
「再びの御指名、ありがとうございます。何かご希望はありますか?」
そいつは僅かに驚いた様子を見せながら、唇を歪める。
かっちりとしたスーツを着込み、前髪も固めたその様子に、先日学校で見たくだけた遠藤の面影は微塵もない。
それを見ながら、ぼそりと告げた。
「……何でもいいから、笑える所」
そして金曜日、連れて行かれたのは小さな古い演芸場だった。
「え……本当に、ここなのか?」
「はい。笑える所をご所望とのことでしたので」
ビル街のはずれにぽつんと佇む崩れそうな小屋。
エンドに促されるままにその中へと足を踏み入れた。
客席も狭く、周囲の客たちとくっつくようにして座るし隣のエンドとはそれ以上に密着している。
その体温の熱さにふと先日の情事を思い出し、それを振り払うように慌てて首を振った。
「どうしました?」
密着しているが故に、俺の行動は即座にエンドに伝わってしまう。
入口にある売店で買ったお茶を渡しながら、エンドは尋てくる。
「……今日は買い占めないんだな」
それを誤魔化すように、先週映画に行った時には座席周辺の席を買い占めていたことを皮肉って返事をすると、エンドはいつもの唇の歪んだ表情を顔に浮かべて見せる。
「今日の高座は一人でも多くの人と見た方がいいと思いましたから」
「……」
「この空気も味わっていただきたいと思いまして」
そんな事言って、席が取れなかったんじゃないのか?
そう言いたげに睨む俺をエンドは華麗にスルーする。
そのまま俺に、ひとつの包みを差し出した。
受付で貰っていた大きな袋に入っていたものだ。
「本番の演目が始まる前に、お弁当をどうぞ」
予約しないと食べることのできない弁当らしい。
「わ……」
乱暴に蓋を開けたが、その中に詰められた品々に思わず息を飲む。
いくつもの区画に区切られた弁当箱の中に、本当に魅力的なものが詰められていた。
小さな丸い白や桃色で彩られた物体が竹のようなものに刺さって飾られている。
弁当なのに、刺身も入ってる。
他の品々もどれも出来立てのように温かく、天ぷらも、齧ってみればざくりと音がするのが約束されているかのように揚げたてで衣の形が整ったまま。
俺の知っている『弁当』とはまるで違った代物がそこにはあった。
「如何でしょう? こちらの演芸場の調理場には、は以前料亭で働いていた……」
驚いている俺にはエンドの説明もほとんど耳に入ってこなかった。
そして当然、どの区画の部分も言葉を失うほどおいしかった。
夢中で食べていると、いつの間にか幕があがっていた。
着物姿の人間が舞台にあがり、何かを話している。
「最初の方の演芸は食べながら見ていても大丈夫ですよ」
まだ食べ終わっていない弁当を片付けた方がいいのか躊躇している俺に、エンドはそっと囁いた。
エンドの方はいつ食べたのか、もう弁当を綺麗に片付けていたが。
やっと弁当を食べ終えると、エンドがすぐにそれを受け取る。
「丁度いいタイミングです。手品の後、真打が始まりますよ」
気付けば、賑やかだった客席は次第に静まり返っていた。
周囲を熱気が包む。
俺もその空気に押され、いつの間にか手に汗を握りながら舞台を見つめていた。
なるほど、観客の空気も味わいって、このことか。
納得しながら眺める舞台の上に、一人の着物を着た芸人が現れた。
――そして、笑った。
