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第五章 真の帝(継承者取り替え任務完了)
とりかえばや物語
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1.立太子
帝の一の宮明輝親王は健やかに育ち、7歳を迎えた。今年の夏至前に、立太子の儀式が行われる予定だ。ここまでくるのに、様々なことが帝の周囲で起こっていた。
まず主上の祖父にあたる先々帝だった朱雀院が崩御した。この時代に還暦を過ぎても健在だったのは、すごいことだ。朱雀院の遺体は形式通り魂殿で安置されたあと、大和の地に陵が作られ、火葬された骨が納められた。
その間、斎宮の女御は女三の宮と女五の宮を連れて後宮を退き、一年間の喪に服した。だが、おとなしく邸で父宮の菩提を弔っているのかと思えば、そうではなく、三条右京の富士の尚侍本邸で好き勝手にノビノビ羽根を伸ばしていた。
それ以前に亡くなった河原院は、仙洞御所ごと燃えて、皇子皇女や妃たちも多く亡くなったため、誰の骨なのか、そもそも火勢が強すぎて、骨すらも残っていなかった者が多い。瓦礫から丹念に骨をかき集めても、行方不明者の数に到底骨の数が足りなかった。帝は伊予国の無人島の一つを陵とすることを定め、苦心してやっと集めた骨は金箔を貼った銅製の箱に収めて、瓦礫や土も孤島に運ばせて骨箱と共に穴に埋めて、その上から土を丘のように丸く盛り、陵を作った。
河原院跡地には暫くの間、鎮魂のため土地を休ませることになり、四季折々の花の種を蒔いて花畑とした。花が終わったあとは灰にして盆の時期に川へ流した。仙洞御所で暮らしていた人と思われる幽霊が、近辺でたびたび目撃されているが、彷徨っているだけなので、特に対策は講じられていない。見かけたら経文を唱える程度といったところか。
河原院全焼の日には、法要が行われている。亡くなった人々への鎮魂のために、主上をはじめとする公卿の方々が代参を立てて供物を供えた。
左大臣は引き続きその地位に留まっているが、立太子を見届けたら太政大臣になることが決まっている。位人臣の最高峰であるが、事実上の政から引退、相談役となる。
次の左大臣には、現在内大臣を務めている左大臣長男が内定している。父が若返りの薬を飲んでまだまだ元気なので、自分にはまだ早いと固辞したが、その父親から「新たな時代が間近に迫っているのに、古いものが残っているのは見苦しい。いい年して臆するな!」と逆に内大臣は怒られた。
問題は右大臣だった。元右大臣の出家で空席となった後は、在原の大納言を昇格させていたが、彼もまた高齢を理由に、新たな東宮誕生を機に引退を表明している。通例なら摂関家出身の藤原氏、あるいは大納言を務める臣籍降下した源氏が、妥当な線だ。
だが主上は榊の中納言を抜擢した。榊の中納言は右大臣に内定したことで、「引退する」「出家する」と、大騒ぎした。家に閉じこもって震えていた榊の中納言を、左大臣自らが訪ねて引きずり出し「秘密の一端を担っているのだから、逃さぬぞ」と脅しをかけた。泣き言はいうが、いざ仕事を任せればやれる男なのだ。確かに中級貴族がいきなり大臣までさせられたら恐慌状態になるのも同情に値するが、図太い娘(富士姫)を見習って、もう少し腹をくくってくれたらと思う。
内大臣は今のところ、空白になっている。左右大臣が揃っていれば、取り立てて必要と言うわけではないが、藤原氏のパワーバランスを考えると、旧右大臣家が台頭してきてほしいところだ。旧右大臣の長男が母の喪が明けた後、大納言に昇進すると、これまで以上に生真面目かつ有能な仕事ぶりを発揮した。彼も内大臣に引き上げてもいいのではという声も上がったが、先の主上及び一の宮暗殺計画に実弟が加担していたことから、今回は時期尚早と見送られた。だがそう遠くない時期に、東宮元服前には、旧右大臣家の大納言は昇格するだろう。これは暗殺計画血判書を、大納言が主上に提出した功績が大きい。
主上の皇子は、一の宮明輝親王ただ一人。皇子1人では心許無いと言われているが、生まれてくるのは姫宮ばかりなのは天の配剤であるから仕方がない。主上は富士姫に、「隠れ里からもう一人皇子を迎えることは出来ないか?」と尋ねたが、富士姫は「母親から我が子を引き離す苦悩の現場に立ち会うのは、もう、ゴメンだ」と断った。
そんななかで斎宮の女御が懐妊した。元天女は、人間と契ってはならないというルールがあるが、斎宮の女御は天女時代からそもそも色欲が強い。皇子一人では何かと主上の立場も微妙なのではと、斎宮の女御は大御神様に訴えかけて、特別に同衾が許された。そして、一の宮より4歳年下の二の宮悟志親王を生んだ。斎宮の女御は後見となる先々帝も既に無く、母の実家は宮家で後継者となる男子もいないので、体面的にも適任と言えた。斎宮の女御は、二の宮が物心付く前から「おまえは、一の宮お兄様の手足となって働くのが使命です」と、徹底的に教え込んだ。
そして明輝親王が生まれてから6年後の夏至間近(この時代の人間は満年齢ではなく数え年)、好天の空の下で、華々しく明輝親王の立太子式典が執り行われた。主上と中宮は、感慨深く掌中の珠として大事に育て上げた明輝親王がここまで成長したことに、感銘の涙を流していた。
式典最中、空から桜の花や桃の花が雨のように、降り注いだ。間違えなく天上の神々のご加護を賜った皇太子として、都中が感動した。
同じ頃、西の果てでは、勇ましい姿の富士姫(内裏での通り名は、富士の尚侍)が、弱ったこの国を征服せんと化物一行を引き連れた異国の呪術師と戦闘を繰り広げていた。
当初は若造風情がと、侮っていた呪術師たちは、船ごと巨大な海龍王に飲み込まれた。呪術師に操られていた化け物たちは、狼狽えて逃げ出そうとするも、富士の尚侍の神獣に一匹残らずバリバリ食われた。
「まったく、退屈しのぎにもなりゃしない」
青龍のタッチャンの背に乗って、次の怪異出現場所へ向かう。酒でも食らいながら、自邸でゴロゴロ自由気ままにしていたいところだが、一の宮が登極するまでは、この国の守りの結界は完全修復出来ない。それまではちまちまと、土木作業(結界修復)、害虫駆除(物の怪の類の退治)、愚痴聞き係(御霊と化した古の帝や東宮の話し相手)と、一つ一つは富士の尚侍にしてみれば大したことでないが、仕事数があまりに多いので、休息を取る暇もない。
「あー。早いとこ楽したい」
それが富士の尚侍の口癖だった。
2.布石
そして更に数年がたち、東宮は元服した。一の宮明輝親王は、母宮と暮らした弘徽殿を独立して、東宮御所となる昭陽舎へと移り住んだ。早速、麗景殿や淑景舎には左大臣(太政大臣長男)の姫や、内大臣(元右大臣長男)の娘が入内した。
東宮元服の数年前には、太政大臣の孫で、左大臣嫡男の藤枝の中将のもとへ女五の宮(斎宮の女御が育てた隠れ里出身の姫)が臣籍降嫁して、嫡子を生んでいる。年齢は8歳離れているが、神秘的な美しさと教養を持つ女五の宮を、夫である藤枝の中将は崇め奉らんばかりに惚れ込んでいるため、たびたび妻から「私は仏像ではありません!」と怒られていた。
昨年には女七の宮(岩滝の女御が育てた隠れ里出身の姫)が、内大臣の異母弟(元右大臣の息子)の、右大弁に嫁いでいる。まだ姫宮が年若いので懐妊は当分先かと思われたが、6歳年下の妻を盲愛する20歳の若者の情熱が実を結んだ。あまりに早い懐妊に、岩滝の女御が難解な漢文で右大弁に手紙を送った。苦労して訳して読めば、「ウチの娘に盛りすぎるな!」という抗議文だった。家族には大いに笑われて、種馬の右大弁という、変なあだ名がつけられた。今では大内裏にまで広まって、主上からも種馬の右大弁と呼ばれ、彼は赤面を隠せない。
この日、榊の衛門督は、駿河の国住まいの異母妹から送られてきた夏みかんを待って、三条右京にある実妹の邸に向かった。
「内裏で渡せば済むことなのに、わざわざ邸へ届けに行けとは母上も人使いが荒い」
実妹は仕事柄、主上から身軽な男装束を内裏での着用を許されている。背も兄の自分より高くて、凛々しい顔立ちをしているので、女性からモテモテだ。男性からは妬みの標的にされているが、そもそも結婚を神から禁じられているので男にモテるのは、女性人気が高いより厄介になりそうだ。
「俺は恋愛や結婚も禁じられていないんだけどな」
