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剥奪

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 寒気が止まらない。いますぐここから逃げ出したくてたまらない。

 確かに、出会ったあの幼い日に、わたしは恋に落ちた。
 夜空のような黒い髪に、吸い込まれるような空色の瞳に、困難を乗り越え、力強く成長していく姿に、心ときめかせた日もあった。けれど。

 その想いは、追放と裏切りを告げられたあの日ですべて打ち砕かれ、失われたのだ。

 どうして、あれだけのことを言って、あれだけのことをして、わたしの想いがまだ自分にあると思えるのか心の底からわからない。

 こんな人だったのか。
 いや、こんな人だった。失望したくなくて、見ないようにしてきただけ。

「いいえ、好きではないです……わたしはもう戻りません。あなたはミーシア姫を大切にするべきだと思います」

「そう拗ねないで、素直になれよ。特別に言って神殿に、おまえの部屋を用意してやってもいいからさ」

「拗ねてないです。部屋もいりません。戻るつもりはありませんから」

「? なんで?」

 ドーハートさまは、わたしの目の前に座り込んだ。かつて恋におちたその空色の瞳に向かって、わたしははっきりと言った。

「この地で、やりたいことを見つけたからです」

 教会に横たわる人々はわたしの祈りを必要としてくれる。キシールやカイドルさん、魔王城で一緒に暮らしたみんなとも、今の関係を続けていきたい。

 そして、わたしの膝で横たわるこの人に、まだ名をつけてあげてはいないから。
 だからまだ、この地を離れるつもりはない。

「はーん。そういうこと、ね。オレに愛想尽かされたと思って、仕返しに敵の愛人になったってか」

 わたしが魔王を見つめるまなざしをどう解釈したのか、ドーハートさまはそう言った。

「おまえにしてはよくやったなあ。なにしろ、オレの側にいたころはキスさえ許さなかったんだから。どうやって誑し込んだんだ? おまえ、顔だけはかわいいからなあ……どこまでヤッた? ん?」

 ドーハートさまの中で怒りが膨れ上がっていくのを、魔力が膨張していく気配で察する。
 しかし、わたしにはどうすることもできない。

「ふざけんじゃねえぞ」

 大声は温室中を震わせ、割れたままのガラスから破片が落ちた。
 予期していたとはいえ間近で怒気を爆発させて怒鳴られた衝撃はすさまじく、わたしは身をすくませてしまう。

 その隙に顎を強い力で掴まれて、無理やりドーハートさまの方へ顔を引き寄せられて、

 彼の怒った顔がどんどん近づいてきて、

 口と口がぶつかりそうになって、

 怖くなって目を閉じてしまって。

 しかし、唇が重なる前にわたしの顔の下半分が冷たいもの包まれた。

 それが膝で痛みと戦っている魔王の手で、わたしとドーハートさまのキスを阻んでくれたということに気づくのはもう少しあとのこと。

 先に気づいたのは、ドーハートさまに無理やりキスされそうになったということで、一気に怒りが沸点を超えたわたしは、ドーハートさまの頬を思いっきりひっぱたいた。

 バシーンと小気味よい音が響き、完璧に油断していたドーハートさまはバランスを崩して横に倒れる。

「破廉恥な! 一体何をするんです!」

 どれだけ言葉を尽くしてわたしの想いを伝えたところで、この人は無理やり連れ戻そうとして、無理やりキスしようとした。

 わたしの人格を無視して、自分の都合を押し付けようとするのが、この人の行動のすべて。

 かつて恋をした瞳も、精悍な顔も、成長を見守ってきた彼の内面に対してさえ、

 もはや嫌悪感しか見出せない。

 その気持ちを自覚したところで、頭の中から声が聞こえた。

 ――待っていました。あなたが彼に、見切りをつけるのを。

 ――条件を満たしました。勇者資格を剥奪します。

 女性の声。どこか懐かしい声だった。わたしは周囲を見回すが、そんな人影は見当たらない。

「てめえ、優しくしていればつけあがりやがって……!」

 すぐさま態勢を立て直してわたしに殴りかかろうとしたドーハートさまの拳は、しかし見事に空振りする。

 わたしの膝の上で横たわったままの魔王の長い足が、カニばさみの要領でドーハートさまの足を挟み込んで引き倒したからだ。

「! 魔王陛下、体は大丈夫なんですか?」

「ああ、まあな。おまえらな、人の頭上で痴話げんかするなよ……けど、おかげでだいぶ回復した」

 瞳はまだうつろで顔は青白く、血色が戻らないままだったが、確かに新しい出血はない。傷が塞がりかけているのは本当のようだ。

 ほっとして力なく下げられた手をとって、その冷たさを感じたとき、魔王がわたしとドーハートさまの口づけを阻んでくれていたことに気が付いた。

 この人はこんな時にでも、わたしを守ろうとしてくれたのだ。
 たったそれだけで、口角が上がるのがわかる。
 冷えていた心が温まり、指先までぽかぽかして、特に頬が、熱くなる。

 大切にしてもらえることがこんなにうれしいのは、
 わたしが、この人に恋をしているからだ。

 ――各種ステータス上限突破解放無効化完了。レベルダウン開始。99、98、97……

 先ほどから聞こえるこの声は、二人の反応を見る限りわたしにしか聞こえていないみたいだ。

 意味不明な言葉の羅列に聞こえるが、頭に響く声が次の言葉を告げるたびに、ドーハートさまが纏っている強い魔力の気配が、拡散されていくように感じる。

 魔王が立ち上がる。それを見届けてわたしも立ち上がると、ドーハートさまの方はなにやら、茫然として独りごちた。

「なんだ、これ。力が入らない……?」

 ――経験値無効化完了。恩寵バフ剥奪。魔法ツリー強制封印。スキルランク低下開始、完了。全スキル削除開始、完了。物理無効が解除されました。魔法無効が解除されました。

 立ち上がることすらおぼつかない様子のドーハートさまを見下ろし、魔王は何かに気づいたようにつぶやいた。

「……はじまりの聖女の、最後の抵抗だ」

「抵抗?」

「彼女は勇者に殺される直前に、自分が選んで力を与えた勇者から、そのすべてを剥奪する唯一の方法を編み出していた。勇者が聖女を害したとき、勇者はその資格を失うことになる」

「はあ!? なんだよそれ! 第一害してなんかいないだろ!」

「バカだな。……自分のための労働を長いこと強制し、その揚げ句に都合が悪くなれば生まれ育った環境を奪って追い出し、姿をくらましても大して探しもせず、しかし自分の生活が行き詰まったら連れ戻してまた働かせようとするのを、加害と言わないならなんて言うんだよ」

 まあ、きっかけは無理やりキスされそうになったことだったみたいだけどな、と言って、魔王はドーハートさまに背を向けようとした。

 見せた隙を逃すまいとドーハートさまはいきり立って襲い掛かろうとするが、急に金縛りにあったみたいに体が動かなくなる。

「おまえが今まで自分の力だと信じていたものは、すべて聖女が貸し与えていた力だ。勇者の資格が剥奪されたおまえは、その辺のスライム一匹より弱いよ」
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