一瞬流れた緊張は何だったのかという程にくだけた口調で語られる話の内容に耳を傾け、その話に夢中になっていた。
笑い、手に汗を握り、オチの巧妙さに舌を巻いた。
「……凄いモンだな。さすが伝統芸能だ」
「気に入っていただけたようで良かったです」
演目が終わり、素直な感想を口にする俺にエンドは丁寧に頭を下げる。
それを見た俺は急いで表情を引き締める。
そういえば、落語の間、こいつは一度でも笑ったんだろうか。
俺だけ笑っていたんだったら、なんか納得がいかない。
それに……まあ、これは別にエンドの手柄ってわけじゃない。
芸人が、すごかったんだ。
たしかに、演目も弁当も、そして会場の雰囲気だって楽しめたわけだけれども。
感心している俺を、エンドは演芸場の2階へと案内した。
「こちらは、特別な予約客しか入れない場所です」
「へえ……」
俺はぽかんと口を開け、その部屋を見回した。
ボロボロの演芸場の上にあるその部屋は、同じ建物とは思えない程隅々まで行き届いた丁寧な作りをしていた。
おそらく、ここだけ特別に改築されてきたんだろう。
襖や障子に囲まれたこの部屋には、俺たち二人だけしかいない。
熱気の入り混じったどこか猥雑な演芸場の空気がこの部屋にまで届いているようで、なんだか息苦しいような妙な気持ちになる。
片隅に敷かれた一組の布団が目に入り、俺の心臓が軋むような音を立てた。
「普段は、ここに芸者などを呼んで遊んだのだそうですが……」
エンドはぐっと、俺との距離を詰めた。
「今日は、私がお相手しましょう」
そしてこの日も、100万円の時間が始まった。
エンドが俺に体重をかける。
抵抗しようという意志はあった。
なのに肩を押されたその意外な強さに、いとも容易く布団に押し倒されてしまった。
「ちょ……っ」
「大丈夫ですよ。シャワーは済ませてありますから」
そう言うと、言葉だけでも反抗しようとする俺の唇をエンドは塞ぐ。
自身の唇で。
「ん……」
尚も動かそうとする俺の舌に舌を絡め、舐め上げる。
「ん、んぅ……っ」
その瞬間、ぞわりとした刺激が全身を走り抜けた。
体を合わせたのは、まだ1度だけ。
なのにエンドは俺の全てを知り尽くしているかのように、的確に気持ちいい部分を突いてくる。
「んあ……やっ」
このままじゃ……駄目だ。
このまま流されては……
「や……め、ろっ」
必死の抵抗の筈が、わずかに身体をくねらせただけだった。
それでもエンドは体を浮かせ、俺から唇を離す。
「――どうしました?」
「……い、や……」
思いの外あっさり手に入れた自由に、そして目の前でかしこまって俺の言葉を待つエンドの視線に、逆に一瞬言葉を失う。
それでも先日見たこいつの表情を脳裏に浮かべ、思い切って切り出した。
「お前……えんど……エンド、さ」
「はい」
「なんで、大学に……いや……」
「何のことでしょう?」
頭の中に渦巻く質問を形にする前に、それは否定された。
なんで、お前が大学にいるんだ。
なんで、ホストなんだ。
なんで、遠藤なんだ。
エンドと遠藤……どっちが、お前なんだ。
聞きたい事は色々あった。
だけどエンドは一言でそれに跳ね付けた。
とぼけてみせたのは、俺の疑問に答えるつもりは全くないと言う、意志表明。
「いや……まあ、どーでもいい」
だったら深追いするのは無駄だ。
そもそもエンドのことなんか、そんなに興味があるわけでもないし。