言ってて虚しくなるだけだが、本当にモテないのが悩みの種だ。父は嫌がりながらも右大臣、妹は尚侍だが、真面目過ぎて付き合いづらいと同僚からも言われる衛門督は、年齢からしたら少なくとも権中納言あたりになっていてもいいはずだ。だが会話が噛み合わない、面白くないという理由で、人から敬遠されていた。
「富士姫や桜姫とは話が噛み合うんだけどな」
衛門督は、自分が聞き上手であって、話上手でないことに気づいていないのが、そもそもの欠点だった。
邸に着くと、案の定、妹は留守だった。では帰ろうと土産を預けて立ち去ろうとしたしたとき、視界が暗転した。
気がつくと妹の邸の寝所で寝かされていた。顔の汗を拭ってくれていた女房の美しさに、心臓が爆音を立てる。
「顔色がよろしくないので、まだ横になっていてください。尚侍様も、まもなくいらっしゃいますので」
衛門督はぼんやりと天井を、見つめながら、そういえば明け方まで書類の作成をしていて、ここ数日ろくに寝ていなかったのを思い出した。
「内裏の仕事は真面目にやっても終わりがないから、適当なところで終わらせる線引きをしないとな。僕、いや私も若い頃はよく頑張りすぎたものだ」
唐菓子をバリバリ食べ、お茶で口を潤しながら指摘するのは、主上の腹心たる在原の右大将だ。何でこんところで、自邸みたいに寛いているのだろうか。
「あ、倒れた兄さんを運んだのは僕だから、感謝してね」
在原の右大将って、こんな軽い人だっけと、衛門督は回らない頭で考える。清涼殿で見かけるときは、風格のある憧れの方だったが。それともこれも、頭の打ち所が悪かったせいだろうか。
「うーん、大丈夫かなぁ。早く富士姫、帰ってきてくれるといいけど。杉の葉ちゃん、なんかいい薬ある?」
「尚侍様の指示なしで、薬湯をお与えするのは禁じられていますから。それより右大将様、主上のお使いでこちらへ参られたのに、こんなところで油を売っていて良いのですか?」
「主上から、書簡の返事は僕が持ち帰るよう厳命されているの。ここは我が家みたいに居心地いいし、骨休みには丁度いいんだよね」
無邪気に振る舞う在原の右大将は、富士姫との付き合いが長すぎて、変な曲がり方をしてしまったのだろうか。いや、でもここ最近の右大将は主上の傍らで、寝る間もないほど働いておられる。年も年だし、寝不足で在原の右大将も少々お疲れが溜まっているのもかもしれない。
「あの、右大将様。わざわざ運び込んでくださって、ありがとうございました。右大将様もこのところ、たいそうお疲れなのでは。私の心配などせずに、どうぞ僅かな間でも仮眠を取ってください」
衛門督が言うと、在原の右大将は笑いながら、横たわる富士姫の兄の腕を衾ごしに軽く叩く。
「本当に、あの富士姫のお兄さんとは思えないほど、気遣いが心細かい。大丈夫、見た目は年寄でも、君より元気だから。君も要領よく立ち回らないと、過労で潰れてしまうよ。心配してくれる奥方はいないのかい?僕は妻がよく出来た人だから、倒れる前に寝かされて、滋養のあるものを沢山食べさせてもらっているんだ~」
「右大将様、あなた様のような身分の方が傍らに居られると、衛門督様も休むに休めません。少し離れていただけませんか?」
杉の葉という女房が注意すると「じゃ、あちらで姫君と遊んでこよう」と、在原の右大将は席を外した。その後ろ姿を見ながら、身分も年齢も満たしているのだから、右大臣には気弱な父よりも、あの方の方が適任だったのではと思う。
「心配してくれて、ありがとう。それより、こちらには幼い姫君がいるのだね。どちらの姫なのだろうか。まさか在原の右大将様と、妹の間の子じゃないよね?」
衛門督は横になったまま、少し離れた場所で、幼い姫君を「高い高い」と持ち上げて遊んでいた。服装がよく、髪もよく手入れされた可愛らしい姫だ。年齢的に、妹も子を生むのはこれから難しくなっていくだろうが、富士の女神から誕生当初に命じられた「結婚は禁じる」という契約を破ったのだろうか。天罰が下らなければいいが。確かに在原の右大将とは長い付き合いで、年齢は一回り以上離れているが、女神の約束がなければ、これほど釣り合いの取れた夫婦もいないかもしれない。女人として生まれて、好きな人ができても結婚もできず、子もなせず、ただ国を守るために必死に働く妹が哀れだ。
衛門督が在原の右大将の子守を眺めながら悶々と考えている中で、美人すぎる女房は、衛門督を凝視する。
「どうやら、右大将様の言う通り、衛門督様は生真面目すぎるようですね。公私において他者へ気を回しすぎです。それと他人から押し付けられた仕事までこなすなど、人が良すぎますわ。その人の為にもなりませんし、貴方様も倒れてしまっては元も子もありません。打ちどころが悪かったり、人目につかないところで倒れたら、手遅れになる可能性もあるのですよ!」
美貌の女房は叱りつける。まるで見てきたみたいに知っているのだな。だがあの妹に仕えているなら、不思議でもなんでもない。
「つい、妹のことを考えていた。あの姫は右大将様と妹のー」
「そんなわけあるか、妄想根暗兄が!」
大池にせり出した廂の間から、青龍のタッチャンに乗って帰ってきた富士の尚侍は、兄の横に立つなり、仁王立ちで見下ろす。烏帽子をつけず、髪を髷でなく三つ編みにして背に垂らした妹は菖蒲模様の狩衣を着ている。凛々しい顔立ちといい、どこからみても女人らしさが欠片もない。
「あの姫は、とある事情があって、この杉の葉ともども引き取ったのだ。ちなみにあの子の母は杉の葉だぞ、私の子供であるはずがない」
「だよね~。尚侍の子供なら、姫でももっと男らしい顔のー痛っ!」
富士の尚侍の帰宅で、あやしていた姫を抱き上げながら傍らに来た在原の右大将は、富士の尚侍に回し蹴りで尻を叩かれていた。
それを見た衛門督は、やっぱ夫婦よりも男友達にしか見えないなと頭の中で修正した。
「今は一の宮様の元服によって、内裏の整備や、太政官の臨時の除目を控えて目の回る忙しさだが、相変わらず要領が悪いな。そんなんで、春宮大夫兼参議に昇進させるのは、やはり心配なんだよな。主上の要請と、太政大臣を通じた左大臣からの推薦で、まず覆ることはことないと思うが」
「嫌だー!」
衛門督は半身を起こして叫んだが、具合の悪い中で叫んだら、すぐに倒れてしまった。
「仕方ない兄だ」
富士の尚侍は帯にぶら下げた瓢箪の栓を抜いて、身をかがめる。衛門督の青い顔でブンブン顔を横に振り、ますます顔色が悪くなる。
「安心しろ、これは酒ではなく万能薬だ。下戸に酒を飲ませるような勿体無いことするはずないだろう」
富士の尚侍は、兄を抱き起こして瓢箪の飲み口に口を当てて飲ませる。躊躇いがちに嚥下したそれは、上等な緑茶の味がした。衛門督が半分ほど飲むと、富士の尚侍は瓢箪の飲み口を兄の口元から離して、袖で飲み口を拭いてから栓をした。
薬とは思えないほど甘露の茶の味をもう少し味わいたくて、思わず衛門督は「ああ」と残念がって呟いた。それにしても、がさつな妹ながら、手持ちの薬は常に効力が凄い。あれほど気だるかった体が、嘘のように軽くなった。
その様子を富士の尚侍は、顎に手を当てて、しばし凝視する。それから杉の葉を振り返る。
「杉の葉。そなたには過酷な役割だと思うが、仮面夫婦でもよいから、この愚兄の妻になってもらえないか?」
妹の突飛な提案に、衛門督だけでなく在原の右大将も目を剥いた。だが杉の葉は動揺もなく「かしこまりた」と、まるで近くへ遣いを命じられて同意するのと同じ感覚で応じた。
「いやいや、何言ってるんだ!こんな美しい娘さんに、うだつの上がらない俺、いや私など、ましてや、ついさっき知り合ったばかりだぞ?」
衛門督は真っ赤になって動じるが、杉の葉は怪訝な顔をする。
「私のような未亡人ではご不満ですか?」
「そうじゃなくて!私が君に相応しくないないとー」
「不器用者の兄には、これぐらいしっかりした妻がいた方がいい。そのために相応しい女人を、探していたのだから」
富士の尚侍は事も無げに言う。
なるほど、だから事情を知っていた杉の葉は動じなかったのかと、衛門督は胸がチクリと痛んだ。
「子連れの未亡人を妻に迎えるのは、衛門督様も抵抗があるかと充分存じ上げておりますが、実際に対面して、この方は私でなければ、いつどこで倒れていてもおかしくないでしょう。衛門督様のお世話と躾、腕が鳴りますわ」
杉の葉のやる気満々の姿に、衛門督は別の不安を覚えた。姿形はたおやかな美女だが、なんとなく妹と同じ気質の匂いがするのは気のせいだろうか?
