8 / 14
第八章 下限の月①
月下美人
しおりを挟む
1.当時の記録
今は分からないが、膵臓がんは当時、手術しても延命の可能性が低い病気だった。発見がしづらい場所にあるのも原因である。
父の場合はたまたま、食事制限しても血糖値の異常値を叩き出すため、相性の悪い内分泌医師に相談し、初期の段階で膵臓がんの可能性に気づいた。
他に何か道はなかったのかと、今でも考える。父は膵臓がん手術を希望した。だが透析の壁が立ちはだかった。それでも食らいついて、片っ端から病院を当たれば良かったのだろうか?
しかし父の体はガンではない病が原因で、どんどん衰えていた。それでも生きたいと、父は願った。最期に父は、それでも「生きたい」と願っただろうか?
それを知る術はない。しかし、ただ生きているだけで、食事が出来なくなってチューブから栄養剤を流し込まれ、療養型病院のベッドに拘束され、楽しみだった読書さえ奪われた父は「生きたい」よりも、「死にたい」と願っていたのではあるまいか。
私は決断を誤った。たとえ数日の命となっても、透析をやめて自宅で最期を迎えさせるべきだった。親友は「それは余計にお父さんを苦しめただろうから、療養型病院へ入れたのは正解だよ」と慰めてくれた。そうかも知れない。
だが、のたうち回って苦しんでも、愛した自宅で家族や盲愛していた愛犬に看取られ、この世を去ったほうが幸せだったと、私には思えてならないのだ。
日記代わりのスケジュール帳は空白が増えていく。翌年から日記代わりのスケジュール帳はやめて、通院用のスケジュール帳のみにした。カレンダーも必要事項だけ書いていたので、「これは何処の病院のことだろうか?」と、頭を捻る。それだけ家族の通院と入院の度合いが一気に増した。
また、毎日書くものが沢山ありすぎた。両親の朝昼晩の血糖測定値は、以前から糖尿病外来のための専用ノートが病院から配布されていたので、記載してきた。
加えて父の透析クリニックへ毎回提出する食事内容、血糖値、体重、血圧、通院内容と自宅での過ごし方。
更に両親のデイサービスが始まり、こちらも家での事柄や通院内容を書き記す必要があった。
このときの通信ノートや血糖測定ノートは、家族が亡くなった時に、全てシュレッダーにかけて処分した。特に通信ノートの内容は、通院ごとに絶望の底に叩きつけられた両親の悲鳴のような文章で綴られていた。
辛い思いしてきた両親の実況記録を残しておくのは、当時の私には耐えられなかった。そしてその記録が鎖となって両親を縛り付け、天国へ行っても足枷になるかのように思えたのだ。
何となく、親は私に元気だった頃の姿のみを記憶に留めて欲しいと願っているように感じる。
それでも手帳と毎年のカレンダーを残しておいたのは、気持ちが落ち着いたら、自分用に家族記録としてまとめようという思いがあったからだ。本当は家族それぞれ纏めていく予定だったが、母の心の崩壊は、父と兄のことを語らねば、成立しない。
勝ち気だか繊細だった母は、アルツハイマー病の発症と共に、父と兄の体調悪化で脳の誤作動を起こすようになった。徘徊も始まりだす。それも父と兄の病状が急変した時に限ってだ。自分自身の体も悪化していき、辛いを思いをしていたはずなのに、自身の絶望的状況よりも、父と兄が苦しむ方が心身にこたえたようだ。
それだけ母は、家族を愛していた。普段は父や兄への悪態ばかりついて、決して本心は口には出さなかったけれども。
母ほど愛情深い人はいなかった。
2.崩壊の音
5月17日、新宿の消化器病院に兄は入院した。
肝硬変は食道胃静脈瘤ができやすくなる。これが破裂すると吐血や、以前私のかかりつけ医の言った通り、天井まで血が噴き上がる。それを防ぐため、名医は内視鏡で手術することにしたのだ。これまでの通院検査はそのためだった。
このときの医師との面談内容がスケジュール帳巻末に残されていた。
①アミノ酸が通常の3分1のため、怒りっぽい。アンモニアが脳と体に溜まりやすい。
②胃だけでなく食道にも静脈瘤。
③腸の血管が肝臓ではなく骨盤に行く。アンモニアが全身に回る、アンモニア解毒にアミノ酸を使い切る。
④肝臓ランクはAが6点、Bが9点、Cが11点、Dが最悪の15点。兄はCランクの11点だと言われた。
5月20日、新宿の消化器病院へ、母と共に兄の面会。地元の大学病院より狭い病室だが、看護師が優しいのもあって、兄の機嫌は良かった。共同で使う大きな冷蔵庫を無料で使える。ただし皆で使うものなので、冷蔵庫にぶら下がった油性マジックで名前を書く必要があった。
5月25日、天敵先生クリニックを母が定期受診。
5月29日、都内の大学病院膠原病内科と呼吸器内科を、母が予約受診。
5月30日、地元の大学病院で、父が造影剤CT検査。
6月1日、新宿消化器病院の説明室で、名医と面談。名医は「手術は成功しました。これで5年以上は長生きできますよ」と言った。私はホッとした。退院日程も決めた。兄の病室へ行き、着替えを交換する。もっともこの病院の入院患者は、寝巻きとタオルはレンタルで統一されているため、持っていくのも持ち帰るのも下着と靴下のみだ。あとは途中で購入した差し入れの水。テレビカード代。