そんな風を装ってふいと顔を逸らした。
いや、装うつもりなんかない。
本当に……本当にこいつの事なんか、気になるわけないんだから。
「そうですか……では」
「わっ」
俺が質問する意志を無くしたと見るや、エンドは再び俺を押さえる手に力を込めた。
いつの間にか両手はエンドに握られたまま、布団に押し付けられていた。
思わずもがくが、動かそうとする両足の間にエンドは自身の膝を差し込む。
今度こそ本当に自由を奪われた。
布団の中で、エンドは手と歯を使って素早く俺の衣服を剥ぐ。
「あ……っ」
時折、その指が触れるだけで電流が走ったように身体が跳ねる。
いや、わざと触れているのだろう。
身体の上を滑る指は、あまりにもいやらしく蠢いているのだから。
俺はいつの間にかその手に翻弄されるがままに声をあげ欲望を吐き出していた――
そして気が付けば、また次の金曜日の約束を取り付けていた。
金曜。
次の金曜。
またその次。
気が付けば、ほぼ毎週あいつを買っていた。
映画館で、甘いポップコーンの存在を知った。
初めて連れて行かれた寄席で、そこは落語だけを聞く場所じゃないのを知った。
演芸場や観劇。ライブに遊園地。
テーマパークに行った日は、場所にそぐわぬ恰好は良くないと、互いにラフな服装で会った。
学生の遠藤を見るようで、やや目のやり場に困ったが、そのうちショーに見入って気にならなくなった。
――全て、初めての場所だった。
つい夢中になる俺に対し、あいつは一度も笑わなくて、それは負けた気がしてついまた次の約束を入れてしまって。
そして夜は、恒例のようにエンドに抱かれた。
軽い口付けから始まる、丁寧なセックス。
事務的な愛撫に、機械的に反応する身体。
ただそれだけの、関係だった。
それでも、“遊ぶ”ということを知らなかった俺は、図らずも奴の案内でそれを知る事になった。
授業料として、毎回100万は高くない。
どうせ、金の使い方なんか分からないんだから。
時折、本当の目的を忘れてそう考えたりもした。
いや、別に、本来の目的なんてものがあるわけじゃない。
だけど、ついつい気になって見つけようと目を凝らしてしまう。
奴の、笑顔。
学校で見たような、遠藤の笑顔。
何故そんなものに興味を持ったのかは、俺にも分からない。
ただ、悔しかったんだと思う。
俺には、いつも唇を歪めた馬鹿にするような表情しか見せない。
笑わせてやろう。
そんな目的を持ったって、別におかしなことじゃない、よな。
だけどそんな浪費の日々は、決して長くは続かなかった。
※※※
発端は、学祭委員会だった。
委員の定例会に来てみると、既に委員長達数人が集まって何事か話し合っているところだった。
よく見ると、その中には遠藤もいる。
いつものゆるい雰囲気とは違う、どこか緊迫した空気に思わず耳を傾ける。
「50万円って……!」
「1万円でいいんじゃなかったの?」
「でも、よく見ると規約にはそう書いてあるし」
いつの間にか、俺のように委員会に来てはみたものの遅れてきたが故に蚊帳の外な人間が増えてきた。
それに気が付いた委員長が、全員に着席を促した。
会計の女子が言わないでくれとでも言うように首を振るが、委員長は顧みず全員の前に立つ。
「慌ただしい所をお見せしてすみませんでした。実は、私達が入会している学祭保険のことで、少し問題が起こったのです――」
学祭保険?