「この場に居てくれて、丁度良かった。右大将、この杉の葉を隠し子認知してくれ」
「えー。僕の奥さんがよくできた恐妻なの、富士姫も良く知ってるじゃないか!」
「おぬし自慢の顔が腫れ上がる前に、奥方には説明しといてやる。時代が変われば、新たな大臣だ。今回はその布石となるべく、臨時の除目で大将に大納言を兼任とすることになった。大納言昇進話をすれば、奥方もたちまち上機嫌になるだろう」
「それ、僕はまったく全く知らないんだけど!青天の霹靂なんだけど!ていうか、いずれ大臣って、なに恐ろしいこと言ってくれちゃってるわけ?」
「東宮様の御代となったら、新たな人員改革が始まる。父の右大臣も、いい加減、身分不相応な重責から解放してやりたいからな」
富士の尚侍の言葉に、姫をおろした在原の右大将はうんこ座りになって頭を抱えた。
衛門督も心なしか青ざめている。次の除目で春宮大夫と参議に昇進内定。東宮様の御代となったら、大臣はなくても中納言ぐらい押し付けられそうだ。でなけば、杉の葉のような優秀な人材を、妹が愚兄の妻に指名するはずがない。
「…妹よ。まさか主上が退位したと同時に、尚侍を辞すなんてことしないよな?」
衛門督は、これ以上ないほど真剣な顔で尋ねる。内裏に富士姫が居るか居ないかで、衛門督の未来は左右される。
「仕方がないが、当分は内裏も荒れるだろうし、私が重石になるしかないだろうな」
富士の尚侍は心底から嫌そうな顔をして言った。
富士の尚侍は在原の右大将の奥方に、まず大納言昇進の話で喜ばせてから、どこまで嘘か本当なのか、杉の葉親子の波乱に満ちた人生を語った。尚侍の兄が妻と望んでも今の立場では側室どころか妾にしかなれないと嘆いて、在原の奥方の同情を買う。そして、もし奥方さえ承諾してくれたなら、右大将の隠し子だったという血筋の偽装で、正室まで引き上げることも可能なのことを、根気よく説明した。奥方は快諾し、夫の隠し子を自身の養女とすれば嫡子扱いとなって、更に障害は薄くなると提案した。こうして、杉の葉は在原の右大将の隠し子となり、正室の養女となって衛門督の妻となった。
当初、榊の右大臣は息子が未亡人子連れとはいえ、在原の右大将の娘御を妻にすると言ったときには仰天した。娘の富士の尚侍は結婚を禁じられているが、妻の一人も見つけられない、要領の悪い息子の結婚も、半ば諦めていた。駿河の御方も「私たちは、分不相応な地位で運を使い果たしたのと引き換えに、子供の血は後世まで続かないのね」と嘆いていた。
だから息子の結婚には、諸手を上げて賛成した。未亡人という立場から、結婚は内輪で行うことにしたが、蓋を開ければ儀礼に則った婚儀で、三日目の夜の露顕では、在原の右大将邸で大規模な祝宴が催された。
付け加えると、衛門督夫婦は仮面夫婦ではなく、のちに連れ子の他にも、二男三女をもうけた。
連れ子はのちに、富士の尚侍の養女となり、女官教育と物の怪の退治方法、神獣の使役の仕方を叩き込まれた。
そう、杉の葉母娘は、陸奥の大和皇子の隠れ里から連れてきた、大和皇子の末裔だった。杉の葉の娘の深層に巨大な神通力が眠っているのに気付いた富士の尚侍は、娘はいずれ自らの養女に、母親は愚兄の正室に迎えたいと願い出て、村長に受理された。連れ子のいる未亡人は、隠れ里でも暮らしにくい環境だったので、杉の葉もこの提案に飛びついた。
そして、臨時の除目で在原の右大将は大納言を兼任し、富士の尚侍の愚兄は参議と春宮大夫を兼ねることになった。新時代の布石は、着々と進んでいた。
3.皇位のとりかえばや物語
東宮が11歳で元服した4年後、東宮に皇子が生まれたのを機に、主上は退位を表明して冷泉院となった。そして東宮一の宮明輝親王が新帝として登極した。若き帝が玉座に座ると、空から紫宸殿を覆い尽くすような一条の光の柱が差し込んだ。その光はやがて薄まりながらも大内裏を、都を、ひいては国を覆った。異能の力の持ち主ならば、ひび割れた結界が継ぎ目なく修復されていく音が聞こえただろう。こうして長く簒奪者の血筋と、影の皇族藤原氏の血筋で紡がれた偽りの時代は終わり、正統な帝の時代が戻ったのだった。
新帝には既に2人の親王が、それぞれ藤原氏系統の女御から生まれている。新帝誕生に伴い、既に公卿や宮家から多くの妃の入内が決まっている。
旧帝の冷泉院は、皇太后となった元弘徽殿の中宮と、元梅壺の女御と共に仙洞御所へ移った。しかし、斎宮の女御と岩滝の女御は仙洞御所への移住を丁重に断り、三条右京にある富士の尚侍邸で暮らすこととなった。
斎宮の女御は、養女である女三の宮も既に嫁がせていた。内親王は結婚しないのが通例だが、財産のある公卿の娘ならともかく、先々帝の孫娘という肩書では、いざというとき心許無いとというのが表向きの持論だった。女三の宮は、兵部卿の宮の息子で、源氏姓を賜った中納言の正室となり、今では子供達にも恵まれて幸せに暮らしている。蛇足だが、幼少期に鞭で打たれた跡は、斎宮の女御が裳着を迎えるまでに、時間をかけてゆっくり傷を消した。いきなり消すと周囲から怪しまれるので、成長と共に薬の効果も出たという穏便な形を取ったのである。
斎宮の女御と岩滝の女御は、正統な血統を裏皇族の藤原氏に新たに入れる使命を担って、女五の宮と女七の宮を藤原氏大臣家の嫡子に嫁がせた。従って不遇な幼少期を過ごした女三の宮を手放す必要はなかったが、それは女御が完全な人間だった場合の話。2人の女御は天女の転生体であり、ゆっくり年をとり、寿命も一般人の数倍ある。怪しまれないため、いずれ時期を見計らって身を隠さなくてはならない。そのとき、女三の宮を一人ぼっちにするわけにはいかなかったのだ。
いま、手元に残っているのは斎宮の女御が生んだ二の宮悟志親王のみ。その子も翌年には元服が可能な年齢に達するが、大人になる前に、まずやらねばならないことがある。異能の制御方法だ。そのために斎宮の女御と岩滝の女御は、富士の尚侍邸へ移ったのだ。
「二の宮の異能は、東雲の天女体質譲りかしら?」
岩滝の女御は、天女時代の斎宮の女御の名前を言った。ここでは周囲に気兼ねなく話すことができる。
「制御を徹底させるのが、最大の難関ね。最初に使ったときは2歳か3歳だっけ?」
「そ~なのよ。あの時は、たまたま宿下がりしてて、内裏は、影響なかったけど。その後は立夏が力を封印してくれてたけど、せっかくの力を有効活用させないのも勿体ないし」
相変わらず危機感に欠けた斎宮の女御の物言いに、岩滝の女御は気が抜けるというか、物足りないと言うか。やはり論争は富士の尚侍こと立夏とするのが一番楽しい。
「それを見越して、大御神様から子作り許可が出たのかも。私らが地上で使える異能は、せいぜい簡単な物の怪を追っ払う程度だもんね」
「暫くは地上の結界修復、大地の沈静化に時間がかかるだろうから。私らは、ここであと百年以上は見守っていくことになるけれど」
早く天上界へ戻りたいと、岩滝の女御はため息をつく。
「あら、私達にとっての百年なんて、季節が一つ過ぎる程度のものじゃない。それに一人なら寂しいけれど、私、彩雲、立夏がいれば楽しいと思うわ。ほとぼり冷めたら、諸国漫遊してもいいのだし」
「ああ、それは楽しそうね。少なくとも主上、じゃなくて仙洞御所様か、彼が存命中は大人しく都に留まっているしかないけど」
「内裏の狭い世界に閉じ込められているよりマシよ。それよりさ、あそこの戸棚がずっと気になっているのよね」
斎宮の女御は、葡萄の螺鈿細工が施された漆塗りの戸棚を指差す。殺風景な寝殿母屋に、何故か同じ作り同じ大きさの戸棚が3つ並んでいた。
「面白い異国の書物が入っていたら、借りて読むわ」
岩滝の女御は、膝立ちで戸棚に近寄る。
「私は違うものだと思っているわ。この戸棚の形状と、大きさからしてね」
斎宮の女御も、友の隣に来る。開けてみると、そこには異国の酒が詰まっていた。3つとも、部屋の装飾品に見せかけたワインセラーだった。
「あいつ。こんなに酒を集めて1人で飲んでたのね!」