6月4日、糖尿病クリニックを父が受診。
6月5日、新宿の消化器病院を兄が退院。翌日にはレンタル料金支払い書が届く。
6月25日、天敵先生クリニックを母が定期受診。
6月30日、親友と静岡に遠征して、羽生結弦選手を含むフィギュアスケーターのアイスショーを観に行った。このとき羽生結弦選手以外にも、ファンだった往年のスターや、好きなアーティストの生歌に合わせて演技するフィギュアスケーターの演技が見れた。まさに夢の競演。
夢見心地で帰路の新幹線を待っているとき、兄の主治医からスマホに電話があった。受診予約した日が都合悪くなったので、別日にしてほしいということのだった。
夢から引きずり戻された。必要な連絡だったけど。
7月2日、糖尿病クリニックを父が受診。色々と注意を受けたことがメモされているが、詳細までは書いていない。厳しい医師ではあるが、コンピューターを使っての過去のデータとの比較などと合わせて、説明は分かりやすかった。
7月5日、地元の大学病院に父が検査入院。その前に透析クリニックで透析を受けて、事前に頼んでおいた紹介状を受け取って、タクシーで病院へ向かった。
7月6日、地元の大学病院で、父に関する医師の説明。詳細は書かれていない。
7月7日、地元の大学病院を父が退院。透析を受けた後の退院だったと思う。
7月11日、地元の大学病院消化器内科を、父が予約受診。透析クリニックで、透析日を19日から18日に変えてもらう。
7月18日、透析クリニックの送迎がないので、タクシーで往復父を送り届ける。障害者1級なのでタクシー券が出るため、助かった。
7月19日、地元の大学病院消化器外科を、父が初受診。膵臓がん手術を見据えて、消化器内科から消化器外科へ回されたのだ。
ふと、頭をよぎった。以前、大規模なお通夜をした生前の近所の人を、たまたまこの病院で見たことがある。私は話したことがないし、両親は苦手としていたため、父は先に気づいたが声もかけなかった。行動的で様々な場所で活躍していた人だったが、見る影もないほど窶れていた。近所の人から聞いた話だが、膵臓がん手術をしたらしかった。
父が糖尿病になったのも、原因は恐らく酒だろう。若い頃は肥満気味で会社の健康診断から毎年指導が出ていた。しかし犬を飼うようになってから、見る見る体重が落ちて適正体重となった。だが酒は、決して強くないにも関わらず大好きだった。甘口だけは駄目だったが。マイルールで、ビールは缶一本、日本酒は2合までと決めていた。
若いときから何度も「休肝日を作るぞ!」と、健康診断指導が入るたびに言っていたが、酒がないと不機嫌なる。それが煩わしくて、その都度、母が休肝日を撤回していき、父もそれに乗じてしまった。
兄のアルコール依存性に気づくのが遅れたのは、兄はどれだけ酒を飲んでも顔に出ないタイプだった。しかも好きなのは、甘口なジュースのよう缶チューハイで、臭いが分かりづらかった。
父のように酔うと立てないほどベロベロになって嘔吐するぐらい弱ければ、もっと早く気付けただろう。だが気づいたところで、依存性になったら手遅れだ。病院に行っても治らない。
私が通う精神科クリニックの主治医が、アルコール依存性を敵視する気持ちがよく分かった。アルコール外来の待合室で、「今度は何処に飲みに行きましょうか?」との会話をたびたび耳にしていた。恐らく入院中に知り合った仲魔だろう。
入院処置しても、外来に通って薬を処方されても、当人の強い意志がなければ寛解に持ち込めないのだ。
兄は働いて自由になる金が稼げないストレスから、断酒が出来なかった。私が金を渡さずとも、母が自分の年金から小遣いを渡していたので無駄だった。兄は本を買いに行くと言っては、酒を買って、店の前で飲んでいたのだ。家だと証拠が残るために。だが近所の人から私の耳に入るし、意識して嗅覚を向ければアルコールの臭いで分かった。やめろと言うと暴れ出す。手がつけられなかった。
7月20日、都内の大学病院内分泌内科を、母が予約受診。このとき軽い熱中症に母はかかっていた。もっと風通しのよいものを着せようとしたのに、お気に入りの薄手の長袖ブラウスを着ると母が譲らなかったと記入されている。
あのときは、手持ちの瞬間冷却剤(拳で叩くことで冷たくなる)で首を冷やし、持ってきた凍ったペットボトルを腕の両脇に挟み(1本は帰路の冷却用に保冷袋に入れていた)、自動販売機でスポーツドリンクを買ってきて飲ませ、診察が始まる頃には症状が治まった。あのとき、瞬間冷却剤を強く叩いたことで、周囲の患者さんから驚いた顔で注目された記憶がある。癇癪を起こしたわけではないと、気づいてくれていたらいいのだが。
7月23日、新宿の消化器病院、兄の予約受診。暑さのせいなのか、会話が噛み合わないことがあり、鼻血がでやすいことを告げると、名医は神経内科へ診察を依頼する。
神経内科で、てんかんを調べてもらうが、詳しくは地元の大学病院脳神経外科に相談するよう言われた。
7月24日、都内の大学病院泌尿器科、母の予約受診。
検査のために早く出るつもりが、父が低血糖を起こしたため、透析クリニック送迎が来る前にブドウ糖を食べさせて処置。予定のバスに乗り遅れたため、タクシーを呼んで母と駅に向かう。