その言葉に、僅かに関心を持つ。
「私達は、ある保険に加入していました。その保険は、掛金は1万円と低いのですが、学校のイベントに関するあらゆる事故を補償するという内容でした」
淡々と説明していた委員長の声のトーンが、そこで落ちる。
「ただ、その内容に、私達が気付かなかった問題がありまして……」
加入した保険には、ひとつだけ学校側がやらなければいけない規約があった。
他学校、もしくは生徒の紹介。
学校、生徒を最低でも2件、その保険に紹介して加入させなければいけない。
それができれば、掛金は1万円。
できなければ違約金として50万円、中途解約でも解約金50万円支払わなければいけない、と。
……ばっかじゃねーの。
話を聞いて、そう言いたいのをぐっと堪えた。
明らかに、ネズミ講。ただの、詐欺。
なのに目の前の委員長達は深刻な表情で話し合いを続けている。
「ですから、このままだと50万円を支払わなければいけないのです」
「そんな大金、どっから出すんだよ!」
「それより、今からでも生徒を紹介して加入してもらえば……私達委員会の誰かが加入してもいいんですから」
「でも加入したら、また誰かを紹介しなくちゃいけないんだよね」
うわあ本気で考えてるよこの人達。
他人事のように冷めた目で眺めていると、ふと視線を感じた。
遠藤の視線。
俺がそちらを見ると慌てて視線を逸らしたが、なんとなくその意図は分かった。
そりゃあ、毎週100万払ってる人間からすれば50万なんて軽いよな。
だけど、馬鹿のための救済に動く馬鹿なんかいる訳がない。
そこまで考えていた時、声がした。
「……何なら、俺が紹介されても構わないけど」
挙手して、立ち上がった馬鹿。
「遠藤くん! でも、それだと君にも紹介義務が……」
「委員会としても、巻き込むわけにはいかないし」
「けど実際問題、このままじゃどうにもならないんだろ?」
委員長たちの声に、安堵が混じる。
うわあこいつら頼る気まんまんだよ。
遠藤も思ったよりお人よしなのか、それともただの馬鹿なのか。
胸の奥に湧きあがってくる苛立ちをぶつけるように前にいる奴らを睨み据えた時だった。
ふと、気になるモノを見つけた。
委員長たちが持っている保険のパンフレット。
その、内容が――
「……ちょっと貸して」
「え?」
思わず立ち上がって、檀上に数枚置かれているパンフレットを手に取る。
いつも発言なんかした事のない俺の行動に目を丸くしている委員長達を無視してそれに目を通す。
……これって、もしかして。
手の中のパンフレットが、くしゃりと音を立てた。
無意識のうちに握りつぶしていたらしい。
「……払う事ない。紹介だって、しなくていい」
「え?」
俺の言葉に、委員長たちは驚いた様子で聞き返す。
「こんなの、ただの詐欺だろ。まともに返すだけ無駄だ」
「でも、実際請求が来ているし……」
「だったら断りに行く」
「え!?」
1時間後、俺たち4人は、ビル群の真っ只中にいた。
案内が俺、責任者として委員長と会計。
そして遠藤。
指名したわけじゃない。
俺が、このメンバーだけでは心もとないから誰か付き合ってくれと言いながらこいつを凝視しただけだ。
萎縮している委員長たちを尻目に俺は目当てのビルに入る。
さすがにこちらも場馴れしている遠藤が、委員長ら二人を促して後に続く。
「……ご用件は何でしょうか?」
スーツが基本のこの地において、ラフな恰好をした学生たちという完全アウェーの集団。
そんな俺達に、かろうじて平静なトーンを保ちながら、受付嬢が声をかけた。
俺は躊躇わず、ある人物の名前を告げる
「え……あ、アポは……」
さすがに、今回は動揺を隠せなかったらしい。
受付嬢の声が揺れる。
「ない。瑠津が来たと伝えてくれ」
「ですが……」
ああ畜生。せめてスーツを着ておくべきだった。
ただでさえ俺は童顔で、甘く見られがちだっていうのに。
話さえ通れば早いんだが、その話を通す前にひっかかるとは思わなかった。
「すみません。ここでは何ですから、別室の方でお待ちしますか?」
声に振り向くと、ガードマンを前に硬直している委員長たちがいた。
ああ、別室で待機なんて方便だ。
こう言えば萎縮して逃げるだろうっていう算段なんだろう。
「い、いえその……すみま」
「そうですか。それでは失礼してお願いいたしましょうか?」
だけどこちらも手は打ってある。
どこか慇懃無礼な、落ち着いた声が響いた。