岩滝の女御は立腹する。酒好きな天女は多いというか、天女は酒飲みと思っても過言ではない。
「今までみたことない、美味しそうなのばかりじゃない。仕方ないわよ、立夏は諸国を飛び回って仕事しているのだし、息抜きぐらいは許してあげないと」
「まあね。そもそも内裏で、こんな異国の酒を飲むわけにもいかないし」
別の戸棚には、異国の玻璃細工の様々な杯が整然と並んでいた。使用のためというより、コレクションのようだ。
2人の女御は、気に入った玻璃細工のグラスに葡萄酒を注いで飲む。
「うまい!」
「あら、これは癖になる味ね。天上界でも手に入るかしら?」
「伝手を使って探せばいいわ、あちらに戻ってから。まずはここにある酒を飲めるだけ試飲しましょう!」
…そして仕事から戻った富士の尚侍は、秘蔵の酒が飲み尽くされ、高いびきを掻いて大の字になって寝ている2人の天女を冷ややかに見下ろした。
「馬鹿だな、人間界の酒は慣れるまで悪酔いしやすいのに。まあ翌日、せいぜい苦しめ」
富士の尚侍は空き瓶を消し、新たな酒を空中収納から取り出して、ワインセラーいっぱいに補充した。
使われた玻璃細工のグラスは、手に掲げ持って凝視する。
「他人の使ったグラスを、コレクションに戻すのはな。ここのモノは、東雲と彩雲用にして、別の場所で新たに蒐集するか。時間はたっぷりあるんだ」
富士の尚侍は、女房を呼んで、グラスを洗って戸棚に片付けるよう命じた。
そして活発な二の宮がどこにいるか探しに行くと、彼もまた神獣と遊び疲れて、渡殿の中央で、電子切れの人形ののように、獅子の背中に寄りかかって眠り込んでいた。
4.その後の話
正統な帝に戻したことで、国は安定した。養父の冷泉院の子供は姫宮ばかりだったが、主上は妃の数が父院と変わらないにも関わらす、十男八女の子を儲けた。皆、病気一つなく、すくすく育っている。
三条右京にある富士の尚侍邸では、二の宮悟志親王の躾は斎宮の女御と岩滝の女御が、神通力の使い方や禁忌は富士の尚侍が鉄拳付きで仕込んだ。お陰で健全に成長した二の宮は、自在に物の怪退治ができるようになった。
一般より遅い元服を終えた二の宮は、仕事をする上で親王の地位は邪魔だと、臣籍降下を願い出た。主上は唯一の弟に考え直すよう諭しながらも、二の宮の決意は固く、渋々臣籍降下を認めて、土御門姓を与えた。土御門悟志となった元二の宮は陰陽寮に入り、たちまち頭角を現して、陰陽頭まで上り詰めた。土御門悟志は人を使うことにも、人に教えることにも長けていて、陰陽師の質は飛躍的に向上した。いま、部下を使って、都だけでなく国中の魑魅魍魎問題に取り組んでいる。
富士の尚侍は、兄の長子が誕生したのを機に、杉の葉の娘を正式に養女として引き取り、二の宮のとき同様、異能の使い方を徹底的に躾けた。また、宮中の作法などは、2人の女御が教え込んだ。
一定年齢から、老いはほとんど止まる元天女の富士の尚侍は、化粧などで年相応に装ったが、それも限界がある。真名と名付けた養女が年頃になると、後宮女官として仕えさせた。そして着実に地位と信頼をつけたのを見計らって、富士の尚侍は病を理由に徐々に出仕を減らして内裏を去った。新たな尚侍を継いだ真名は、養母のような男装こそしなかったが、『仕事中』に限っては身軽な格好を、主上から許可をもらった。正統な帝が戻ったことで、内裏の怪異も極端に減ったので、真名が『仕事』する機会も少ない。ほとんどが本来の尚侍としての仕事であるデスクワークや、主上の御使いだ。
季節は本をめくるように過ぎていき、寿命を迎えて冷泉院、皇太后が崩御した。在原の内大臣、榊の大納言(富士姫実兄)、親世代は既にこの世を去っている。万能薬を飲んで若返った元左大臣こと太政大臣も。知っている顔が次々と去っていき、苦労して据えた帝も老いを感じて退位した。その後は一条院として仙洞御所へ移り、東宮に玉座を譲った。真の皇族の末裔だった一条院の血筋は、枝葉を広げた樫の木のように今も広がっている。
いつの間にか、三条右京の富士の尚侍の邸も消えていた。ここで育った土御門悟志も、真名の尚侍も、別の場所に自分の邸を建てて生活している。
3人の元天女は、普通の娘の格好で全国を巡り、悪さする物の怪を退治しながら旅を楽しんでいた。たまに青龍のタッチャンとその友達龍の背に乗って、うまい酒と料理を求めて世界の旅へ出ることもあった。
元天女の出番は、もうない。あとは残された人間界での時間を、人間界を満喫するだけのために費やすだけだ。それぐらいのご褒美をもらってもいいぐらい、3人は慣れない人間界で懸命に働いた。
それぞれが仕える神様も、大目に見てくださるだろう。
5.蛇足
「残務処理として、私らが天上界へ戻るときには悟志も連れて帰ってやらないと。普段は偉そうな態度なくせに、意外とあの子、寂しがり屋だから。地上に残して1人で山籠りなんてさせたら、泣いちゃいそう」
東雲こと斎宮の女御は、自身の生んだ息子のことも、ちゃんと考えていた。人間の皮を被った天女の息子も、一般人とは違う老い方をする。成長はある程度で止まって肉体の老化の進みがゆっくりとなり、寿命も倍以上となる。ましてや生みの母は、天女の中でも高位に属する大御神様付きなので、地上での寿命が尽きるのに千年ほどかかるかもしれない。
「1人で百年以上、知り合いが皆いない世界に置き去りにするのは可哀想よね。へそ曲がりなところもあるから、素直についてくるとは言わないだろうけど」
彩雲、岩滝の女御も同調する。
「だから安易に人間との間に子供を作るなと言ったのだ。こうなることは、分かっていただろうが」
富士姫は、斎宮の女御を非難する。
「大御神様の許可は頂いていたし、そのお陰で陰陽寮の体制はこれまでより整って、帝の警護力も上がったじゃない。国の修復も早まったのだから万々歳でしょ。それに悟志が嫌がって抵抗しても、立夏なら簡単にねじ伏せて、連れ帰ることができるから。友達の些細な頼みを断るなんてしないわよね?」
斎宮の女御こと東雲は、富士姫の両肩をガッシリ掴んだ。
「…天上界に連れ帰ったら、私があいつを指導する。それで構わないな?」
半人を完全な天人にするには、過酷な修行が待っている。だがそれをくぐり抜ければ、優秀な武官天人となるだろう。
「それ、いいわね。生まれながらの天人は、武官になるのを嫌がるものだから。神々の武官指名会のときの、天人の阿鼻叫喚を見るのが、いつも楽しみなのよ。立夏みたいに、自ら武官を志す変わり者の天女もいるけれど。大御神様が東雲に人間と子供を作るのを赦したのも、優秀な武官を増やす意図もあったりして」
岩滝の女御、天女彩雲は考察する。
「あら、だったらもう数人、皇子を作っても良かったのに」
「馬鹿か、おまえは。二の宮1人を躾けるのだって、こっちは相当気を使って、苦労したんだぞ!」
富士姫は当時を思い出して、顔をしかめる。
「あ。そうだったわね。人間界で半人とはいえ人間に、天人武官流の稽古つけたら、あっさり再起不能になっちゃうもんね」
斎宮の女御が、いま気付いたという顔をしたので、岩滝の女御と富士姫は呆れ果てた。
「だがまあ、人間界では力の制御だの他人に気を使ったりなど、鬱憤も溜まっていたからな。向こうに戻ったら、思う存分、遊ばせてもらうか」
富士姫は、木花之佐久夜毘売命親衛隊長は、ニヤリと笑った。
その瞬間、遠い都で陰陽頭の土御門悟志がブルリと悪寒を感じたのは言うまでもない。
帝の一の宮明輝親王は健やかに育ち、7歳を迎えた。今年の夏至前に、立太子の儀式が行われる予定だ。ここまでくるのに、様々なことが帝の周囲で起こっていた。
まず主上の祖父にあたる先々帝だった朱雀院が崩御した。この時代に還暦を過ぎても健在だったのは、すごいことだ。朱雀院の遺体は形式通り魂殿で安置されたあと、大和の地に陵が作られ、火葬された骨が納められた。
その間、斎宮の女御は女三の宮と女五の宮を連れて後宮を退き、一年間の喪に服した。だが、おとなしく邸で父宮の菩提を弔っているのかと思えば、そうではなく、三条右京の富士の尚侍本邸で好き勝手にノビノビ羽根を伸ばしていた。