この日は膀胱内視鏡検査。多少の炎症あり、経過を様子見る。
14時には地元に帰れたので、ギリギリだが、ランチタイムに間に合って、にぎり寿司を駅ビルで食べる。
7月25日、地元の大学病院脳神経外科を、まず午前中に兄が受診。
昼に母が父をタクシーで連れて来る。兄を先に帰らせた後、消化器外科の検査巡り。採血、造影剤CT検査、MRI、胸部エコー、腹部エコー(腹と骨盤)。
検査後、食堂で父と私はカツカレー、母はチャーシュー麺醤油味を食べる。暑いのにラーメン、しかし母も久々のこの食堂でのチャーシュー麺を楽しみにしていたから仕方がない。
会計後、両親を先にタクシーで帰宅させ、私は父と兄の分の処方箋を持って、処方箋薬局に赴き薬を調剤してもらってから帰宅。
7月27日、天敵先生クリニックを母が定期受診、内科と整形外科(膝の痛み)。
この頃、私は足底筋膜炎が再発した。以前のクリニックは人気すぎて予約が数カ月先でないと取れなくなったため、別のクリニックを探して診察してもらう。
7月13日にインソールを依頼、21日に完成した。オーダーメイドのインソールは高いが、市役所に届ければ助成金が下りる。母を自宅に送った後、市役所までバスに乗って申請に出かけた。
7月28日、台風12号が接近中の犬の散歩はキツかった。しかし歴代愛犬は、大雪や台風でも散歩しなければ納得しなかったので、父が元気だった頃から荒天のときは、散歩は私の役目だった。まあ父が透析になってからは、私が犬散歩を全面担当になったけど。
昼間は、まだ天気がさほど荒れてなかったので、バスで駅まで出て、父の血糖測定用の針を専門薬局まで実費で買いに行く。この頃、父の指の皮が分厚い上に、指先が冷え切って毎回血を出すのが大変だった。針の消耗が激しく、クリニック処方分では足りなかった。
7月31日、都内の大学病院呼吸器内科を、母が受診。詳細が書かれていないが、確か肺に影が出たための受診だった。帰りは母が熱中症になったため、地元最寄り駅からタクシーで帰宅。
8月1日、透析クリニックまで父をタクシーで送迎。消化器外科予約が木曜のため、透析日を変えてもらったためだった。透析指定日以外は送迎バスが来ないので、タクシーを使った。迎えに行ったとき、相変わらず父はお弁当を完食まで至らずとも、よく食べていた。しかし他の患者さんは、疲れ果ててほとんど食べずに捨てていた。
8月2日、地元の大学病院消化器外科と内分泌内科、父の予約受診。検査の結果、膵臓がんはまだ初期段階で、転移は見られないとのことだった。
相性の悪い医師の内分泌内科は、どうして受診したのだろうか?
食堂で父はチャーシュー麺醤油味、私はざる蕎麦。母に影響されたのだろうけど、気温37℃でよくラーメンが食べられるものだ。
8月6日、透析クリニックへ。医師に大学病院検査結果を伝えるためだった。
8月8日、父の眼科クリニックの時間を早めてもらう。台風が夕方接近するためだった。
8月10日、地元の大学病院、父の検査(消化器外科)。何で相性の悪い医師の内分泌内科の予約が入っていたのだろうか。膵臓がん早期発見には貢献してくれたが、またしても毒舌の嵐で、スケジュール帳にこの医師への悪態がズラズラ書かれている。とても公開できないけど。
8月13日、地元の大学病院で父の検査。心臓検査のため、終了まで服薬禁止、終わったらすぐに飲ませる。
8月15日、地元の大学病院の肝機能検査。朝食抜き、水も抜き、インスリン中止、服薬は検査終了後まで禁止。
8月20日、新宿の消化器病院へ兄の予約受診。
8月23日、透析終了を待って、透析クリニックからタクシーで父を地元の大学病院循環器内科と消化器外科へ予約受診。
検査を総合的に見て、消化器外科の医師は手術回避を勧告。しかし父は手術回避を拒否。
引き続き検査を行うことになり、PET検査の説明を受ける。約3万円かかる特殊な検査だという。
8月24日、地元の大学病院で父のPET検査。
特別な検査のため、病院地下にこんな施設があるのを初めて知った。そして放射能を漏らさないため、厳重な造り。真夏なのに寒くて、上着を持ってこなかったことを後悔した。
検査後、食堂で父と2人、チャーシュー麺を食べる。本当に風邪を引きそうなほど冷え切った。
8月28日、都内の大学病院膠原病内科と呼吸器内科、母の予約受診。
8月29日、地元の大学病院脳神経外科、父の予約受診。
8月31日、天敵先生クリニック、母の定期受診。
これを最後にこの年の日記代わりのスケジュール帳は空白となる。今後は通院用スケジュール帳とカレンダーメモが、記憶発掘の頼りとなる。
9月3日、糖尿病クリニックへ、父の予約受診。
9月5日、地元の大学病院で父の大腸内視鏡検査。水分制限があるのに2リットルの水溶溶性下剤を飲んで大丈夫なのか尋ねると、「全て便と一緒に排出されるから平気です」と言われた。
9月7日、都内の大学病院内分泌内科を、母の予約受診。
9月10日、地元の大学病院消化器外科を、父が予約受診。