空気を察してホストモードに入ったエンドが、ガードマンの言葉に応える。
「たしかに長時間こちらで待機するのは失礼ですね。お会いできるまでどこか別の場所で待たせていただいてもよろしいでしょうか?」
おお、いつの間にか会うことが前提になっている。
「いえ、そういう訳では……」
ガードマンの声のトーンが下がる。
うん、あいつを連れてきて正解だった。
しかし今別室に連れて行かれると、実は少し困ったことになる。
もう少しゴネてこの場に居座ろうと受付嬢に向き直った時。
「あ、社長……」
困惑した声が聞こえた。
来たか。
振り返ると、そこには秘書を連れた助平親父……スズキがいた。
「あの、社長……この学生さんたちが」
受付嬢が説明するより早く。
ガードマンに警戒されない程度の距離を保ちながら、社長と呼ばれた男の視界に入る。
この時間帯には大体会社にいる筈だという読みは当たっていたようだ。
「どうも、瑠津です」
「あ……ああ、よろしく」
一瞬驚いた様子のスズキだが、すぐにこちらに調子を合わせてくれた。
「すみませんが、御社が学生に提供している保険の内容について確認したい事があるのですが――」
「それでしたら担当の者をお呼びします。社長はこちらに」
「いや、いいんだ。……そうだな、担当は呼んでくれ。それから彼らを応接室へ」
「は、はい!」
事態の推移に目を白黒させながら、受付嬢は内線を取った。
応接室に着く前に、話は終った。
「……お話をお伺いする限りでは、ご契約なさった保険と弊社とは関係ないのではないでしょうか?」
呼び出された担当者の迷惑そうな声に、俺は苛立つのを抑え、静かな声で反論した。
「そーゆう事言うの? ほらココ見てよ」
長い事握りしめていたので皺になっていたそのパンフレットの片隅に、たしかにそのロゴマークはあった。
『S‐MaP(エス‐マップ:student mutual aid a party:学生相互援助会)』
「このS‐MaPは、ここが中心になって立ち上げたプロジェクトだよな。この保険がその名を冠してるってことは、こことは決して無関係ってわけじゃないよね?」
「い……え、でもそれはあちらが勝手に使用した可能性も」
「だったら尚更放っておくわけにはいかないよな。無断使用ってことになる」
「そちらに直接言っていただくわけにはいかないのでしょうか?」
「連絡できないんだ。電話は通じないし、住所は存在しなかった。だから、最終的な責任を負うだろうここにやって来たんだよ」
ねちねちと追及する。
「文句なら、その保険屋に直接言ってくれよ」
ここで問題を大きくするより、掛金1万円を払い戻して全てなかった事にした方がはるかに簡単だと分かってもらうために。
暫くやりとりを続けた後、担当者はふいに話を打ち切る様に切り出した。
「……分かりました。それでは、こちらの責任で、契約自体を白紙に戻すということでよろしかったでしょうか」
「ああ。どうだろ委員長?」
茫然としてこちらを見ていた委員長達を振り返る。
彼女たちは弾かれたように何度も頷いた。
「は……はい。そうして、頂ければ」
「あ、ありがとうございます……」
「ではあちらで書類をご記入ください」
担当者に促され、俺を残して固まったまま応接室に入る委員長たち。
(行けよ)
遠藤の足が止まっていたので、部屋に入る様に促した。
遠藤は少し逡巡したように俺を見る。
(いいから、行けってば。さすがにあの二人だけで解約に臨ませるわけにはいかないだろ)
俺に促され、遠藤は仕方なさそうに部屋に入る。
俺は、そのまま廊下に残った。
その場からまだ立ち去っていなかった、スズキ社長と。
こいつと、皆には聞かれたくない話があったから。
「……どういう事ですか」
「それはこちらの台詞だよ」
二人きりになった俺たちの口から零れたのは、ため息と質問。
「一体何だって君が立ち上げたプロジェクトに泥を塗るような真似をするんだい」
「泥を塗ってるのはそっちでしょう。あんなあからさまな詐欺にまで手を伸ばすなんて」
スズキ社長の苦言に、言い返す。
そう。
S‐MaPは元々、俺が立ち上げたプロジェクトだった。
学生の困難は学生同士で解決できるよう。
解決のための地図(MAP)としての役割を担うように。
それが企業が入る事で保険だの貯蓄だの、色々な役割も担うようになっていったものだった。
そして、その中にグレーな物があるのも知っていた。
つーかあれはグレーというより完全ブラックなんだけれども!