それ以前に亡くなった河原院は、仙洞御所ごと燃えて、皇子皇女や妃たちも多く亡くなったため、誰の骨なのか、そもそも火勢が強すぎて、骨すらも残っていなかった者が多い。瓦礫から丹念に骨をかき集めても、行方不明者の数に到底骨の数が足りなかった。帝は伊予国の無人島の一つを陵とすることを定め、苦心してやっと集めた骨は金箔を貼った銅製の箱に収めて、瓦礫や土も孤島に運ばせて骨箱と共に穴に埋めて、その上から土を丘のように丸く盛り、陵を作った。
河原院跡地には暫くの間、鎮魂のため土地を休ませることになり、四季折々の花の種を蒔いて花畑とした。花が終わったあとは灰にして盆の時期に川へ流した。仙洞御所で暮らしていた人と思われる幽霊が、近辺でたびたび目撃されているが、彷徨っているだけなので、特に対策は講じられていない。見かけたら経文を唱える程度といったところか。
河原院全焼の日には、法要が行われている。亡くなった人々への鎮魂のために、主上をはじめとする公卿の方々が代参を立てて供物を供えた。
左大臣は引き続きその地位に留まっているが、立太子を見届けたら太政大臣になることが決まっている。位人臣の最高峰であるが、事実上の政から引退、相談役となる。
次の左大臣には、現在内大臣を務めている左大臣長男が内定している。父が若返りの薬を飲んでまだまだ元気なので、自分にはまだ早いと固辞したが、その父親から「新たな時代が間近に迫っているのに、古いものが残っているのは見苦しい。いい年して臆するな!」と逆に内大臣は怒られた。
問題は右大臣だった。元右大臣の出家で空席となった後は、在原の大納言を昇格させていたが、彼もまた高齢を理由に、新たな東宮誕生を機に引退を表明している。通例なら摂関家出身の藤原氏、あるいは大納言を務める臣籍降下した源氏が、妥当な線だ。
だが主上は榊の中納言を抜擢した。榊の中納言は右大臣に内定したことで、「引退する」「出家する」と、大騒ぎした。家に閉じこもって震えていた榊の中納言を、左大臣自らが訪ねて引きずり出し「秘密の一端を担っているのだから、逃さぬぞ」と脅しをかけた。泣き言はいうが、いざ仕事を任せればやれる男なのだ。確かに中級貴族がいきなり大臣までさせられたら恐慌状態になるのも同情に値するが、図太い娘(富士姫)を見習って、もう少し腹をくくってくれたらと思う。
内大臣は今のところ、空白になっている。左右大臣が揃っていれば、取り立てて必要と言うわけではないが、藤原氏のパワーバランスを考えると、旧右大臣家が台頭してきてほしいところだ。旧右大臣の長男が母の喪が明けた後、大納言に昇進すると、これまで以上に生真面目かつ有能な仕事ぶりを発揮した。彼も内大臣に引き上げてもいいのではという声も上がったが、先の主上及び一の宮暗殺計画に実弟が加担していたことから、今回は時期尚早と見送られた。だがそう遠くない時期に、東宮元服前には、旧右大臣家の大納言は昇格するだろう。これは暗殺計画血判書を、大納言が主上に提出した功績が大きい。
主上の皇子は、一の宮明輝親王ただ一人。皇子1人では心許無いと言われているが、生まれてくるのは姫宮ばかりなのは天の配剤であるから仕方がない。主上は富士姫に、「隠れ里からもう一人皇子を迎えることは出来ないか?」と尋ねたが、富士姫は「母親から我が子を引き離す苦悩の現場に立ち会うのは、もう、ゴメンだ」と断った。
そんななかで斎宮の女御が懐妊した。元天女は、人間と契ってはならないというルールがあるが、斎宮の女御は天女時代からそもそも色欲が強い。皇子一人では何かと主上の立場も微妙なのではと、斎宮の女御は大御神様に訴えかけて、特別に同衾が許された。そして、一の宮より4歳年下の二の宮悟志親王を生んだ。斎宮の女御は後見となる先々帝も既に無く、母の実家は宮家で後継者となる男子もいないので、体面的にも適任と言えた。斎宮の女御は、二の宮が物心付く前から「おまえは、一の宮お兄様の手足となって働くのが使命です」と、徹底的に教え込んだ。
そして明輝親王が生まれてから6年後の夏至間近(この時代の人間は満年齢ではなく数え年)、好天の空の下で、華々しく明輝親王の立太子式典が執り行われた。主上と中宮は、感慨深く掌中の珠として大事に育て上げた明輝親王がここまで成長したことに、感銘の涙を流していた。
式典最中、空から桜の花や桃の花が雨のように、降り注いだ。間違えなく天上の神々のご加護を賜った皇太子として、都中が感動した。
同じ頃、西の果てでは、勇ましい姿の富士姫(内裏での通り名は、富士の尚侍)が、弱ったこの国を征服せんと化物一行を引き連れた異国の呪術師と戦闘を繰り広げていた。
当初は若造風情がと、侮っていた呪術師たちは、船ごと巨大な海龍王に飲み込まれた。呪術師に操られていた化け物たちは、狼狽えて逃げ出そうとするも、富士の尚侍の神獣に一匹残らずバリバリ食われた。
「まったく、退屈しのぎにもなりゃしない」
青龍のタッチャンの背に乗って、次の怪異出現場所へ向かう。酒でも食らいながら、自邸でゴロゴロ自由気ままにしていたいところだが、一の宮が登極するまでは、この国の守りの結界は完全修復出来ない。それまではちまちまと、土木作業(結界修復)、害虫駆除(物の怪の類の退治)、愚痴聞き係(御霊と化した古の帝や東宮の話し相手)と、一つ一つは富士の尚侍にしてみれば大したことでないが、仕事数があまりに多いので、休息を取る暇もない。
「あー。早いとこ楽したい」
それが富士の尚侍の口癖だった。
2.布石
そして更に数年がたち、東宮は元服した。一の宮明輝親王は、母宮と暮らした弘徽殿を独立して、東宮御所となる昭陽舎へと移り住んだ。早速、麗景殿や淑景舎には左大臣(太政大臣長男)の姫や、内大臣(元右大臣長男)の娘が入内した。
東宮元服の数年前には、太政大臣の孫で、左大臣嫡男の藤枝の中将のもとへ女五の宮(斎宮の女御が育てた隠れ里出身の姫)が臣籍降嫁して、嫡子を生んでいる。年齢は8歳離れているが、神秘的な美しさと教養を持つ女五の宮を、夫である藤枝の中将は崇め奉らんばかりに惚れ込んでいるため、たびたび妻から「私は仏像ではありません!」と怒られていた。
昨年には女七の宮(岩滝の女御が育てた隠れ里出身の姫)が、内大臣の異母弟(元右大臣の息子)の、右大弁に嫁いでいる。まだ姫宮が年若いので懐妊は当分先かと思われたが、6歳年下の妻を盲愛する20歳の若者の情熱が実を結んだ。あまりに早い懐妊に、岩滝の女御が難解な漢文で右大弁に手紙を送った。苦労して訳して読めば、「ウチの娘に盛りすぎるな!」という抗議文だった。家族には大いに笑われて、種馬の右大弁という、変なあだ名がつけられた。今では大内裏にまで広まって、主上からも種馬の右大弁と呼ばれ、彼は赤面を隠せない。
この日、榊の衛門督は、駿河の国住まいの異母妹から送られてきた夏みかんを待って、三条右京にある実妹の邸に向かった。
「内裏で渡せば済むことなのに、わざわざ邸へ届けに行けとは母上も人使いが荒い」
実妹は仕事柄、主上から身軽な男装束を内裏での着用を許されている。背も兄の自分より高くて、凛々しい顔立ちをしているので、女性からモテモテだ。男性からは妬みの標的にされているが、そもそも結婚を神から禁じられているので男にモテるのは、女性人気が高いより厄介になりそうだ。
「俺は恋愛や結婚も禁じられていないんだけどな」
言ってて虚しくなるだけだが、本当にモテないのが悩みの種だ。父は嫌がりながらも右大臣、妹は尚侍だが、真面目過ぎて付き合いづらいと同僚からも言われる衛門督は、年齢からしたら少なくとも権中納言あたりになっていてもいいはずだ。だが会話が噛み合わない、面白くないという理由で、人から敬遠されていた。
「富士姫や桜姫とは話が噛み合うんだけどな」
衛門督は、自分が聞き上手であって、話上手でないことに気づいていないのが、そもそもの欠点だった。