精密検査の結果、手術は無理だと告げられた。頸動脈プラークがあること。そしてガンの育ちが遅いので、下手に手術するよりも、3年は生きられると言われた。消化器外科は今回で終了となり、消化器内科で今後の経過を診ることになった。
父は手術が出来ないことに、納得できずにいた。
9月19日、地元の大学病院消化器内科、父の予約受診。
9月21日、地元の大学病院内にあるガン相談室を事前予約していたので、指定された時刻に父と出向く。父は「何としても手術したい」と訴えた。
9月26日、予約外で地元の大学病院消化器内科を
父が受診。父は都内の国立がんセンターの紹介状を依頼したのだ。
9月28日、天敵先生クリニック、母の定期受診。
ここのクリニックは事前予約はない。だが数年前から、自動音声電話当日予約が始まった。当日予約電話は、朝の6時から始まる。開始時間に電話をかけても5分以上繋がらず、予約番号が20番台になったりもした。そういう時は、8時半から始まる受付に電話をかけて、何時頃に伺えばいいか尋ねる。診察内容によっては時間が延びることもあるので、その予約番号の大凡の平均時間帯を告げられて、再度、その時刻に電話をかけて受診の進み具合を聞き、何時頃に来院するかが決まる。
予約番号10番以内なら、受付の始まる時刻に来院する。この予約電話のコツを、次第にマスターした。5分前に一旦電話をかけて、電話が繋がることを確認する。そして開始10秒前にリダイヤルを行う。この方法で1番が取れることも度々あった。だがタイミングが早すぎて、予約前と音声に告げられて電話を切り、再度電話をかけてリダイヤルを繰り返す羽目になることも珍しくない。
このシステムは後年撤廃され、再診は受診の際に日程と時間を予約するシステムに変わった。予約をしなかったり初診の場合は受付に電話して、何時に来院するするか尋ねる方式へと代わる。朝の電話予約合戦は、地味に辛かった。朝はやることが沢山あったからだ。
この日は天敵先生クリニックを母に受診させ、併設された薬局で処方薬を調剤してもらってから母を送って帰宅。その後、私は家を出てバスを乗り継ぎ、地元の大学病院の文書窓口で紹介状を受け取りに出かけた。
10月1日、新宿の消化器病院へ兄が入院。
正確には予約受診をして検査結果が悪かったため、即日入院となった。その度に入院窓口で手続きをして、レンタル衣類にサインする。
あまりに入院が多いので、当初は家族の入院のたびに、保証人になってもらえるか母の弟のどちらかに電話をして確認を取っていたが「もう勝手に保証人欄記載していいから」と言われた。昔は真面目に速達で叔父のどちらかに書類を送り、保証人欄記載して返信してもらっていた。
だが本当に家族の入院が頻繁になったため、保証人の記載と叔父の苗字のハンコも、ウチの認印と共に持ち歩いた。家族の即日入院が割と多かったからだ。
10月2日、新宿の消化器病院へ足りない兄の入院グッズを持っていく。前日に購入して渡したテレビカードは全て使い切っていた。
10月3日、築地にある国立がん研究センターへ父と行く。紹介状、お薬手帳を、保険証呈示の際に提出する。採血、採尿などの検査を行い、長い待ち時間をランチを挟みながら待つ。築地だけあって、ちらし寿司を出す食堂もあったが、カフェでパンと飲み物で軽く食事した記憶がある。
診察室にようやく呼ばれた。医師は「手術は無理です」と淡々と言い、私達は早々に診察室から出された。診察室を出た、父は肩を落とした。
ここでなら手術をしてもらえると、期待していたのだ。
長い時間待たされた会計を済ませて、長い帰路への乗り継ぎを経て帰宅した。出かける時、父はせっかくの築地だから帰りに寿司を食べよう、久々の都心だから大きな本屋へ行こうと張り切っていた。だがとてもそんな気にはなれず、まっすぐ家に向かった。声をかけるのも憚られるほど、父が落胆していたのを記憶している。
10月4日、市役所と税務署へ向かう。市役所へは、兄の高額療養費証明書の更新、税務署へは兄の税金を家族統一とするための手続きだった。もう働ける体ではないので、父の扶養家族として確定申告ができるようにしたのだ。
10月6日、新宿の消化器病院へ兄の面会。
その前に親友と新宿で食事をする。親友にはそこで待っててもらい、兄に必要なものを届けて、汚れた靴下と下着を回収して、メールで病院を出たことを報せ、待ち合わせ場所に戻る。そして親友とお茶をした。「戻るのが早すぎてびっくりしたよ」と親友は苦笑した。
彼女には昔から本当に世話になっている。家族を全員亡くした後も、支えてくれたのは彼女と、もう一人の親友だった。この日も辛い父の状況を吐露させてもらった。快活な彼女から、「大丈夫、まだ道はあるよ」と慰めてもらった。
10月11日、新宿の消化器病院で主治医と面談。兄の退院予定日の話し合いだった。
10月15日、糖尿病クリニックを父が受診。帰りに本屋へ立ち寄るぐらいには気力が回復した。
10月16日、新宿の消化器病院を兄が退院。兄を自宅まで送り届けてから、私は耳鼻科に行った。また副鼻腔炎が悪化し始めたのだ。
10月17日、地元の大学病院脳神経外科を、兄が予約受診。この後に、兄をタクシー帰宅させて、市役所へ行ったのはなんのためだっただろうか?