でもまあ、それでも構わないと思っていた。
むしろ、その方向で拾われてラッキーだったとさえ思っていた。
相互援助、なんて聞こえのいい方便でしかない。
結局は、自分の事は自分でやるしかないことは、身に染みて理解していたから。
最終的には、俺がのし上がる手段として、あちらは金儲けのスタイルとして利用しているだけ、それが、互いの認識だった。
だから俺の仕事内容は、学校には伝えていない。
表向きは、働いて学資を稼ぐただの苦学生で通っていた。
「……まあ、自分のいる大学が狙われたらさすがに動かないわけにはいかないでしょう」
実の所、学校が、学祭委員会の奴らがどうなっても構わないと思っていた。
それでも動いたのは、きっと多少なり愛校心があったんだろう。
決して、あいつの視線が気になったからじゃない。
「それでも、目を瞑ってくれれば多少の損害だけで何も波風立たなかっただろうに…… 面倒な事をしてくれたもんだね」
「……すいません」
たしかに、事がこれだけで済むかどうかは分からない。
トラブルが起こっても、ここに持ち込めば解決するという前例を作っちまった。
校内外の繋がりや、ネットでこの話が拡散されたら面倒な事になる。
しかも俺、はっきり「S‐MaP」って言っちゃったしな。
こんな事で、このプロジェクトが躓いたらどうなるんだろう……いや。
暗い先行きは考えないことにした。
「まあ、今回のことは今回限りのこととして。今後ともよろしくお願いしますよ」
へらりと謝罪を口にしたとき、扉が開いた。
解約が終わった委員長たちが出て来たらしい。
未だに夢の中のような茫然とした顔をしている。
「それでは……どうもお世話になりました。失礼します」
これ以上の長居は無用とばかりに、頭を下げて早々に立ち去った。
それで、この件は終了したと思っていた。
つまるところ、タカを括っていたわけだ―― その甘さが、いけなかった。
※※※
「常連さんサービスです」
甘い声で、遠藤は囁いた。
学祭当日のことだった。
あの事件以降はトラブルもなく、無事学園祭を迎えることができた。
が、その日、新たな問題が発生した。
それは、いきなり俺の目の前にやってきた。
「あの……もし良かったら一緒に学園祭を回ってもらえないでしょうか?」
「あの時のお礼も兼ねて、案内します」
女子大生が、二人。
委員長と会計が、俺の前に立っている。
何故か僅かに顔を赤らめて。
先月、俺が問題を解決した事に恩義でも感じているんだろうか。
「いや、俺は別に……」
慌てて答えようとした言葉が淀んだ。
……正直な所、すごく困惑していた。
今までの人生で、他人から、とくに女子から好意とか恩義といった感情なんて向けられたことはなかった。
ましてや誘いなんか受けたことがない。
更には、学校内のイベントを楽しむなんて発想、俺には全然持ち合わせていなかった。
だからこれまでの学のイベントも、ほとんどまともに参加したことはない。
なのに何だよこの二重苦は。
だけど、断るって、どうやるんだ?
目の前の人物に、俺は一体どう対処したらいい?
「駄ー目。こいつは俺とメイド喫茶行くんだから」
「ぎゃっ!?」
硬直している俺の首元から胸に、後ろから手が回された。
顔を上げるまでもない。
聞き覚えのある声は、腕の感触は、遠藤だった。
「だったら皆で……」
「女の子連れて行ったらメイドさんにサービスしてもらえないじゃん!」
尚も誘おうとする委員長たちに遠藤は胸を張って宣言してみせる。
あくまでもソフトに、冗談めかした様子での同行拒否。
「そんなサービス許可した覚えはありません」
「ま、女連れじゃ行きづらいよね」
そんな遠藤に委員長たちは笑いながら頷いていた。
そして気が付けば――彼女たちは笑いながら立ち去ってくれた。
「あ……」
(常連さんサービスです)
まだ固まったままの俺の耳元で遠藤……エンドは囁いた。
(50万円分、無料で学園祭をエスコートします。如何ですか?)
