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8月:マスターの葛藤
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しおりを挟む八月。
喫茶金平亭は、今日も無事に店を開ける事が出来た。
「ありがとうございましたー」
客を見送りつつ、涼しい店内から外を眺めると、コンクリートの照り返しによる熱気のせいで、遠くの景色が揺れ動いている。天気予報による最高気温は三十八度。
「暑そー」
そういえば、今日は、田尻さんが駅前のイベントでダンスを踊る日といっていた気がする。
「……田尻さん、大丈夫かなぁ」
熱中症などになってないといいが。
そう、夏休みに入ってからあまりシフトに入れなくなった田尻さんの事を思い浮かべていると、店内から耳障りな話し声が聞こえて来た。
「ねぇねぇ。ちょっとぉ、この店暑くない?」
「冷房効いてないんじゃないの?」
「ほんと、店の中に居るのに汗かいてきちゃったわよ!」
いやいやいや……ふざけんな!?
設定温度を何度にしてると思ってるんだよ!来て早々暑いだとなんだと文句を言うせいで、コッチは寒いのを我慢して設定温度を二十四度まで下げてるっていうのに!
「待って、喉乾かない?お水もらいましょうよ!お水!」
「ついでに、暑いって言いましょう。これじゃあ、喫茶店に来てる意味が無いわ!」
「そうね、ちょっと店員さーん!」
あぁ、今日もコーヒー一杯で三時間以上居座っている。というか、それが当たり前になりつつある。
今日も今日とて、喫茶 金平亭は満員御礼の――
「店員さん!早く!」
「……はーい」
赤字路線真っただ中だ!
◇◆◇
人には、どうあっても自分の信念を貫かなきゃいけない時がある。
「マスター、そろそろ決断してくんないかなぁ?」
それが、俺にとっては〝今〟だ!
「で、でも。やっぱり急には無理だよ……」
「急じゃないっしょ。俺、先週から言ってるよねぇ?なに、記憶ないの?それとも端から俺のハナシなんて聞いてなかったぁ?」
「あ、いや。えっと……」
「なに、文句があるならハッキリ言いなよ?」
客の居なくなった店内。
今日も今日とて、俺は、金平亭のアルバイト兼コンサルでもある寛木君に、じわりじわりとテーブル越しに詰め寄られていた。別に睨まれているワケじゃない。むしろ笑顔なのに、めちゃくちゃ怖いのは何故だろう。イケメンだからだろうか。
「……き、聞いてます、記憶にあります、ちゃんと分かってます」
四人がけのテーブルには俺とパソコン。向かい側には寛木君。お互いの手元には、俺の淹れたアイスコーヒーがグラスに汗をびっしょりとかいた状態で置いてある。まるで、今の俺のようだ。
「あ、あの。寛木君。コーヒーのおかわりは……?」
「話を逸らすなってのー」
「……はい」
つい先日、紅茶派だった寛木君から、突然「飽きたからコーヒーにして」と言われてから、俺は毎日コーヒーを用意するようになった。
どうせ、また飽きてすぐに紅茶に戻せとか言われるのだろう。分かってる、分かってる。
「ねぇ。分かってるなら、なんで〝値上げ〟しないの」
ちょうど、脳内とリンクした寛木君の声が再び俺を断崖絶壁へと押しやる。そう、俺は現在、寛木君に店のメニュー全商品の〝値上げ〟を迫られていた。
「だって、値上げなんかしたら……お客さんが」
「来なくなるって?」
「……うん」
「っはぁ、ったくコレだから。職人気質のバカは嫌なんだよねぇ」
そう言って背もたれに体重をかけて、これ見よがしに深いため息を吐いてみせる寛木君に、今度は俺が身を乗り出して言い返した。
「先週、商店街に大手のコーヒーショップが出来たの、寛木君も知ってるよね!?」
「知ってるよ。コーヒーブルームでしょ。それ、なんかウチと関係ある?」
「あるあるある!大アリじゃん!ブルームが出来た直後に値上げしたら、お客さん取られちゃうよ!」
そうなのだ。八月の第一週目の金曜日。この金平亭のすぐ表の通りに、大人気のコーヒーショップ「コーヒーブルーム」が出来てしまったのである。
世界中で展開するそのコーヒーブルームは、コーヒーだけでなく、紅茶やデザート系のフローズンドリンクまで、多種多様なドリンクをカスタマイズできる事で有名だ。新作が出れば、SNSのトレンドはその情報で持ち切りになり、通りを歩けば、若者たちの手には新作のドリンクが握られている。店内は居心地の良い雰囲気とモダンなデザインで統一されており、いつも満席だ。
それに引き換え、うちの店ときたら!
「っていうか、既にちょっとずつお客さんも取られてきてるし!値上げなんてムリムリ!」
そうなのだ。
今月に入って、これまでのように店内が客で埋め尽くされる事はなくなっていた。そのせいで、売り上げは落ち、毎月の赤字が加速度的に増えている。これは、どう考えてもブルームの影響としか思えない。
そんな中、先週から寛木君からの執拗な値上げ要請。このタイミングで値上げなんて、そんなの悪手にも程がある!
「ぜっっったい無理!競合他社だよ!?」
いくら、寛木君が怖くとも、それだけはぜっったいに聞けない!
「っはぁぁーーーー」
直後、黙って俺の言葉を聞いていた寛木君が、これでもかという程深いため息を吐いた。よく見ると、その眉間には深い皺が刻まれている。
あぁ、この顔はヤバイかもしれない。
「……マスターさぁ、アンタどんだけバカなんだよ!?このバカ!」
「う゛っ」
机に肘をついて、ジトりとした目でこちらを見てくる寛木君に、俺は思わず息を呑んだ。今や、完全に笑顔が消えてしまった。
何を言われるのだろう。正直、情けない事に、俺は従業員で年下の彼に心底ビビッていた。でも、寛木君がなんと言おうと、ダメなモノはダメなのだ。
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