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第1章 3000万のベッドイン
第1章 3000万のベッドイン
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「ここに、3000万ある」
そう言うとエンドは鞄を乱暴に開けた。
中から零れる、札束。
そのひとつを掴むと、エンドは凍りついたように立ち尽くす俺の頬に当てる。
新札の独特な匂いと張りつめた冷たい感覚が、目の前の非現実感を、現実へと変えていく。
「この金で、お前を俺の好きにさせろ」
エンド――俺が、これまで100万で買っていた男は、茫然としている俺にそう宣言した。
整った、それでいて色気のようなものがにじみ出る顔。
その唇を、いつものように皮肉気に歪めながら。
「なんで――」
「お前から貰った金は、使う気になれなくってな」
エンドは頬に当てた札束を離す。
ぽろりと、まるで紙屑か何かのように落ちる100万。
「いつか、こうしたいと思ってた。ちょうど30回分――3000万円。今が良い機会だ。……それに、こうすればお前を……いや」
「ぐ……」
エンドは冷たい声で何か言いかけたが口を閉ざす。
続く言葉は俺の喉から絞り出された音だけだった。
出そうと思ったつもりはないのに。
ぐらりと、世界が揺れた。
ここは俺のオフィス。
俺一人しかいない会社の、俺だけの城。
勝手知った場所の筈。
なのに、目の前にこいつが、エンドがいるだけで驚くほど不安定な場所になる。
「どうする、肇(はじめ)」
戸惑う俺を揶揄するように、名前を呼ばれた。
妙な違和感。
ああ、そういえばエンドはいつも、俺を『瑠津(るつ)さま』と呼んでいた。
もう、客じゃないんだ。呼捨てにも、される。
――だけど、どういうつもりなんだろう。
こいつは、一体何を考えているんだ?
あのことを、知ってるんだろうか……いや、知らない筈がない。
さっきの今で、このタイミングで3000万円なんて。
「――とりあえず、現金で3000万円用意してもらおうかねえ」
一時間前。
異常な接近にバランスを崩しそうになった俺を抱きとめ、スズキは言った。
その緩んだ身体から漂う甘ったるい香料とそれでも隠しきれない体臭に、湧きあがる吐き気を堪えて俺は反論する。
「は、払うって言っただろ、全額。来月には」
会社を畳んで仕事場も処分して、その他細かい資産を売却すれば、払えない金額じゃない。
脳内で必死に計算する俺を、スズキは嘲笑うようにして話を続ける。
「それでもね、これは瑠津くんの為を思っての提案なんだよ。早急に現金払いにしてもらうことで、大分相手方に金額をまけてもらったんだから」
「う、あ」
片手を肩に置き、もう片方の手で俺の髪を弄びながら恩着せがましい調子で続けるスズキの言葉は、ほとんど耳には入らなかった。
生暖かい息が顔にかかる。
それだけで、ざあっと背中に鳥肌が立つ。
振りほどきたいと思う。
だけど、肩を掴まれていてはそれも叶わない。
いや、そうでなくても……この手を振り払うことで被る不利益を知っているが故に、それを実行するだけの度胸はない。
「まあ、今の世の中個人的に親しくなった位じゃ、支払いをどうこうしてあげる程甘くはないけどねえ」
「んっ……」
肩を掴んでいた手が離れ、指が伸びる。
太く節くれだった指が、俺の頬に触れる。
「少しの間なら、支払いの延期に協力してあげることができるかもしれないよ?」
指は、頬から唇へ。
首を竦め、目を閉じる。
このまま、流された方がいいのか?