邸に着くと、案の定、妹は留守だった。では帰ろうと土産を預けて立ち去ろうとしたしたとき、視界が暗転した。
気がつくと妹の邸の寝所で寝かされていた。顔の汗を拭ってくれていた女房の美しさに、心臓が爆音を立てる。
「顔色がよろしくないので、まだ横になっていてください。尚侍様も、まもなくいらっしゃいますので」
衛門督はぼんやりと天井を、見つめながら、そういえば明け方まで書類の作成をしていて、ここ数日ろくに寝ていなかったのを思い出した。
「内裏の仕事は真面目にやっても終わりがないから、適当なところで終わらせる線引きをしないとな。僕、いや私も若い頃はよく頑張りすぎたものだ」
唐菓子をバリバリ食べ、お茶で口を潤しながら指摘するのは、主上の腹心たる在原の右大将だ。何でこんところで、自邸みたいに寛いているのだろうか。
「あ、倒れた兄さんを運んだのは僕だから、感謝してね」
在原の右大将って、こんな軽い人だっけと、衛門督は回らない頭で考える。清涼殿で見かけるときは、風格のある憧れの方だったが。それともこれも、頭の打ち所が悪かったせいだろうか。
「うーん、大丈夫かなぁ。早く富士姫、帰ってきてくれるといいけど。杉の葉ちゃん、なんかいい薬ある?」
「尚侍様の指示なしで、薬湯をお与えするのは禁じられていますから。それより右大将様、主上のお使いでこちらへ参られたのに、こんなところで油を売っていて良いのですか?」
「主上から、書簡の返事は僕が持ち帰るよう厳命されているの。ここは我が家みたいに居心地いいし、骨休みには丁度いいんだよね」
無邪気に振る舞う在原の右大将は、富士姫との付き合いが長すぎて、変な曲がり方をしてしまったのだろうか。いや、でもここ最近の右大将は主上の傍らで、寝る間もないほど働いておられる。年も年だし、寝不足で在原の右大将も少々お疲れが溜まっているのもかもしれない。
「あの、右大将様。わざわざ運び込んでくださって、ありがとうございました。右大将様もこのところ、たいそうお疲れなのでは。私の心配などせずに、どうぞ僅かな間でも仮眠を取ってください」
衛門督が言うと、在原の右大将は笑いながら、横たわる富士姫の兄の腕を衾ごしに軽く叩く。
「本当に、あの富士姫のお兄さんとは思えないほど、気遣いが心細かい。大丈夫、見た目は年寄でも、君より元気だから。君も要領よく立ち回らないと、過労で潰れてしまうよ。心配してくれる奥方はいないのかい?僕は妻がよく出来た人だから、倒れる前に寝かされて、滋養のあるものを沢山食べさせてもらっているんだ~」
「右大将様、あなた様のような身分の方が傍らに居られると、衛門督様も休むに休めません。少し離れていただけませんか?」
杉の葉という女房が注意すると「じゃ、あちらで姫君と遊んでこよう」と、在原の右大将は席を外した。その後ろ姿を見ながら、身分も年齢も満たしているのだから、右大臣には気弱な父よりも、あの方の方が適任だったのではと思う。
「心配してくれて、ありがとう。それより、こちらには幼い姫君がいるのだね。どちらの姫なのだろうか。まさか在原の右大将様と、妹の間の子じゃないよね?」
衛門督は横になったまま、少し離れた場所で、幼い姫君を「高い高い」と持ち上げて遊んでいた。服装がよく、髪もよく手入れされた可愛らしい姫だ。年齢的に、妹も子を生むのはこれから難しくなっていくだろうが、富士の女神から誕生当初に命じられた「結婚は禁じる」という契約を破ったのだろうか。天罰が下らなければいいが。確かに在原の右大将とは長い付き合いで、年齢は一回り以上離れているが、女神の約束がなければ、これほど釣り合いの取れた夫婦もいないかもしれない。女人として生まれて、好きな人ができても結婚もできず、子もなせず、ただ国を守るために必死に働く妹が哀れだ。
衛門督が在原の右大将の子守を眺めながら悶々と考えている中で、美人すぎる女房は、衛門督を凝視する。
「どうやら、右大将様の言う通り、衛門督様は生真面目すぎるようですね。公私において他者へ気を回しすぎです。それと他人から押し付けられた仕事までこなすなど、人が良すぎますわ。その人の為にもなりませんし、貴方様も倒れてしまっては元も子もありません。打ちどころが悪かったり、人目につかないところで倒れたら、手遅れになる可能性もあるのですよ!」
美貌の女房は叱りつける。まるで見てきたみたいに知っているのだな。だがあの妹に仕えているなら、不思議でもなんでもない。
「つい、妹のことを考えていた。あの姫は右大将様と妹のー」
「そんなわけあるか、妄想根暗兄が!」
大池にせり出した廂の間から、青龍のタッチャンに乗って帰ってきた富士の尚侍は、兄の横に立つなり、仁王立ちで見下ろす。烏帽子をつけず、髪を髷でなく三つ編みにして背に垂らした妹は菖蒲模様の狩衣を着ている。凛々しい顔立ちといい、どこからみても女人らしさが欠片もない。
「あの姫は、とある事情があって、この杉の葉ともども引き取ったのだ。ちなみにあの子の母は杉の葉だぞ、私の子供であるはずがない」
「だよね~。尚侍の子供なら、姫でももっと男らしい顔のー痛っ!」
富士の尚侍の帰宅で、あやしていた姫を抱き上げながら傍らに来た在原の右大将は、富士の尚侍に回し蹴りで尻を叩かれていた。
それを見た衛門督は、やっぱ夫婦よりも男友達にしか見えないなと頭の中で修正した。
「今は一の宮様の元服によって、内裏の整備や、太政官の臨時の除目を控えて目の回る忙しさだが、相変わらず要領が悪いな。そんなんで、春宮大夫兼参議に昇進させるのは、やはり心配なんだよな。主上の要請と、太政大臣を通じた左大臣からの推薦で、まず覆ることはことないと思うが」
「嫌だー!」
衛門督は半身を起こして叫んだが、具合の悪い中で叫んだら、すぐに倒れてしまった。
「仕方ない兄だ」
富士の尚侍は帯にぶら下げた瓢箪の栓を抜いて、身をかがめる。衛門督の青い顔でブンブン顔を横に振り、ますます顔色が悪くなる。
「安心しろ、これは酒ではなく万能薬だ。下戸に酒を飲ませるような勿体無いことするはずないだろう」
富士の尚侍は、兄を抱き起こして瓢箪の飲み口に口を当てて飲ませる。躊躇いがちに嚥下したそれは、上等な緑茶の味がした。衛門督が半分ほど飲むと、富士の尚侍は瓢箪の飲み口を兄の口元から離して、袖で飲み口を拭いてから栓をした。
薬とは思えないほど甘露の茶の味をもう少し味わいたくて、思わず衛門督は「ああ」と残念がって呟いた。それにしても、がさつな妹ながら、手持ちの薬は常に効力が凄い。あれほど気だるかった体が、嘘のように軽くなった。
その様子を富士の尚侍は、顎に手を当てて、しばし凝視する。それから杉の葉を振り返る。
「杉の葉。そなたには過酷な役割だと思うが、仮面夫婦でもよいから、この愚兄の妻になってもらえないか?」
妹の突飛な提案に、衛門督だけでなく在原の右大将も目を剥いた。だが杉の葉は動揺もなく「かしこまりた」と、まるで近くへ遣いを命じられて同意するのと同じ感覚で応じた。
「いやいや、何言ってるんだ!こんな美しい娘さんに、うだつの上がらない俺、いや私など、ましてや、ついさっき知り合ったばかりだぞ?」
衛門督は真っ赤になって動じるが、杉の葉は怪訝な顔をする。
「私のような未亡人ではご不満ですか?」
「そうじゃなくて!私が君に相応しくないないとー」
「不器用者の兄には、これぐらいしっかりした妻がいた方がいい。そのために相応しい女人を、探していたのだから」
富士の尚侍は事も無げに言う。
なるほど、だから事情を知っていた杉の葉は動じなかったのかと、衛門督は胸がチクリと痛んだ。
「子連れの未亡人を妻に迎えるのは、衛門督様も抵抗があるかと充分存じ上げておりますが、実際に対面して、この方は私でなければ、いつどこで倒れていてもおかしくないでしょう。衛門督様のお世話と躾、腕が鳴りますわ」
杉の葉のやる気満々の姿に、衛門督は別の不安を覚えた。姿形はたおやかな美女だが、なんとなく妹と同じ気質の匂いがするのは気のせいだろうか?