10月19日、都内の大学病院内分泌内科、母の予約受診。
10月22日、天敵先生クリニックで、母はインフルエンザ予防接種を受ける。
10月25日、父は透析クリニックで集団インフルエンザ予防接種を受けた。
10月26日、地元の大学病院皮膚科を父が予約受診。
10月28日は初詣組と横浜でビアホールランチ、30日は親友と地元に近い場所でランチした。どこか気晴らしを挟まないと、自分が潰れるのは分かっていた。
11月5日、新宿の消化器病院を、兄が予約受診。ソーシャルワーカーと面談。アルコール依存症についての相談だった。
11月7日、透析クリニックで父のことで面談。父の手術回避ショックのことを、話し合ったと思う。
11月9日、地元の大学病院皮膚科を父が予約受診。
11月18日、血糖測定用の針探し。よりによって日曜日に在庫が切れた。母の分も父に回して使い果たしてしまったので、スマホ検索で調べた取り扱いのある薬局を何軒かあたる。3軒目にして、いつも使う処方箋薬局に近い大手チェーン薬局の処方箋窓口でやっと手に入った。実費で購入すると、地味に痛い。
母は薬の影響で血がよく出過ぎるため、母の通院先で針を、これ以上は出してもらえない。それでも誤魔化して余分に処方してもらっていたほどだ。父の通うクリニックでは、一定数以上は出してもらえなかった。後日、血の出し方についてのレクチャーを看護師から受けたが、指の脇ギリギリは最大出力で刺すと父が「痛え!」と叫んだ。確かに血は出たけど。耳という手もあるが、父は「耳たぶは嫌だ」と言った。私もうっかり動かれて顔に傷つけるは怖い。
11月19日、父の糖尿病クリニック。
11月21日、天敵先生クリニックを母が定期受診。
11月27日、都内の大学病院膠原病内科と呼吸器内科と泌尿器科、母の予約受診。
12月3日、新宿の消化器病院を兄が予約受診。
12月5日、介護の在宅トータルサポート。これは誰のための何だっただろうか。記憶にない。
12月11日午前5時、母が立ち眩みを起こして倒れる。意識はあったので、翌日の天敵先生受診日まで待つことにした。この日は別の内科先生の担当日だった。
12月12日、天敵先生クリニックに母を受診させる。詳細は書かれていない。
12月14日、眼科を母の予約受診。眼底検査で左目に出血ありり視野が若干悪い。左目に動脈硬化、経過要観察。異常があったら直ぐに眼科を診察することと、書かれている。
以前、2度ほど眼底出血で目が見えなくなった時があった。2回とも地元の大学病院へ紹介状が出され、うち一回はレーザー手術をしている。手術に慣れている母が「目だけは怖い」と、このときの手術前はいつになく怯えていた。だいぶ前、恐らく膠原病発症以前まで遡るのではないだろうか。
12月17日、糖尿病クリニック、父の予約受診。
12月18日、祖父の命日墓参へ母と行く。父はこの日は透析のため欠席。
12月19日、地元の大学病院消化器内科、父の腹部エコー検査と採血。
12月21日、都内の大学病院脳神経外科と循環器内科、母の受診。恐らく予約外受診だったと思う。詳細は書かれていない。
12月28日、都内の大学病院内分泌内科、母の予約受診。その後、脳のMRI撮影。採血前OK。
この月に赤ぺんで大きく「喘息発作が出たら、まず都内の大学病院の呼吸器内科の指示を仰ぐこと!」「特に高熱と肺炎の場合」と書かれている。だがこのメモはおそらく、この年の12月ではなく、後で書き記したのだろう。その必要性が出る出来事が、その後にあったのだ。
3.砂時計
2019年になった。この年も相変わらず通院と入院で忙しいが、それでも家族4人と愛犬が家で過ごせた最後の年だった。
この年から多機能型デイサービス利用開始。まず父から利用。時期が書いてないので不明だが、事前に私がデイサービスの見学がてら、責任者とケアマネジャーの面談をしていたのが、周辺の盆踊りの準備をしていたので、その後からだとすると、晩夏か秋から施設を利用し始めたことになる。
週に2度。父は嫌がったが、1人で風呂に入れるのが危険で、介添するにも父は背が高くて、足にも異変の出ていたため、風呂に入れるのは危険だった。父はデイサービスの過ごし方は嫌っていたものの(日中は催し物には参加せず、ベッドに横たわって持ってきた本を読み続けていたらしい)、風呂は吊り下げ式移動式椅子に座ったまま、洗い場と浴槽を移動できるため気に入っていた。
その後、母も同じデイサービスを利用。こちらも当初は通所を嫌がって、私が犬の散歩へ出ている隙にデイサービスに電話をかけて断った。だがデイサービスから折り返しに私のスマホに連絡あったので、「迎えに来てください」と返答。帰宅後、母を無理矢理送り出した。認知症が進み出すと、母はデイサービスへ行くのをむしろ楽しみにして、デイサービスがない日でも準備して玄関で迎えを待つようになる。