少しでも、今の状況が良くなるのなら……
刹那、そんな考えが過ぎる。
指が、唇を割って中に侵入しようとしたその時だった。
カタン。
扉から、音がした。
次いで、誰かが立ち去る足音。
軽快なその音は、どこかあいつを思い出させた。
そして次の瞬間、俺はスズキの手を振り払っていた。
「おや……」
「い、今すぐっていう道理はないだろ? 銀行にだって行かなきゃならないし」
動揺が、俺の息を乱れさせる。
その呼吸をどう取ったのか、スズキは肩を震わせて笑う。
「は。は、は…… そうだねえ。少し性急だったねえ」
そしてゆっくりと俺から離れる。
自分が解放してやったのだと見せつけるように。
「それでも、なるべく早い方がいいからね。……来週の月、いや火曜日でどうだろう?」
「……分かった」
実の所、全く期間は足りなかった。
まともに資金を確保するためには2、3週間は欲しい。
それでも、今、この場から逃れたい。
それだけの為に、俺はその提案を受け入れてしまった。
――それから、1時間と経たないうちに。
3000万円の方から俺の所にやって来るとは思いもしなかった。
改めて、目の前のエンドを見る。
隙のないスーツを着こんで、無表情を張り付けた営業モード。
こんな時、“遠藤”の影は微塵もない。
どこまで、知ってるんだろう。
間違いない。
あの時の足音は、こいつだ。
だけど何故、こいつが3000万円を用意してるんだ。
もしかして気づいているんだろうか。
この状況の原因が、この間のアレのせいだということに――
「どうする?」
エンドの声で我に返った。
そうだ。
決めなきゃいけない。
とはいえ、既に俺に他の選択肢はなかった。
ただ目の前のルートに、形ばかりの承認をするだけ。
「……頼む」
それでもせめて、屈したと思われない様に。
声だけは強く出そうとしたつもりが、その弱々しさに唇を噛んだ。
エンドはそんな俺に構わず上着を脱ぐと、タイを緩めた。
掘りが深く鼻筋は整って、日本人離れした端正さと精悍さが混在しているその綺麗な顔に、口元だけが皮肉気に歪む。
初めて会った時と全く変わらない。
――どうにも、好かない表情だった。
「……どうすりゃいい?」
3000万円の札束に囲まれながら、対峙するエンドに問いかける。
3000万円分の契約を履行しようとしているようにはとても聞こえない、弱々しい口調だった。
「分からないか?」
エンドは無感情な目で俺を見下ろしている。
俺に買われた時ととは、全く違う視線で、態度で。
「……お前が考えろ。買われたのは、お前なんだから」
「わ、分かってる!」
戸惑っている俺に、エンドからの追い打ちがかかる。
歯噛みするが、契約は履行されなきゃいけない。
覚悟を決めて、エンドに近付く。
肩に手を置き、一方の手でネクタイを掴み、顔を近づける。
……こいつ、屈みもしねえ!
「ん……んっ」
「……」
精一杯背伸びして、唇を合わせ、離す。
「……で? 終わりか?」
エンドは馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「前の彼氏に、そんな事も教わらなかったのか?」
「う、うるさい!」
シュウのことを引き合いに出されて、ついカッとした。
再度乱暴に唇を合わせる。
知ってる。この先の事くらい。
シュウにも……こいつにも、教わった。
だけどやっぱり、それ以上進むことができなかった。
固まっている俺の唇を、温かいものが割った。
「ぅん……っ」
エンドの舌だ。
……そういえば、こいつは最初から手馴れてたな。
侵入してくる舌の感覚に、こいつとの初めてのときの記憶が呼び起こされた。
「全て、お任せください」
あいつはそう言って俺を包み込むように抱き締めた。
その腕はあくまでも優しく甘いように感じられた。
それが、表向きだけの空虚なものだったとしても。
「う、ぅ……」
蕩けるように甘く、優しく、だけど何処か拭いきれない冷たさの残る記憶の中のエンドの舌。
それとはまるで違っていた。
舌は、咥内をゆるりと蠢く。
俺の舌を絡め、吸い、歯茎のひとつひとつをなぞり、翻弄する。
いつものキスとは、違う。
エンドを買ったときのキスは、あくまでもこれから始まる情事の前の事務作業。
それ以上もそれ以下の意味合いも持たなかった。
だけど、これは、何だ。
深く深く繋がるような、まるでこれ自体に何か意味があるかのような行為。
それを戸惑うより与えられる刺激の方が強烈で、全てを忘れてしまいそうになる。
違う。今までとは、全然。
