黒靴短編

未田不可眠

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綻び屋

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 人生とは一本の糸である。例えば怪我をしようが病に罹ろうが、はたまた子を授かろうが、所詮は一本の糸に定められた必然なのである。複数の事柄を繊維とする一本の糸。ただの糸と違いがあるとするならば、手繰り寄せなければ糸の先の様子が判らないと言うことであろう。つまり未来は判らない。糸が既に紡がれているのにも関わらず。
 なのでこの糸を人為的に綻ばせるとしたら、それは手元に寄せた糸、過去のみであろう。過去を綻ばせると、そこから繊維が八方に開く。すると見えない糸の先の様子も変わるのだ。
 それができる者がいる。ほんの十八の少女である。人は彼女を「綻び屋」と呼ぶが、彼女はそれで稼いではいない。
 彼女の「ものを綻ばせる」技能は何から由来するのか、彼女自身も知らなかった。物心ついた時には服の袖を意図的に綻ばせ、成長して人の運命までも手繰るようになっていた。
 彼女はこの能力を嫌った。時折彼女はこの綻びを災いと呼び、創造主に反する行いと言って己を貶した。
 けれども過去を変える魅力に惑わされて幾何もの人々が彼女の下へ集い、別の世界をと懇願した。
 その度に彼女はこう告げるのである。
 「どれだけ糸が綻んで、四方に曲がりくねっても、元は一本の糸の筋、たどる人生は同じなのです。」
 それでも了承した者にのみ、過去に綻びが与えられた。
 だが彼女の言う通りである、糸の先は変わらない。糸半ばで天変地異が起きようとも、結末は覆らない。生まれたからには死ぬのと変わりないことなのである。

 彼女の下に一人の痩せた男が現れた。精気を失った青白い顔に黒々としたクマを湛えて、頬骨が浮き出、手の指先まで骨格が透けている。明日にでも死ぬかのようだ。
 彼は綻び屋に来訪の訳を告げた。
 「私は娘を殺してしまった。法は私を裁かないが、私が私を許さないのです。大事な大事な一人娘から目を離したばかりに、あの娘は路に出て撥ねられてしまいました。先立った母親の後を追ったのだと言うものもいますが、あの娘はまだ八つになったばかりでした。一人おくれるのは悲しいのです。どうか、綻び屋さん、娘の生きた世界にしていただけませんか。」
 綻び屋は淡々と冷酷に告げる。
 「例え娘さんがこのまま生きながらえたとしても、所詮は糸の繊維の綻びです。どこに帰着するかわかりません。今より酷くなるかもしれません。それでも過去に綻びを求めますか?」
 相対的に大きく見える眼を真ん丸くして、蒼白は縦に首を振った。その様子が彼女の意思に躊躇を与えるが、綻び屋はそれを無視して蒼白の両手を手で丸く包み込んだ。
 「思い戻す機会を上げます。どんな結末を向かえるかをよく考えて、明日またここに来てください。」
 躊躇が失われた訳ではなく、これは彼女が綻びを生む際の習慣、ルーチンであった。毎度彼女はこの文句を機械のように口にする。良心を捨てようと言う幼いながらの魂胆である。
 「変わりませんよ。」と蒼白は頬の管を赤くくっきりさせて言った。これを捨て台詞に男は今日を去った。
 有言実行、男はまたやってきた。薄く白い皮膚の下に粘性の希望を湛えている。赤色をしていた。綻び屋は見て見ぬふりをして、昨日と同じように男の手を包んだ。
 「願わくばあなたの望む現在いまがあるように。あなたに苦難を耐え抜く心身があることを祈ります。」
 そう唱えて、綻び屋は男の手を強く握った。
 これだけで終わり。
 綻び屋は男に帰宅を促した。