1月4日、都内の大学病院脳神経外科、母の予約受診。MRIで脳の中心より少しズレた場所に、過去の出血の跡らしきあるものがある。だが血管はきれいに流れている。
脳に問題はない。そして医師から言われた。「脳神経外科は、手術を目的とした患者が受診するところなので、今後はこういう事があった場合は、内科へ行くように」と。
この病院で、治療以外で突き放すのような厳しいことを初めて言われた印象は強い。
1月5日、透析クリニックの後、父が38.4度の発熱。タクシーで地元の大学病院へ運び込む。詳細は書かれていない。
1月8日、透析クリニックへ父の送迎。発熱のため、送迎バスを使えず。
1月9日、地元の大学病院、兄の脳外科受診。
1月9日、父が肺炎で地元の大学病院に緊急入院。
1月10日、地元の大学病院、父の面会。時間は11時から13時となっている。この時間は面会受付外だ。恐らく医師の説明があったと思われる。入院グッズの持ち込み。
1月12日、地元の大学病院、父の面会。個室に移される。部屋代16200円。感染の問題が発生したのだろうか、メモがないので分からない。
1月14日、地元の大学病院、父の面会。大部屋に戻される。
1月15日、都内の大学病院泌尿器科、母の膀胱内視鏡検査。前回、多少の炎症があったが、現在はきれいになっていると記入されている。
1月16日、新宿の消化器病院を、兄が予約受診。右の腸に浮腫みあり。翌日入院と記載。この日の診察医師は主治医とは違ったようだ。通院スケジュール帳欄外に名医、インフルエンザと記入されていた。
1月17日、地元の大学病院を父が退院。透析を行うため、退院時間は午後16時となった。いや、事情を話して遅くしてもらっのかもしれない。
この日、午前中に新宿の消化器病院へ兄が入院の記載が欄外にあった。
1月21日、午前中に糖尿病クリニックを、父が予約受診。途中で歩けなくなったと記載がある。タクシーを使って帰宅したか、バスだったか不明。恐らくタクシーを利用したと思われる。
午後は母の天敵先生クリニックを内科、整形外科を受診。足の捻挫と書かれている。
1月23日、新宿の消化器病院、兄の面会。
1月29日、新宿の消化器病院を兄が退院。
2月1日、都内の大学病院内分泌内科を、母の予約受診。
2月13日、地元の大学病院消化器内科と皮膚科、父が受診。
2月15日、都内の大学病院循環器内科、母の心臓エコー検査。
2月18日、糖尿病クリニック、父の予約受診。
2月20日、新宿の消化器病院、兄の予約受診。
2月25日、新宿の消化器病院から紹介された、アルコール依存症を扱う専門病院へ兄を連れて行く。ここは兄の好きな街だったので、大人しくついてくる。
だがこの病院を受診させる意味はなかった、むしろ兄を苦しめたと、私は後に後悔した。
3月4日、アルコール依存症取り扱い専門病院へ兄が入院。中を案内されて驚いた。逃亡できないように厳重な二重扉。談話室は広く、社交的な人達はグループを作って和気あいあいしていたが、半数は1人でポツンと座っていた。個室は男女で分かれていたが、大部屋に個人用のテレビはなく、談話室の大型テレビ1つしかない。だがそれもグループが占拠している。ここでアルコール依存症の怖さを勉強しながら、酒を抜いていくというが、むしろこの環境では、精神的に追い詰めるのでないかと私は思った。
先にここを見せてもらえたら、入院なんて断って、何なら外来も断ったかもしれない。だが後戻りは出来なかった。とりあえず兄がここの人達とコミュニケーションを取れることを祈るしかなかった。
面会に関しては頻繁に来ないこと、来ても30分以内で切り上げるよう告げられた。
3月5日、都内の大学病院膠原病内科と呼吸器内科、循環器内科を母が予約受診。
3月9日、監視カメラの見積もり。実は半月ほど前から、知らない人が明け方にウチの庭をウロウロしているのを、私以外の家族が見ていたのだ。父が出ていって追い払おうとするのを、母が止めていたという。そこで音声と録画機能付きの監視カメラを設置することになった。
このカメラは後年、母の徘徊の抑止にも役立った。私が気づかない時はまんまと逃げられたが、逃亡時刻は残るので、警察に保護要請をする際、服装と徘回時刻を告げることが出来た。
他にも悲しい使い方をしたが、それは後に語ることになるだろう。
3月13日、天敵先生クリニック、母の定期受診。
3月15日、都内の大学病院内分泌内科、母の予約受診。
3月18日、午前中、糖尿病クリニックを父が予約受診。診察後、父を自宅に送り届ける。私はその足で、再びバスに乗る。処方箋薬局に、本日の処方箋を提出し、帰路に立ち寄ることを告げて電車に乗る。
午後15時、アルコール依存症取り扱い専門病院で、カンファレンス。レグレクトという、飲酒欲求を抑える薬を開始したという。
電車で仮眠を取りながら地元の駅に到着。処方箋薬局に立ち寄って、父の薬を受け取る。