「この場に居てくれて、丁度良かった。右大将、この杉の葉を隠し子認知してくれ」
「えー。僕の奥さんがよくできた恐妻なの、富士姫も良く知ってるじゃないか!」
「おぬし自慢の顔が腫れ上がる前に、奥方には説明しといてやる。時代が変われば、新たな大臣だ。今回はその布石となるべく、臨時の除目で大将に大納言を兼任とすることになった。大納言昇進話をすれば、奥方もたちまち上機嫌になるだろう」
「それ、僕はまったく全く知らないんだけど!青天の霹靂なんだけど!ていうか、いずれ大臣って、なに恐ろしいこと言ってくれちゃってるわけ?」
「東宮様の御代となったら、新たな人員改革が始まる。父の右大臣も、いい加減、身分不相応な重責から解放してやりたいからな」
富士の尚侍の言葉に、姫をおろした在原の右大将はうんこ座りになって頭を抱えた。
衛門督も心なしか青ざめている。次の除目で春宮大夫と参議に昇進内定。東宮様の御代となったら、大臣はなくても中納言ぐらい押し付けられそうだ。でなけば、杉の葉のような優秀な人材を、妹が愚兄の妻に指名するはずがない。
「…妹よ。まさか主上が退位したと同時に、尚侍を辞すなんてことしないよな?」
衛門督は、これ以上ないほど真剣な顔で尋ねる。内裏に富士姫が居るか居ないかで、衛門督の未来は左右される。
「仕方がないが、当分は内裏も荒れるだろうし、私が重石になるしかないだろうな」
富士の尚侍は心底から嫌そうな顔をして言った。
富士の尚侍は在原の右大将の奥方に、まず大納言昇進の話で喜ばせてから、どこまで嘘か本当なのか、杉の葉親子の波乱に満ちた人生を語った。尚侍の兄が妻と望んでも今の立場では側室どころか妾にしかなれないと嘆いて、在原の奥方の同情を買う。そして、もし奥方さえ承諾してくれたなら、右大将の隠し子だったという血筋の偽装で、正室まで引き上げることも可能なのことを、根気よく説明した。奥方は快諾し、夫の隠し子を自身の養女とすれば嫡子扱いとなって、更に障害は薄くなると提案した。こうして、杉の葉は在原の右大将の隠し子となり、正室の養女となって衛門督の妻となった。
当初、榊の右大臣は息子が未亡人子連れとはいえ、在原の右大将の娘御を妻にすると言ったときには仰天した。娘の富士の尚侍は結婚を禁じられているが、妻の一人も見つけられない、要領の悪い息子の結婚も、半ば諦めていた。駿河の御方も「私たちは、分不相応な地位で運を使い果たしたのと引き換えに、子供の血は後世まで続かないのね」と嘆いていた。
だから息子の結婚には、諸手を上げて賛成した。未亡人という立場から、結婚は内輪で行うことにしたが、蓋を開ければ儀礼に則った婚儀で、三日目の夜の露顕では、在原の右大将邸で大規模な祝宴が催された。
付け加えると、衛門督夫婦は仮面夫婦ではなく、のちに連れ子の他にも、二男三女をもうけた。
連れ子はのちに、富士の尚侍の養女となり、女官教育と物の怪の退治方法、神獣の使役の仕方を叩き込まれた。
そう、杉の葉母娘は、陸奥の大和皇子の隠れ里から連れてきた、大和皇子の末裔だった。杉の葉の娘の深層に巨大な神通力が眠っているのに気付いた富士の尚侍は、娘はいずれ自らの養女に、母親は愚兄の正室に迎えたいと願い出て、村長に受理された。連れ子のいる未亡人は、隠れ里でも暮らしにくい環境だったので、杉の葉もこの提案に飛びついた。
そして、臨時の除目で在原の右大将は大納言を兼任し、富士の尚侍の愚兄は参議と春宮大夫を兼ねることになった。新時代の布石は、着々と進んでいた。
3.皇位のとりかえばや物語
東宮が11歳で元服した4年後、東宮に皇子が生まれたのを機に、主上は退位を表明して冷泉院となった。そして東宮一の宮明輝親王が新帝として登極した。若き帝が玉座に座ると、空から紫宸殿を覆い尽くすような一条の光の柱が差し込んだ。その光はやがて薄まりながらも大内裏を、都を、ひいては国を覆った。異能の力の持ち主ならば、ひび割れた結界が継ぎ目なく修復されていく音が聞こえただろう。こうして長く簒奪者の血筋と、影の皇族藤原氏の血筋で紡がれた偽りの時代は終わり、正統な帝の時代が戻ったのだった。
新帝には既に2人の親王が、それぞれ藤原氏系統の女御から生まれている。新帝誕生に伴い、既に公卿や宮家から多くの妃の入内が決まっている。
旧帝の冷泉院は、皇太后となった元弘徽殿の中宮と、元梅壺の女御と共に仙洞御所へ移った。しかし、斎宮の女御と岩滝の女御は仙洞御所への移住を丁重に断り、三条右京にある富士の尚侍邸で暮らすこととなった。
斎宮の女御は、養女である女三の宮も既に嫁がせていた。内親王は結婚しないのが通例だが、財産のある公卿の娘ならともかく、先々帝の孫娘という肩書では、いざというとき心許無いとというのが表向きの持論だった。女三の宮は、兵部卿の宮の息子で、源氏姓を賜った中納言の正室となり、今では子供達にも恵まれて幸せに暮らしている。蛇足だが、幼少期に鞭で打たれた跡は、斎宮の女御が裳着を迎えるまでに、時間をかけてゆっくり傷を消した。いきなり消すと周囲から怪しまれるので、成長と共に薬の効果も出たという穏便な形を取ったのである。
斎宮の女御と岩滝の女御は、正統な血統を裏皇族の藤原氏に新たに入れる使命を担って、女五の宮と女七の宮を藤原氏大臣家の嫡子に嫁がせた。従って不遇な幼少期を過ごした女三の宮を手放す必要はなかったが、それは女御が完全な人間だった場合の話。2人の女御は天女の転生体であり、ゆっくり年をとり、寿命も一般人の数倍ある。怪しまれないため、いずれ時期を見計らって身を隠さなくてはならない。そのとき、女三の宮を一人ぼっちにするわけにはいかなかったのだ。
いま、手元に残っているのは斎宮の女御が生んだ二の宮悟志親王のみ。その子も翌年には元服が可能な年齢に達するが、大人になる前に、まずやらねばならないことがある。異能の制御方法だ。そのために斎宮の女御と岩滝の女御は、富士の尚侍邸へ移ったのだ。
「二の宮の異能は、東雲の天女体質譲りかしら?」
岩滝の女御は、天女時代の斎宮の女御の名前を言った。ここでは周囲に気兼ねなく話すことができる。
「制御を徹底させるのが、最大の難関ね。最初に使ったときは2歳か3歳だっけ?」
「そ~なのよ。あの時は、たまたま宿下がりしてて、内裏は、影響なかったけど。その後は立夏が力を封印してくれてたけど、せっかくの力を有効活用させないのも勿体ないし」
相変わらず危機感に欠けた斎宮の女御の物言いに、岩滝の女御は気が抜けるというか、物足りないと言うか。やはり論争は富士の尚侍こと立夏とするのが一番楽しい。
「それを見越して、大御神様から子作り許可が出たのかも。私らが地上で使える異能は、せいぜい簡単な物の怪を追っ払う程度だもんね」
「暫くは地上の結界修復、大地の沈静化に時間がかかるだろうから。私らは、ここであと百年以上は見守っていくことになるけれど」
早く天上界へ戻りたいと、岩滝の女御はため息をつく。
「あら、私達にとっての百年なんて、季節が一つ過ぎる程度のものじゃない。それに一人なら寂しいけれど、私、彩雲、立夏がいれば楽しいと思うわ。ほとぼり冷めたら、諸国漫遊してもいいのだし」
「ああ、それは楽しそうね。少なくとも主上、じゃなくて仙洞御所様か、彼が存命中は大人しく都に留まっているしかないけど」
「内裏の狭い世界に閉じ込められているよりマシよ。それよりさ、あそこの戸棚がずっと気になっているのよね」
斎宮の女御は、葡萄の螺鈿細工が施された漆塗りの戸棚を指差す。殺風景な寝殿母屋に、何故か同じ作り同じ大きさの戸棚が3つ並んでいた。
「面白い異国の書物が入っていたら、借りて読むわ」
岩滝の女御は、膝立ちで戸棚に近寄る。
「私は違うものだと思っているわ。この戸棚の形状と、大きさからしてね」