「た、頼む」
一人で歩くと、また誘いがかかるかもしれない。だから、それしか選択肢はなかった。
そして意外な事に――すごく、楽しかった。
エンドと一緒にはじめて回る、学園祭は。
どうやら例の事件を俺が収めたらしいという事実は、そこそこ学校に知れ渡っていたらしい。
歩いていると、かなりの頻度で声をかけられた。
「先輩でしょ、大企業に乗り込んで行ってサシで話を解決したのは」
「お前のおかげで予算が確保できた……!」
「チョコクレープ、おまけしてあげるね」
「風船いるー?」
「輪投げ、入らなくても参加賞ありだよ」
「焼きそば大盛りー」
……一部、何だか子ども扱いだったのは気になったが、とにかくその話のせいで周囲はやたらと好意的に俺に接してくれた。
そのせいで、静かに過ごしたいという俺の希望は打ち砕かれて、それでも何故か鬱陶しくなくて。
エンドが、適度に調整して回ってくれたおかげかもしれない。
「は、は……」
どう対応していいのか分からずひきつった愛想笑いをしていた俺の目の前に、3つの輪っかが差し出された。
輪投げの輪。
「やってみますか? こうして、景品に輪を投げて――」
俺の手に自分の手を添え、エンドはそっと耳元で囁く。
その手の温かさを感じた瞬間ふいにエンドの存在を――身体を意識し、慌ててそっぽを向く。
「ば、馬鹿にするな、それくらい分かる! っていうか学校内じゃタメ口だろ!」
「申し訳ありません。――じゃあ、やってみろよ」
「……ああ」
俺の手を離すと言いつけどおり急に偉そうな態度になったエンドに若干引っ掛かる気持ちを抱えながら、俺は目の前に並んだ景品を品定めする。
――正直、どれもガラクタだよな……
そんなことを考えながら適当なストラップに狙いを定めると、輪っかを投げた。
「えいっ!」
一投目、ハズレ。
「くそっ!」
二投目、ハズレ。
「今度こそっ!」
三投目は景品の端っこに当たってくるくると回り――
「はい、残念でしたー残念賞です!」
回ったままぽとりと台から落ちた輪っかを拾いながら、店番の学生は俺に狙ったものより更に小さなストラップを渡した。
「残念でしたね……いや、残念だったな」
「……俺はこれが欲しかったんだよ」
どこか笑いを堪えるようなくぐもった声で告げる遠藤に文句を言ってみせると、遠藤はめずらしく言い返してきた。
「にしちゃ、必死に見えたけどな」
「……ンだよ」
学校内、おまけにタメ口で話しているからだろうか。
今ここにいるのがエンドではなく、遠藤と話しているような錯覚を覚える。
それが、妙にくすぐったいような奇妙な気持ちになる。
「……だいたいこんなの、絶対に入らないように作ってあるんだよ」
「ふーん」
俺の言葉を聞いているのかいないのか、エンドは輪投げ屋の学生に硬貨を渡し輪っかと交換する。
「……」
「あっ」
無言のままの一投目は、すぽりと俺が狙っていたストラップを通り抜けた。
二投目、三投目もそれに重なるようにストラップをくぐった。
「お……おめでとうございます! ええと、3つ入ったので……3個、でしょうか……」
「おめでとうございますー! 3つ入ったので3個どうぞ!」
「いや、1つ……2個でいいよ」
「あ、はい……」
目を白黒させながら景品を差し出す学生にエンドは笑うとそれを取り上げた。
そして、そのままひとつを俺の鞄につけようとする。
「……嫌味かよ」
「欲しかったんだろ?」
唇を尖らせて抵抗してみせるが、エンドは意に介することなく鞄にストラップをとりつけた。
そしてもう一つはそのまま自分の鞄に入れる。
お前はつけないのかよ!