3月20日9時半、アルコール依存症取り扱い専門病院を兄が退院。本来は少なくとも1ヶ月の入院が必要だったが、同部屋の人から兄のイビキがうるさいと苦情があり、気が立っている人間と一緒にすると暴力事件となるため、個室に移すとの電話連絡を受けた。それなら退院させることにしたのだ。
この後、新宿の消化器病院へ兄を連れて行く。確かアルコール依存症取り扱い専門病院の退院を決めた際に、名医に電話をかけて、受診予約を取ったと記憶する。
アルコール依存症取り扱い専門病院を出た兄は、まずジュースが飲みたいと言ったので、新宿へ向かう前に自動販売機でジュースを購入すると、美味しそうに飲んだ。検査で病棟を出れる以外、ジュースさえ入院中は飲めなかったのだ。所持金は最低限は許されたが、入院患者同士の金銭トラブル発生を防ぐため、職員の預かりとなっていた。病棟を出て検査へ行く際も職員が同行。売店はあったが、生活用品以外の買い物は禁じられていた。
3月27日、地元の大学病院消化器内科と皮膚科を、父が受診。腰痛に悩まされるようになったと相談した。
3月28日29日、都内の大学病院と提携を結んでいるクリニックで、母が24時間ホルダーの装着。心臓の異常を確かめる検査だった。そのため翌日も来院して、ホルダーを外してもらったわけである。
4月3日、地元の大学病院脳神経外科を兄が予約受診。
4月5日、アルコール依存症取り扱い専門病院外来、兄が予約受診。
4月15日、新宿の消化器病院へ予約外で兄を診察させる。
4月17日、糖尿病クリニック、父の予約外来。
4月23日、都内の大学病院循環器内科、母の予約受診。血管石灰化50パーセント。75パーセント以上になったら、カテーテル手術。胸の痛みが酷くなったら、また受診して調べる。循環器内科診察はとりあえず修了、呼吸器内科に、偶然見つかった肺の濁りを伝えるよう言われる。
4月24日、地元の大学病院消化器内科と皮膚科、父の予約受診。
文章を打ってて涙が溢れる。翌年のこの頃、父はもうこの世にはいないのだ。
4月26日、都内の大学病院内分泌内科、母の予約受診。採血採尿は23日にとっていたので、この日はなし。
5月10日、アルコール依存症取り扱い専門病院、兄の予約受診。
5月11日、監視カメラ設置工事。
5月14日、都内の大学病院呼吸器内科、母の予約受診。肺の濁りを伝える。
5月17日、天敵先生クリニック、整形外科と内科を母が受診。午後15時転倒と書かれているので、整形外科を受診、そして内科の定期受診も早めたと思われる。
4.本当に怖い医療現場
5月21日、天敵先生クリニックへ行く途中に母が動けなくなる。道を渡って目の前が天敵先生クリニックだが、このとき集まってきた近所の人が救急車を呼んだ。動けない母のために、敷物を敷いてくれた人もいた。動揺が激しくて、どなたか分からなかったけど。
母は運ばれた先の病院で、入院となった。私は救急対応医師に、お薬手帳を見せながら、プレドニン(ステロイド)を必ず朝に飲ませるよう約束した。医師は院内処方で出して、朝に服薬させますと約束した。この医者の対応は良かった。
実はこの病院、母が昔、入院した病院だった。その頃は中核病院ながらも、良い医者が揃った病院として有名だった。しかし法律の改正により、大学病院が医師の囲い込みを始めたため、この病院に派遣されていた医師も、派遣元の大学病院へ引き上げた。病院名は同じだが経営母体が変わり、途端に評判が悪くなった。救急対応を見る限りは、とてもそん風には思えなかった。しかし噂は本当だった。翌日、私は信じらないものを見た。
5月22日午前9時、面会時間外だが、薬を含む入院グッズを持って入院病棟へ行く。まず看護師に薬を回収された。
母との面会で「プレドニン飲んで無いけど、大丈夫かしら?」と言うので仰天した。前日、あれほど入念に念押しして、お薬手帳も渡してあったのに。
すぐに私は看護室に、持ってきたプレドニンを渡すよう要請した。しかし看護師は「主治医の確認をしてからです」の一点張りだ。騒ぎを聞きつけた看護師長がやってきた。直ちにプレドニンを渡すよう要求するが、「規則ですから」の一点張り。信じられなかった。この病院は以前にはなかった膠原病外来を掲げている。そもそも看護師なのに、膠原病患者のステロイドの重要性を分かっていないのが信じられなかった。
私はスマホで都内の大学病院に連絡し、膠原病内科医の誰でもいいから直ちに繋いでくれとお願いする。事情を聞かれたので説明すると、直ちに主治医ではないが、膠原病内科医に繋いでくれた。膠原病内科医は、「すぐに飲ませる必要がある、看護師長を出してくれ」と言うので、私はスマホを集まっていた看護師たちのうち、看護師長に渡そうとする。すると看護師は婦長を含めて全員逃げたのである。こんな事あるか?
私は信じられなかった。膠原病内科医に伝えると、その騒ぎは電話越しにも伝わっていたらしい。こちらから病院に苦情を言うと言って、入院病院名を報せて電話を切った。
赦せなかった。看護師が逃げる?この病院は、そんなに主治医が怖いのか?