全身に力が入らなくなった頃。やっと解放された。
「は、ぁ……」
自分の肩に手を置きなんとか立っている俺を、エンドは無言で見下ろしている。
その顔には、いつもの……皮肉気に歪んだ唇。
ああ畜生。
こんな時でも、こいつは笑わない。
その事実の方が、こいつの仕打ちより悔しくて、唇を噛む。
血が滲むほど、強く。
「……駄目だろ」
その途端、エンドの指が唇に触れた。
「今この瞬間、お前の身体は俺のものなんだから」
「あ……ふ、ぁっ」
指を差し入れ、噛みしめる歯から唇を解放する。
「勝手に傷付ける真似なんかしたら」
指が、ゆっくりと唇をこじ開ける。
俺を見るエンドの表情の中に、漸く小さな冷笑を見つけた。
そう、エンドは、笑っていた。
間違いなく。
氷の様な冷笑が張り付く。
「あ……っ」
それに目を奪われる間もなく、俺の口の中に何かが侵入した。
指だ。
エンドの指が、俺の口の中をかき混ぜる。
ねちゃり、ねちゃりとわざと音を立てて。
唇の端から唾液が垂れる感覚。
だけど拭くことも叶わない。
拭こうと、思う余裕もない。
「ん……ぅあ……っ」
暫くの間、好き勝手に咥内を弄ばれた後、ふいに指が引き抜かれた。
「は、ぁ……っ!」
息をつく間もなかった。
次の瞬間、唇に柔らかいものを感じた。
熱い、柔らかい、指とは圧倒的に違う。
唇が触れ合い、再び舌が入ってきた。
指とは違うその柔らかさ、しなやかさ、そして熱さに一瞬我を忘れる。
「ん……」
そう思った瞬間、唇は離された。
焦点の定まらない瞳でエンドを見れば、そこにはもう冷笑の影すらなくて。
「……駄目だな」
「な、に……」
否定の言葉についむきになってエンドを睨む。
しかしエンドは微塵も動じない。
「立場、分かってるのか?」
「わ、分かってる」
答えてから、慌てて体勢を立て直し、思い出そうとする。
俺の立場……エンドがいつも俺にしてくれたこと。
エンドに身を寄せ胸のボタンを外すと、舌を出す。
開いた胸に、そっと舌を這わせる。
が、あっとゆう間に頭を押さえて、離された。
「な……にすんだ!」
「下っ手くそ」
「え、わ」
俺の頭を掴んだ手に、力が入る。
バランスを崩した俺が倒れ込んだのは、来客用のソファー。
そこに覆いかぶさるように、エンドの影。
「俺の好きにさせろ」
上からかかる、尊大な言葉。
――馬鹿にしやがって。
口に出しそうな文句を呑み込む。
確かに、今の立場の俺には何も言うことができないから。
それでも。
元はといえば、こいつのせいでもあるのに。
こいつが、あの時俺を見なかったら。
こいつと、あの時再会しなかったら。
こいつの、あの顔さえ見なければ……
一瞬、こいつの満面の笑顔が脳裏に浮かんだ。
エンドの時には決して見せない、遠藤の顔。
次の瞬間、俺の首筋にエンドの手が伸びた。
奴を買っていた時でもありえない位の丁寧さでボタンが外され、服が脱がされていく。
「はぁあ……んっ」
甘く。
ひたすら甘く。
エンドの舌が、俺の身体を這う。
乱暴だったのは押し倒された一瞬だけ。
露出した肌に、唇が降った。
その甘さ暖かさに抵抗を忘れる。
いつの間にか唇から這い出た舌が、身体を侵略する。
「やっ……ぅ」
触れた途端、ぞくりとした感覚が全身に流れる。
ああ、こんなにも反応するつもりはなかったのに。
だけど、抗えない。
これは、この感覚は、快感だ。
いつの間にかエンドが与える甘い快感が、指先一本一本まで、俺の全身を支配していた。
胸を這い、腰を刺激して。
いつもの、こいつに抱かれる時のように。
……違う。
今までの事務的な愛撫とは、決定的に何かが違った。
快感を引き出すためだけの丁寧さは、そこにはない。
「んく……んぅう……」
胸の、鋭く快感を引き出す箇所を避けその周囲を愛撫される。
ゆるり、ゆるりと優しく。
そう。
エンドの行為は、優しかった。
俺の好きにさせろ。
その宣言とは相反する態度。
なんで、なんでなんだよ……
こいつの考えが、分からない。
今まで好き勝手やってきた俺の、あてつけ?
契約を突然終了させた、腹いせ?
けれどもそれを突っ込む余裕は俺にはなかった。
「あ……あぁ」
散々胸周辺を刺激した舌は、その中心、刺激を待ち受けている箇所を素通りして下に移る。
半年間、俺の全てを知り尽くした舌が、腰に、臍に。
下半身も同様で。
熱く熱く待ち受ける部分だけを外し、思う様刺激する。
それを繰り返す。
「く……ふぅ、んっ」
更なる刺激が放置された部分の飢餓感を高め、身を捩る。
ああ、早く。
焦らしている場所に、早く!