 こんなものなのかと紅頬の男は不安を覚えて帰路に着いた。二日前にはただの灰色のコンクリの塊であったマンション手前の長傾斜は、彼の目の中で輪郭を取り戻しつつある。
 くすんで黒い壁のマンションに着いた。崩れそうにはない西の階段をゆっくり昇る。三階に彼の部屋がある。深緑色の重たい扉の前に着いた。鍵を差し込みいつも通り回すつもりだったが、そうはならなかった。重いのだ。ようやく解錠した音がしたと思ったら、今度はノブを引くのが重い。男は緊張していた。
 満を持してドアを開けた。ギチギチギリギリと音を立てる。先の綻び屋の術が正しく作用したのなら、この六メートルある廊下の先に娘がいるはずだ。呼び掛けたら、きっと何か返ってくる。
 声帯がかえって息の通りを妨げている。だが発声した。
 「ただいま。」
 結果はすぐに知られた。
 「おかえり。」
 男は紅潮した。確かに娘の声である。
 「遅かったね」と意思のある言葉も返された。
 父親は玄関のタイルの上で、息を殺して泣いた。洟も垂れてくるが啜って誤魔化す。綻び屋の術を確信する前よりも必死に声を発した。
 「ごめんね、遅くなって。」
 急く心と力の抜けた体が父親に矛盾を与えた。足取りがフラフラと揺れる。
 リビング前の縄暖簾を弾くと、一人の女の子ががソファにちょこんと座っていた。父親はそれを見て間違いなく娘であるとついに確信した。生まれてこの方、妻以上に愛した娘の顔は、崩れ落ちたあの時の死体の面影を微塵も有していない。彼のような目と妻によく似た鼻と口を持つ、愛の結晶。ついに父親は父親として涙を流した。
 しかし父親は違和感を覚えつつあった。娘の座り方が変なのだ。足の長いソファであるが、娘はソファの面の上で右脚を流しているだけで、左脚が見当たらないのだ。しかもソファの下には冷たい義足が転がっていた。
 そうして父親は綻び屋の言葉の意味を理解した。
娘は生きながらえはした。だが事故は起きたのだ。事故の結果娘が死んだ、という過去は綻び、娘は大怪我を負った、という現在に帰着したのだ。父親は嘆いたが、表に出すことはしなかった。娘が死んだ過去を知るのはこの場で父親だけなのだ。周りは娘が生きていることしか知らない。だから平常心を心がけた。
 リビングテーブルにはプリントが三四枚、ぺたっと貼り付いていた。娘の医療費についての資料である。父親はそれを見て戦慄した。
 高すぎる。あまりにも。
 保険も利いている。医療費負担の軽減もなされている。けれども今の職では払いきることが出来ない程の金額が提示されていた。加えて既に借金していることも判明した。ちゃんとしたトコロから借りていた点については父親の知り得ない父親に理性が残っていたことを感謝すべき点ではあるが、ではどう返そうか?
 娘が生きていれば良い、その思考の浅はかさを父親は嘆いた。
 しかし過ぎたことはどうしようもない。働いて稼いで返すしかない。父親はこの時、職を増やすことを決意した。

 それからは天使の居る地獄の日々であった。朝起きて、朝食を用意し、足のない娘の送迎を行い、働き、娘にリハビリを受けさせ、夕食を作り、娘を寝かせ、働いた。
 初めの内は笑っていられた。娘がいて、そのために働いている。その事実が嬉しかったのだ。だが身体はそうも行かないらしく、まず禿が目立ち始めた。十円玉程度の大きさのものが右側頭部に出来、それが発展して目も当てられない。娘にも笑われたが、帽子をかぶって我慢した。
 娘の様子も変わりだした。父親からしたら天使のような笑顔も少しずつくすみ、生気は失われていた。その為か食の通りも細くなり、顔には骨が浮かんでいた。癇癪も頻繁に起こすようになり、その度に父親を攻撃し困らせ、挙げ句自傷行為に及びだした。
 借金も減る様子はなかった。生活は毎日のように悪化し、児童養護施設の職員が戸を叩いたのは、地獄の始まりから七ヶ月後の事であった。
 来訪の訳は、娘の容姿を見れば明白であった。痩せこけ、痣だらけで、表情が亡い。誰が見ても、必ず一度は虐待を疑う様子であった。
 無論、父親は虐待をしていない。だが養育能力があるかといわれれば、最早無かった。
 借金が為の差し押さえも始まった。家財が失われていくのを見て、父親は綻び屋の言葉を思い出した。既に忘れていたはずの十八の少女の声が、心の肉を削ぎ落とす。
 
 翌月、蒼白した顔の男に養育責任の欠如が言い渡された。死んだも同然の娘は父親との別れ際に、何も言わずただ一筋の涙を見せた。
 蒼白は家を失った。過去が綻ぶ前に男が持っていたものは今、どこにもない。
 蒼白は綻び屋の少女のもとに訪れた。
 少女は蒼白の以前と同じかそれ以下の風貌を確認するとすぐに、「過去を綻ばせてももう無駄ですよ。あなたの糸はあなたが知る結末にしか帰着しないのです。お帰りください。」
 蒼白は首を横に振って答えた。
 「帰る家はもうないのです。もう一度だけ過去を変えてください。今度は失敗しませんから。」
 綻び屋はその言葉の全てを否定した。
 蒼白はついに悪態をついて、立ち去った。どこへ向かったのかは綻び屋の知るところではない。
 綻び屋の少女はこれで十四回、同じ経験を得た。
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