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追憶

泡沫・ハリガネムシ

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泡沫
 海に来るのはいつぶりだろう。あの時からずっと避けていた。砂浜を歩くのも岩場で磯の生物を観察するのも昔は好きだった。泳ぎは苦手だったが大きな波には憧れを抱くものだ。
 今日は満月のようだ。深夜だが水面がよく見える。鈍く揺れる水は永遠の安息を感じさせる。何にも干渉されない普遍的な存在。遥か昔からありとあらゆる生物を見てきた原点。神秘的だと感じるのは私が生物であるからだろうか。何故か声は聞こえなくなった。
 ひたすら浜を歩く。入口を探しているのだ。声が誘導してくれると期待していたがどうやら自分で探す必要があるらしい。
「海とはこれほど肌寒いものだったのね。すっかり忘れていた。」
夏はとっくに終わっているのだ。こんな時間の海は寒いに決まっている。
―トモチャン、キテクレタンダネ。コッチ、コッチ。ソトハ、サムイデショ?ダイジョウブ、ウミノナカハ、トッテモアッタカインダ。―
声が聞こえた。いつもよりもよく聞こえる。
「あなたは一体どこにいるの?私はどこに行けばあなたに会えるの?」
―ダイジョウブ、ミチビイテアゲル。ズットアルキツヅケテ。オレガ、イイヨッテ、アイズスルカラ、ソシタラ、ミズノホウニキテ。―
「…わかりました。」
目的地がわかれば一安心だ。あとはひたすら歩くのみ。何も障害物のない海岸のはずなのに何故か歩くにつれて月の光がより明るくなっているような気がする。
「なにここ…夜なのに昼間みたいに明るい…。理研特区にこんな綺麗な景色が見られるところがあるなんて…。」
―ソウ、ココハトテモウツクシイバショ。サア、オイデ。ココガラクエンヘノイリグチ。―

 だいぶ落ち着いてきたことだし、施設の中を巡回することにした。さすがは理研特区の中枢だけあってとてもつなくでかい建物だ。古い東棟はどの階も同じような造りになっており気を付けなければ迷子になりそうだ。この東棟は何フロアかが大規模な資料室になっており、他は研究員の寮だ。最先端の研究の資料も気になったがまず俺にはやるべきことがある。
「ここか。御門のやつめ、余計なことしやがって…!死人に部屋はいらねぇんだよ!」
俺は散々に部屋を荒らした。だがそんなことをしても満たされなかった。あいつはもうこの世にはいない。あいつが遺した物に当たり散らしたところで何も解決しない。再び込み上げてきた怒りはどうにも発散できない。この街のほとんどの人々を従えても何も感じない。俺はどうしたらいい。
「うわっ、っとと…。痛っ!」
何かに躓いた。見るとそこには分厚い図鑑が転がっていた。俺が暴れた拍子に机の端から落ちたらしい。
「海洋生物の図鑑か。それも小学生用の。こんなもの高度な研究をしているあいつには使えないものだろうに。」
机の上を見るともう一冊本があった。表紙には美しい絵が描かれており、『人魚姫』と題されている。
「なんだよ、こんなメルヘンチックな子供向けの絵本なんて読んでいたのか。理研特区のエリートもとんだお子ちゃまだったようだな。」
そんな言葉を吐き捨てて部屋を後にした。

 水が肩あたりまで来た。こういう中途半端な状態が一番寒いのだ。それ以上進むことに躊躇いなど無かった。きっと少し海水が目にしみるだけだ。息は苦しいのだろうか。苦しいのだろうけれどきっと一瞬だけだ。
 ある地点まで歩くと急に足を引っ張られ、私は頭まで海に浸かった。
「ぐっ…、何かが下へ、下へと私を引っ張っている…?」
―トモチャン、コノサキガ、ラクエンダヨ。チョットクルシイカモシレナイケド、ガンバッテネ。―
「瑞希さん…?じゃあこの先が楽園…?私はあなたとずっと一緒にいられるの…?」
―ソウダヨ。ズート、イッショ。キレイナオサカナサンタチモ、カンゲイシテイルヨ。―
「ああ…ずっと聞こえていたこの声はあなたの呼びかけだったのか…。夜の海なのに青くて綺麗…。」

ハリガネムシ
 夜と水圧のせいで失いつつあった意識を辛うじて取り戻し、怪物を振り払う。それは意外そうな顔をした。
「…ドウ…シテ…?」
「私が憧れていたのは神秘的なマーメイド。でもあなたは違う。」
「ナンデ?オレハミズキダヨ…?ネエ、イッショニ…ミズノナカデ…クラソウヨ…?」
「あの人は…例え私でも…他人を自分の世界に立ち入らせてくれるような人では無かった。優しい人だったけど…そこだけは譲らなかった。だからいいの。絶対に届かないところが…!」
私の話が通じているのか、目の前の化物は何故か少し悲しそうな顔をした。
「トモチャン…」
「私は蟷螂、陸じゃなきゃ生きられない!だから私は美しい人魚を見ているだけで充分!…さようならハリガネムシさん。水の中は素晴らしいところだけど私はゴメンだわ。」
そう言うと目の前の杉谷瑞希を模した何かは水の中に溶けていった。そこで意識が飛んだが、身体が浮いていく感覚だけは覚えている。
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