そう頼めば聞いてくれそうな優しい愛撫に、思わずそれを懇願しそうになる。
けど、駄目だ。
今、買われているのは俺の方だ。
俺が、あいつの望みを叶えなければいけない。
だから、駄目なのに……
「あ、あぅっ、や、だめ、そこ……っ」
零すまいと堪えていた嬌声と共に、少しずつ願望が漏れ出てしまう。
「そこ……何?」
冷静なままのエンドの声。
「あ……」
それに僅かな理性が反応し口を閉じるが、どうやらそれでも許してくれなかった。
「何? 買われた癖に、何もできない癖に、何か欲しいのか?」
「んっ、な、にも……っ」
「嘘付きだな」
「ひっ……ん!」
不意に胸の突起を弾かれる。
想像以上の刺激に、快感に、背中が仰け反る。
「言えよ。正直に。サービスしてやるかもしれないぜ?」
「あ、ん……」
エンドの言葉が、刺激を望む身体に染み込む。
全身が、欲していた。
エンドを、奴が、与える快感を。
「あぅ…… ほ、しぃ」
「何を」
「……っ」
だからと言って素直に言う程立場が分からないわけではない。
力の抜けた唇を、必死で噛みしめようとする。
が。
「んぅ……っ」
エンドの指が、胸の突起に触れる。
待ち焦がれた、その場所に。
そのほんの僅かな刺激だけで、その抵抗はすぐ崩れ去ってしまう。
もう、駄目だ。
言うしか、ない。
「あ、ぅ……お、まぇが……」
「ちゃんと名前で」
「……し、終……ぁあっ!」
「間違えるな!」
終、と口にした瞬間。
今までのやたら甘ったるい愛撫とはまるで別物のような鋭さで、胸を抓られた。
やられた胸の真芯はじりじりと熱く、俺を焼く。
エンドはそれだけでは済まさないといった様子で俺の頭を掴み、ソファーに乱暴にこすり付けた。
そして耳元で囁く。
「エンド、だ」
あぁ、そっちの名前か……
源氏名しか呼ぶのを許されないのかと、一瞬胃の中につうっと冷たい血が流れる。
それでも、与えられた感覚は俺の中に澱み渦巻いていて。
「……エンドを、くれ……」
「何だって?」
「エンドが、欲しい」
「どうやって」
「お、俺の中に、挿れて、ほしい……っ」
「よし」
そう告げた次の瞬間、衝撃が来た。
「あっ……あぁああああっ!」
仰向けのままの俺の身体を、微塵の躊躇もなくエンドが開き、貫いた。
何度も、経験している筈なのに。
慣れた行為の筈なのに。
それはまるで初めてのような苦痛と快感を俺に与えた。
「ん……っ、あぁっ」
逃れようと、貪ろうとするかのように身体を捩る。
しかしそんな俺の身体をエンドは抑えつけ。
動き出す。
「ひ……っ、あ、あぁっ!」
これ以上ないほどの衝撃の直後の、更なる律動。
エンドが俺に与える感覚に、ただただ声を上げることしかできなかった。
「あっ、はぁあっ」
「……」
「あぁっ、え、えんっ、えんどっ」
「何?」
堪えきれず呼んだ声に、鋭く反応された。
「ひゃ……! そ、それ、駄目……っ」
身体の中のものが動く感覚に、びくりと反応する。
「駄目? どうして」
「あぁあっ、や、やだ……っ」
「嫌? 本当に?」
「ほ、ほんとっ、にっ……」
「これも?」
「こっ、れもぉっ!」
体勢を変えられ、新たな刺激が俺を襲う。
既に問答にもなっていない。
ただエンドの言葉を繰り返すだけ。
エンドから与えられる優しい快感を貪るだけ。
初めてそれを知った時のように、貪欲に、淫蕩に。
そして、それは突然訪れた。
「ひゃ……!」
「これで、終り」
「お、わりっ」
腰を掴まれ、より深く深く穿たれた。
「そう。エンド」
「あ、え、えんど、えんどおぉ……っ!!」