「ふん……」
俺は仏頂面のまま無理矢理つけられたストラップを手に取った。
よくよく見ればそれはハート型をした、にも拘らず全くかわいらしくない珍妙なキャラクターで。
笑顔を浮かべ胸に抱いたハートの中には『運命の出会い』なんて書いてある。
一瞬、ちぎってやろうかとも思ったがストラップに罪はない。
そういや、これを渡した奴すごく驚いた顔してたな。
やっぱりあの輪投げ、そうそう入らないんだろうな……
ついついじっと見つめていた俺は、いつの間にかそのハートキャラにつられ唇が緩んでいた。
「ふふ……ん?」
そこで、ふと、こっちを向いているエンドの視線に気付いた。
「な、なんだよ」
「……いや、何も」
慌てて真面目な顔を作ってそちらを見れば、エンドの方もどこか急いで表情を改めた様子で。
……もしかして、こいつも楽しんでたりしたんだろうか。
気が付けば俺達は出店のよく分からない食べ物で腹は満ち、手には謎の安っぽい景品でいっぱいで。
エンドと回る学祭。
もしかして、これは、悪くないことなんじゃないだろうか?
ふと、そんな事を思ったりもした。
――その次の日、俺は大学を辞めた。
夜、俺はエンドに電話をかけた。
『いつもお世話になっております瑠津様。週末のお話でしょうか……?」
「いや、いい」
いつも通りやたらと慇懃なエンドの言葉を乱暴に打ち切り、話を切り出す。
「終わりだ」
『……はい』
「お前を買うのは、もう終わりにする。店にも行かない」
『……』
暫しの沈黙の後、型通りの台詞が返ってきた。
『……今まで誠にありがとうございました。よろしければご不満な点などを教えていただければ……』
「全部だよ」
憤りをぶつけるように吐き捨てる。
徹頭徹尾丁寧なまま、微塵も動揺を見せないエンドの台詞に。
「別にさあ、何が気に入って買ってたわけでもないんだから。飽きたから。そんだけだ」
『……分かりました。また、お気持が変わりましたらご利用を……』
最後の最後までブレることのないエンドの言葉を終わりまで聞きたくなくて、電話を切った。
もう、終りだ。
これで、あいつと会うこともない。
間髪を入れず、再び電話をかける。
『はい、スズキだが……』
「瑠津です。この度は、誠に申し訳ありません。S‐MaP契約不履でご請求いただいた賠償金の件で、ご連絡させていただきました……」
※※※
――そして話は、冒頭に戻る。
スズキから3000万円を請求された俺は、エンドから3000万円で買われた。
そのままエンドと一夜を過ごして……
ソファーの上で気が付いた時には、誰もいなかった。
ただ、俺に無造作にかけられた俺の上着と、エンドが置いていった机の上の札束。
それだけ。
服を着るのもおっくうで、上着を羽織ったまま札束を確認した。
間違いない、3000万。
これで、なんとかなる。
スズキが言い出した、『S‐MaP』不成立のための損害賠償。
唐突な話だが、あちらの筋は通っていた。こちらも、ある程度前金を貰っていたし。
それに何より、この力の差では飲まざるを得ない。
現金の一時支払いがこれで凌げれば、あとは何とでもなる。
会社は、畳まなきゃいけない。
別にこの場所に未練はない。
どうせ成り上がって到達した場所。
大学は、辞めるしかない。学費だって馬鹿にならない。
そして……
ふいに、脳裏をよぎる顔。
もう、買えないのか。
会えないのか。
半年間、毎週のように会っていた。ついさっきまで俺を好き勝手にしていた相手。
今度こそ、もう二度と会うことはないだろう。
「――結局、笑わせられなかったな」
あいつに対してどんな感情を抱いたらいいのか自分でもよく分からないまま、そんな事を呟いた。
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