斎宮の女御も、友の隣に来る。開けてみると、そこには異国の酒が詰まっていた。3つとも、部屋の装飾品に見せかけたワインセラーだった。
「あいつ。こんなに酒を集めて1人で飲んでたのね!」
岩滝の女御は立腹する。酒好きな天女は多いというか、天女は酒飲みと思っても過言ではない。
「今までみたことない、美味しそうなのばかりじゃない。仕方ないわよ、立夏は諸国を飛び回って仕事しているのだし、息抜きぐらいは許してあげないと」
「まあね。そもそも内裏で、こんな異国の酒を飲むわけにもいかないし」
別の戸棚には、異国の玻璃細工の様々な杯が整然と並んでいた。使用のためというより、コレクションのようだ。
2人の女御は、気に入った玻璃細工のグラスに葡萄酒を注いで飲む。
「うまい!」
「あら、これは癖になる味ね。天上界でも手に入るかしら?」
「伝手を使って探せばいいわ、あちらに戻ってから。まずはここにある酒を飲めるだけ試飲しましょう!」
…そして仕事から戻った富士の尚侍は、秘蔵の酒が飲み尽くされ、高いびきを掻いて大の字になって寝ている2人の天女を冷ややかに見下ろした。
「馬鹿だな、人間界の酒は慣れるまで悪酔いしやすいのに。まあ翌日、せいぜい苦しめ」
富士の尚侍は空き瓶を消し、新たな酒を空中収納から取り出して、ワインセラーいっぱいに補充した。
使われた玻璃細工のグラスは、手に掲げ持って凝視する。
「他人の使ったグラスを、コレクションに戻すのはな。ここのモノは、東雲と彩雲用にして、別の場所で新たに蒐集するか。時間はたっぷりあるんだ」
富士の尚侍は、女房を呼んで、グラスを洗って戸棚に片付けるよう命じた。
そして活発な二の宮がどこにいるか探しに行くと、彼もまた神獣と遊び疲れて、渡殿の中央で、電子切れの人形ののように、獅子の背中に寄りかかって眠り込んでいた。
4.その後の話
正統な帝に戻したことで、国は安定した。養父の冷泉院の子供は姫宮ばかりだったが、主上は妃の数が父院と変わらないにも関わらす、十男八女の子を儲けた。皆、病気一つなく、すくすく育っている。
三条右京にある富士の尚侍邸では、二の宮悟志親王の躾は斎宮の女御と岩滝の女御が、神通力の使い方や禁忌は富士の尚侍が鉄拳付きで仕込んだ。お陰で健全に成長した二の宮は、自在に物の怪退治ができるようになった。
一般より遅い元服を終えた二の宮は、仕事をする上で親王の地位は邪魔だと、臣籍降下を願い出た。主上は唯一の弟に考え直すよう諭しながらも、二の宮の決意は固く、渋々臣籍降下を認めて、土御門姓を与えた。土御門悟志となった元二の宮は陰陽寮に入り、たちまち頭角を現して、陰陽頭まで上り詰めた。土御門悟志は人を使うことにも、人に教えることにも長けていて、陰陽師の質は飛躍的に向上した。いま、部下を使って、都だけでなく国中の魑魅魍魎問題に取り組んでいる。
富士の尚侍は、兄の長子が誕生したのを機に、杉の葉の娘を正式に養女として引き取り、二の宮のとき同様、異能の使い方を徹底的に躾けた。また、宮中の作法などは、2人の女御が教え込んだ。
一定年齢から、老いはほとんど止まる元天女の富士の尚侍は、化粧などで年相応に装ったが、それも限界がある。真名と名付けた養女が年頃になると、後宮女官として仕えさせた。そして着実に地位と信頼をつけたのを見計らって、富士の尚侍は病を理由に徐々に出仕を減らして内裏を去った。新たな尚侍を継いだ真名は、養母のような男装こそしなかったが、『仕事中』に限っては身軽な格好を、主上から許可をもらった。正統な帝が戻ったことで、内裏の怪異も極端に減ったので、真名が『仕事』する機会も少ない。ほとんどが本来の尚侍としての仕事であるデスクワークや、主上の御使いだ。
季節は本をめくるように過ぎていき、寿命を迎えて冷泉院、皇太后が崩御した。在原の内大臣、榊の大納言(富士姫実兄)、親世代は既にこの世を去っている。万能薬を飲んで若返った元左大臣こと太政大臣も。知っている顔が次々と去っていき、苦労して据えた帝も老いを感じて退位した。その後は一条院として仙洞御所へ移り、東宮に玉座を譲った。真の皇族の末裔だった一条院の血筋は、枝葉を広げた樫の木のように今も広がっている。
いつの間にか、三条右京の富士の尚侍の邸も消えていた。ここで育った土御門悟志も、真名の尚侍も、別の場所に自分の邸を建てて生活している。
3人の元天女は、普通の娘の格好で全国を巡り、悪さする物の怪を退治しながら旅を楽しんでいた。たまに青龍のタッチャンとその友達龍の背に乗って、うまい酒と料理を求めて世界の旅へ出ることもあった。
元天女の出番は、もうない。あとは残された人間界での時間を、人間界を満喫するだけのために費やすだけだ。それぐらいのご褒美をもらってもいいぐらい、3人は慣れない人間界で懸命に働いた。
それぞれが仕える神様も、大目に見てくださるだろう。
5.蛇足
「残務処理として、私らが天上界へ戻るときには悟志も連れて帰ってやらないと。普段は偉そうな態度なくせに、意外とあの子、寂しがり屋だから。地上に残して1人で山籠りなんてさせたら、泣いちゃいそう」
東雲こと斎宮の女御は、自身の生んだ息子のことも、ちゃんと考えていた。人間の皮を被った天女の息子も、一般人とは違う老い方をする。成長はある程度で止まって肉体の老化の進みがゆっくりとなり、寿命も倍以上となる。ましてや生みの母は、天女の中でも高位に属する大御神様付きなので、地上での寿命が尽きるのに千年ほどかかるかもしれない。
「1人で百年以上、知り合いが皆いない世界に置き去りにするのは可哀想よね。へそ曲がりなところもあるから、素直についてくるとは言わないだろうけど」
彩雲、岩滝の女御も同調する。
「だから安易に人間との間に子供を作るなと言ったのだ。こうなることは、分かっていただろうが」
富士姫は、斎宮の女御を非難する。
「大御神様の許可は頂いていたし、そのお陰で陰陽寮の体制はこれまでより整って、帝の警護力も上がったじゃない。国の修復も早まったのだから万々歳でしょ。それに悟志が嫌がって抵抗しても、立夏なら簡単にねじ伏せて、連れ帰ることができるから。友達の些細な頼みを断るなんてしないわよね?」
斎宮の女御こと東雲は、富士姫の両肩をガッシリ掴んだ。
「…天上界に連れ帰ったら、私があいつを指導する。それで構わないな?」
半人を完全な天人にするには、過酷な修行が待っている。だがそれをくぐり抜ければ、優秀な武官天人となるだろう。
「それ、いいわね。生まれながらの天人は、武官になるのを嫌がるものだから。神々の武官指名会のときの、天人の阿鼻叫喚を見るのが、いつも楽しみなのよ。立夏みたいに、自ら武官を志す変わり者の天女もいるけれど。大御神様が東雲に人間と子供を作るのを赦したのも、優秀な武官を増やす意図もあったりして」
岩滝の女御、天女彩雲は考察する。
「あら、だったらもう数人、皇子を作っても良かったのに」
「馬鹿か、おまえは。二の宮1人を躾けるのだって、こっちは相当気を使って、苦労したんだぞ!」
富士姫は当時を思い出して、顔をしかめる。
「あ。そうだったわね。人間界で半人とはいえ人間に、天人武官流の稽古つけたら、あっさり再起不能になっちゃうもんね」
斎宮の女御が、いま気付いたという顔をしたので、岩滝の女御と富士姫は呆れ果てた。
「だがまあ、人間界では力の制御だの他人に気を使ったりなど、鬱憤も溜まっていたからな。向こうに戻ったら、思う存分、遊ばせてもらうか」
富士姫は、木花之佐久夜毘売命親衛隊長は、ニヤリと笑った。
その瞬間、遠い都で陰陽頭の土御門悟志がブルリと悪寒を感じたのは言うまでもない。
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