既に自分が何を言っているのかも分からないまま、俺は欲望を吐きだし続けた。
意識が薄れる前、小さく声が聞こえたような気がした。
――これだけ刻み付ければ、もう、忘れないだろ――
だけどそれを確認する間もなく、意識は薄れていった。
そう言うとエンドは鞄を乱暴に開けた。
中から零れる、札束。
そのひとつを掴むと、エンドは凍りついたように立ち尽くす俺の頬に当てる。
新札の独特な匂いと張りつめた冷たい感覚が、目の前の非現実感を、現実へと変えていく。
「この金で、お前を俺の好きにさせろ」
エンド――俺が、これまで100万で買っていた男は、茫然としている俺にそう宣言した。
整った、それでいて色気のようなものがにじみ出る顔。
その唇を、いつものように皮肉気に歪めながら。
「なんで――」
「お前から貰った金は、使う気になれなくってな」
エンドは頬に当てた札束を離す。
ぽろりと、まるで紙屑か何かのように落ちる100万。
「いつか、こうしたいと思ってた。ちょうど30回分――3000万円。今が良い機会だ。……それに、こうすればお前を……いや」
「ぐ……」
エンドは冷たい声で何か言いかけたが口を閉ざす。
続く言葉は俺の喉から絞り出された音だけだった。
出そうと思ったつもりはないのに。
ぐらりと、世界が揺れた。
ここは俺のオフィス。
俺一人しかいない会社の、俺だけの城。
勝手知った場所の筈。
なのに、目の前にこいつが、エンドがいるだけで驚くほど不安定な場所になる。
「どうする、肇(はじめ)」
戸惑う俺を揶揄するように、名前を呼ばれた。
妙な違和感。
ああ、そういえばエンドはいつも、俺を『瑠津(るつ)さま』と呼んでいた。
もう、客じゃないんだ。呼捨てにも、される。
――だけど、どういうつもりなんだろう。
こいつは、一体何を考えているんだ?
あのことを、知ってるんだろうか……いや、知らない筈がない。
さっきの今で、このタイミングで3000万円なんて。
「――とりあえず、現金で3000万円用意してもらおうかねえ」
一時間前。
異常な接近にバランスを崩しそうになった俺を抱きとめ、スズキは言った。
その緩んだ身体から漂う甘ったるい香料とそれでも隠しきれない体臭に、湧きあがる吐き気を堪えて俺は反論する。
「は、払うって言っただろ、全額。来月には」
会社を畳んで仕事場も処分して、その他細かい資産を売却すれば、払えない金額じゃない。
脳内で必死に計算する俺を、スズキは嘲笑うようにして話を続ける。
「それでもね、これは瑠津くんの為を思っての提案なんだよ。早急に現金払いにしてもらうことで、大分相手方に金額をまけてもらったんだから」
「う、あ」
片手を肩に置き、もう片方の手で俺の髪を弄びながら恩着せがましい調子で続けるスズキの言葉は、ほとんど耳には入らなかった。
生暖かい息が顔にかかる。
それだけで、ざあっと背中に鳥肌が立つ。
振りほどきたいと思う。
だけど、肩を掴まれていてはそれも叶わない。
いや、そうでなくても……この手を振り払うことで被る不利益を知っているが故に、それを実行するだけの度胸はない。
「まあ、今の世の中個人的に親しくなった位じゃ、支払いをどうこうしてあげる程甘くはないけどねえ」
「んっ……」
肩を掴んでいた手が離れ、指が伸びる。
太く節くれだった指が、俺の頬に触れる。
「少しの間なら、支払いの延期に協力してあげることができるかもしれないよ?」
指は、頬から唇へ。
首を竦め、目を閉じる。
このまま、流された方がいいのか?
少しでも、今の状況が良くなるのなら……
刹那、そんな考えが過ぎる。
指が、唇を割って中に侵入しようとしたその時だった。
カタン。
扉から、音がした。
次いで、誰かが立ち去る足音。
軽快なその音は、どこかあいつを思い出させた。
そして次の瞬間、俺はスズキの手を振り払っていた。
「おや……」
「い、今すぐっていう道理はないだろ? 銀行にだって行かなきゃならないし」
動揺が、俺の息を乱れさせる。
その呼吸をどう取ったのか、スズキは肩を震わせて笑う。
「は。は、は…… そうだねえ。少し性急だったねえ」
そしてゆっくりと俺から離れる。
自分が解放してやったのだと見せつけるように。
「それでも、なるべく早い方がいいからね。……来週の月、いや火曜日でどうだろう?」
「……分かった」
実の所、全く期間は足りなかった。
まともに資金を確保するためには2、3週間は欲しい。
それでも、今、この場から逃れたい。
それだけの為に、俺はその提案を受け入れてしまった。
――それから、1時間と経たないうちに。
3000万円の方から俺の所にやって来るとは思いもしなかった。
改めて、目の前のエンドを見る。
隙のないスーツを着こんで、無表情を張り付けた営業モード。
こんな時、“遠藤”の影は微塵もない。
どこまで、知ってるんだろう。
間違いない。
あの時の足音は、こいつだ。
だけど何故、こいつが3000万円を用意してるんだ。
もしかして気づいているんだろうか。
この状況の原因が、この間のアレのせいだということに――
「どうする?」
エンドの声で我に返った。
そうだ。
決めなきゃいけない。
とはいえ、既に俺に他の選択肢はなかった。
ただ目の前のルートに、形ばかりの承認をするだけ。
「……頼む」
それでもせめて、屈したと思われない様に。
声だけは強く出そうとしたつもりが、その弱々しさに唇を噛んだ。
エンドはそんな俺に構わず上着を脱ぐと、タイを緩めた。
掘りが深く鼻筋は整って、日本人離れした端正さと精悍さが混在しているその綺麗な顔に、口元だけが皮肉気に歪む。
初めて会った時と全く変わらない。
――どうにも、好かない表情だった。
「……どうすりゃいい?」
3000万円の札束に囲まれながら、対峙するエンドに問いかける。
3000万円分の契約を履行しようとしているようにはとても聞こえない、弱々しい口調だった。
「分からないか?」
エンドは無感情な目で俺を見下ろしている。
俺に買われた時ととは、全く違う視線で、態度で。
「……お前が考えろ。買われたのは、お前なんだから」
「わ、分かってる!」
戸惑っている俺に、エンドからの追い打ちがかかる。
歯噛みするが、契約は履行されなきゃいけない。
覚悟を決めて、エンドに近付く。
肩に手を置き、一方の手でネクタイを掴み、顔を近づける。
……こいつ、屈みもしねえ!
「ん……んっ」
「……」
精一杯背伸びして、唇を合わせ、離す。
「……で? 終わりか?」
エンドは馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「前の彼氏に、そんな事も教わらなかったのか?」
「う、うるさい!」
シュウのことを引き合いに出されて、ついカッとした。
再度乱暴に唇を合わせる。
知ってる。この先の事くらい。
シュウにも……こいつにも、教わった。
だけどやっぱり、それ以上進むことができなかった。
固まっている俺の唇を、温かいものが割った。
「ぅん……っ」
エンドの舌だ。
……そういえば、こいつは最初から手馴れてたな。
侵入してくる舌の感覚に、こいつとの初めてのときの記憶が呼び起こされた。
「全て、お任せください」
あいつはそう言って俺を包み込むように抱き締めた。
その腕はあくまでも優しく甘いように感じられた。
それが、表向きだけの空虚なものだったとしても。
「う、ぅ……」
蕩けるように甘く、優しく、だけど何処か拭いきれない冷たさの残る記憶の中のエンドの舌。
それとはまるで違っていた。
舌は、咥内をゆるりと蠢く。
俺の舌を絡め、吸い、歯茎のひとつひとつをなぞり、翻弄する。
いつものキスとは、違う。
エンドを買ったときのキスは、あくまでもこれから始まる情事の前の事務作業。
それ以上もそれ以下の意味合いも持たなかった。
だけど、これは、何だ。
深く深く繋がるような、まるでこれ自体に何か意味があるかのような行為。
それを戸惑うより与えられる刺激の方が強烈で、全てを忘れてしまいそうになる。
違う。今までとは、全然。
全身に力が入らなくなった頃。やっと解放された。
「は、ぁ……」
自分の肩に手を置きなんとか立っている俺を、エンドは無言で見下ろしている。
その顔には、いつもの……皮肉気に歪んだ唇。
ああ畜生。
こんな時でも、こいつは笑わない。
その事実の方が、こいつの仕打ちより悔しくて、唇を噛む。
血が滲むほど、強く。
「……駄目だろ」
その途端、エンドの指が唇に触れた。
「今この瞬間、お前の身体は俺のものなんだから」
「あ……ふ、ぁっ」
指を差し入れ、噛みしめる歯から唇を解放する。
「勝手に傷付ける真似なんかしたら」
指が、ゆっくりと唇をこじ開ける。
俺を見るエンドの表情の中に、漸く小さな冷笑を見つけた。
そう、エンドは、笑っていた。
間違いなく。
氷の様な冷笑が張り付く。
「あ……っ」
それに目を奪われる間もなく、俺の口の中に何かが侵入した。
指だ。
エンドの指が、俺の口の中をかき混ぜる。
ねちゃり、ねちゃりとわざと音を立てて。
唇の端から唾液が垂れる感覚。
だけど拭くことも叶わない。
拭こうと、思う余裕もない。
「ん……ぅあ……っ」
暫くの間、好き勝手に咥内を弄ばれた後、ふいに指が引き抜かれた。
「は、ぁ……っ!」
息をつく間もなかった。
次の瞬間、唇に柔らかいものを感じた。
熱い、柔らかい、指とは圧倒的に違う。
唇が触れ合い、再び舌が入ってきた。
指とは違うその柔らかさ、しなやかさ、そして熱さに一瞬我を忘れる。
「ん……」
そう思った瞬間、唇は離された。
焦点の定まらない瞳でエンドを見れば、そこにはもう冷笑の影すらなくて。
「……駄目だな」
「な、に……」
否定の言葉についむきになってエンドを睨む。
しかしエンドは微塵も動じない。
「立場、分かってるのか?」
「わ、分かってる」
答えてから、慌てて体勢を立て直し、思い出そうとする。
俺の立場……エンドがいつも俺にしてくれたこと。
エンドに身を寄せ胸のボタンを外すと、舌を出す。
開いた胸に、そっと舌を這わせる。
が、あっとゆう間に頭を押さえて、離された。
「な……にすんだ!」
「下っ手くそ」
「え、わ」
俺の頭を掴んだ手に、力が入る。
バランスを崩した俺が倒れ込んだのは、来客用のソファー。
そこに覆いかぶさるように、エンドの影。
「俺の好きにさせろ」
上からかかる、尊大な言葉。
――馬鹿にしやがって。
口に出しそうな文句を呑み込む。
確かに、今の立場の俺には何も言うことができないから。
それでも。
元はといえば、こいつのせいでもあるのに。
こいつが、あの時俺を見なかったら。
こいつと、あの時再会しなかったら。
こいつの、あの顔さえ見なければ……
一瞬、こいつの満面の笑顔が脳裏に浮かんだ。
エンドの時には決して見せない、遠藤の顔。
次の瞬間、俺の首筋にエンドの手が伸びた。
奴を買っていた時でもありえない位の丁寧さでボタンが外され、服が脱がされていく。
「はぁあ……んっ」
甘く。
ひたすら甘く。
エンドの舌が、俺の身体を這う。
乱暴だったのは押し倒された一瞬だけ。
露出した肌に、唇が降った。
その甘さ暖かさに抵抗を忘れる。
いつの間にか唇から這い出た舌が、身体を侵略する。
「やっ……ぅ」
触れた途端、ぞくりとした感覚が全身に流れる。
ああ、こんなにも反応するつもりはなかったのに。
だけど、抗えない。
これは、この感覚は、快感だ。
いつの間にかエンドが与える甘い快感が、指先一本一本まで、俺の全身を支配していた。
胸を這い、腰を刺激して。
いつもの、こいつに抱かれる時のように。
……違う。
今までの事務的な愛撫とは、決定的に何かが違った。
快感を引き出すためだけの丁寧さは、そこにはない。
「んく……んぅう……」
胸の、鋭く快感を引き出す箇所を避けその周囲を愛撫される。
ゆるり、ゆるりと優しく。
そう。
エンドの行為は、優しかった。
俺の好きにさせろ。
その宣言とは相反する態度。
なんで、なんでなんだよ……
こいつの考えが、分からない。
今まで好き勝手やってきた俺の、あてつけ?
契約を突然終了させた、腹いせ?
けれどもそれを突っ込む余裕は俺にはなかった。
「あ……あぁ」
散々胸周辺を刺激した舌は、その中心、刺激を待ち受けている箇所を素通りして下に移る。
半年間、俺の全てを知り尽くした舌が、腰に、臍に。
下半身も同様で。
熱く熱く待ち受ける部分だけを外し、思う様刺激する。
それを繰り返す。
「く……ふぅ、んっ」
更なる刺激が放置された部分の飢餓感を高め、身を捩る。
ああ、早く。
焦らしている場所に、早く!
そう頼めば聞いてくれそうな優しい愛撫に、思わずそれを懇願しそうになる。
けど、駄目だ。
今、買われているのは俺の方だ。
俺が、あいつの望みを叶えなければいけない。
だから、駄目なのに……
「あ、あぅっ、や、だめ、そこ……っ」
零すまいと堪えていた嬌声と共に、少しずつ願望が漏れ出てしまう。
「そこ……何?」
冷静なままのエンドの声。
「あ……」
それに僅かな理性が反応し口を閉じるが、どうやらそれでも許してくれなかった。
「何? 買われた癖に、何もできない癖に、何か欲しいのか?」
「んっ、な、にも……っ」
「嘘付きだな」
「ひっ……ん!」
不意に胸の突起を弾かれる。
想像以上の刺激に、快感に、背中が仰け反る。
「言えよ。正直に。サービスしてやるかもしれないぜ?」
「あ、ん……」
エンドの言葉が、刺激を望む身体に染み込む。
全身が、欲していた。
エンドを、奴が、与える快感を。
「あぅ…… ほ、しぃ」
「何を」
「……っ」
だからと言って素直に言う程立場が分からないわけではない。
力の抜けた唇を、必死で噛みしめようとする。
が。
「んぅ……っ」
エンドの指が、胸の突起に触れる。
待ち焦がれた、その場所に。
そのほんの僅かな刺激だけで、その抵抗はすぐ崩れ去ってしまう。
もう、駄目だ。
言うしか、ない。
「あ、ぅ……お、まぇが……」
「ちゃんと名前で」
「……し、終……ぁあっ!」
「間違えるな!」
終、と口にした瞬間。
今までのやたら甘ったるい愛撫とはまるで別物のような鋭さで、胸を抓られた。
やられた胸の真芯はじりじりと熱く、俺を焼く。
エンドはそれだけでは済まさないといった様子で俺の頭を掴み、ソファーに乱暴にこすり付けた。
そして耳元で囁く。
「エンド、だ」
あぁ、そっちの名前か……
源氏名しか呼ぶのを許されないのかと、一瞬胃の中につうっと冷たい血が流れる。
それでも、与えられた感覚は俺の中に澱み渦巻いていて。
「……エンドを、くれ……」
「何だって?」
「エンドが、欲しい」
「どうやって」
「お、俺の中に、挿れて、ほしい……っ」
「よし」
そう告げた次の瞬間、衝撃が来た。
「あっ……あぁああああっ!」
仰向けのままの俺の身体を、微塵の躊躇もなくエンドが開き、貫いた。
何度も、経験している筈なのに。
慣れた行為の筈なのに。
それはまるで初めてのような苦痛と快感を俺に与えた。
「ん……っ、あぁっ」
逃れようと、貪ろうとするかのように身体を捩る。
しかしそんな俺の身体をエンドは抑えつけ。
動き出す。
「ひ……っ、あ、あぁっ!」
これ以上ないほどの衝撃の直後の、更なる律動。
エンドが俺に与える感覚に、ただただ声を上げることしかできなかった。
「あっ、はぁあっ」
「……」
「あぁっ、え、えんっ、えんどっ」
「何?」
堪えきれず呼んだ声に、鋭く反応された。
「ひゃ……! そ、それ、駄目……っ」
身体の中のものが動く感覚に、びくりと反応する。
「駄目? どうして」
「あぁあっ、や、やだ……っ」
「嫌? 本当に?」
「ほ、ほんとっ、にっ……」
「これも?」
「こっ、れもぉっ!」
体勢を変えられ、新たな刺激が俺を襲う。
既に問答にもなっていない。
ただエンドの言葉を繰り返すだけ。
エンドから与えられる優しい快感を貪るだけ。
初めてそれを知った時のように、貪欲に、淫蕩に。
そして、それは突然訪れた。
「ひゃ……!」
「これで、終り」
「お、わりっ」
腰を掴まれ、より深く深く穿たれた。
「そう。エンド」
「あ、え、えんど、えんどおぉ……っ!!」
既に自分が何を言っているのかも分からないまま、俺は欲望を吐きだし続けた。
意識が薄れる前、小さく声が聞こえたような気がした。
――これだけ刻み付ければ、もう、忘れないだろ――
だけどそれを確認する間もなく、意識は薄れていった。
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