私は視界に入った若い看護師を追いかけて捕まえて言った。「あなたも看護師なら、膠原病にステロイドが命綱ぐらい知ってるでしょ。直ちにプレドニンを持ってきなさい!」
私はたぶん、このとき鬼の形相をしていたと思う。若い看護師は直ちに看護室へ飛び込んだ。
直ぐにプレドニンを持ってきたことからすると、私の恫喝ではなく、都内の大学病院の膠原病内科医からの苦情が入ったのだろう。直ちにプレドニンを母に飲ませた。
ゾッとした。母がプレドニンを飲んでないことを報せてくれなければ、どうなっていたことか。
以前、血糖値で喧嘩した病院の院長は、喘息治療のためにプレドニン量を大幅に増やしていた。そのため膠原病主治医は、段階的に元に戻すのに苦労した。だが飲ませていただけ、まだマシだったかもしれない。ステロイド服薬は1日止めたら、効果はゼロとなる。1から治療計画をやり直さねばならない。
この騒動によって、母がどんな扱いを看護師から受けたかは想像でしかない。だが入院当初はしっかりしていた母は、日を追うごとに「せん妄」が酷くなったのだ。主治医からは、認知症ですと片付けられた。ここの医者は「せん妄」さえ知らないのかと愕然とした。
4月25日、母の面会。
4月27日、午前中に父を糖尿病クリニックへ予約受診に連れて行く。
午後、母の面会。
4月30日、母の入院先の主治医とようやく話す機会が設けられた。診断は『偽痛風』、昔聞いた懐かしい名前だ。医師は退院させても構わないと言ったので、では翌日に退院させていただきますと、礼も言わずに私は去った。話す内容が時代錯誤過ぎて、腹ただしくてならなかった。そもそもこんな病院に長く預けていたら、ますます母が悪化する。出してくれるなら、万々歳だ。
どの日だったか記載がない。だが私はこの病院の医療相談室の予約を取って、プレドニン騒動の苦情を言った。相談員は、「地元相談員委員会に問題提起します」と言った。私は疑った。どうせこの場限りの言い逃れだろうと。相談員は、私の顔を見て察したらしい。「相談室は、病院とは一線を画しています。問題は必ず議題に取り上げ、医師会に通達します」と約束した。それが果たされたかどうかは、知る術はない。
翌日、病院を母は退院した。しかし急な退院決定ということで、必要のない検査を行なうため、退院は午後になった。午前中を希望したが、念の為と主治医が譲らなかったのだ。
朦朧とする母をタクシーに乗せる。運転手は「具合い悪そうですね」と心配した。しかしタクシーが自宅までの距離半分まで来たとき、母のスイッチが入った。母は「あんな酷い病院は二度とゴメンだよ」と言い、「やっぱり外は良いね」と言った。この時はまだアルツハイマー認知症の診断が出ていない。だから私は「やっぱり、せん妄だったじゃないか」と思った。
5.悔いだらけの失敗
6月3日、在宅医療相談のため、少し離れた町のクリニックを私だけで訪ねる。ここは天敵先生クリニックの系列クリニックだ。ニックネームは、大雑把先生クリニックとでもしておこうか。
いつ頃だったか、時期的に恐らく4月の地元の大学病院消化器内科受診のときだったと思う。6月のスケジュール帳の欄外に赤ぺんで、「次回辺りから、往診診療に切り替えたほうがいい。大学病院で引き続き診察してもいいが、いきなり動けなくなってから慌てて往診を頼むよりも、動ける姿を見せておいた方が良い」、○○先生の見解と書かれていた。足は循環器内科でも診てもらう事ができると。
そこで、私は最初、在宅医療も行っている天敵先生に依頼したのだ。しかし天敵先生は既に抱えている在宅医療が多すぎて新規を受け入れらない、系列のクリニックに自分の先輩がいて、ここは消化器を主に専門としているから、こちらを訪ねてみると良いと、言われたのだ。既に連絡は先方に行っている。後は地元の大学病院紹介状とこれまでの検査データを持っていくだけだ。もちろん、保険証も忘れずに。
私が言えることは、自力で探すのではなく、クリニック内情をよく知る在宅医療相談員を見つけて相談するのが、近道ということだ。母の在宅医療を探す際、病院の凄腕相談員に運良く当たった。お陰で最期を母は安らかに迎える事が出来た。クリニックの内情なんて、素人には分からない。地元に根ざした相談員の言う事に耳を傾ける。不満があるなら、市町村が運営する高齢者相談センターもある。在宅医療を利用している近所の人に相談してみるのも、良い。
ともかく私は選択を間違えた。自力で探そうした時点で躓いたのだ。
大雑把先生は、気さくな先生だった。神経質な天敵先生とは正反対といえる。
大雑把先生は、データを診て在宅医療を引受たが、動けるうちは外来で来てほしいととのことだった。
「糖尿病もウチで面倒見ます。神経質にならずとも、まずは患者の負担を軽くすることを第一に考えましょう」
良い先生だと思った。だが人を見る目が、私は足りなかった。人当たりのよい気さくな姿に騙された。厳しくとも、有言実行する医師こそが本物の『良い先生』なのだ。
6月4日、予約外で都内の大学病院膠原病内科と呼吸器内科を母が受診。事情は伝わっていたので、膠原病内科医は、今日は予約外なので無理だか、来週に入っていた元々の予約受診日のときに、改めて精密検査を検討することになった。
呼吸器内科は、元々の精密検査予定をもう少し回復するまで少し引き延ばした方が良いということで、次週の予約は取り消しとなり、1週早く処方箋を出した。来週また来るのは酷だと言うことだが、呼吸器内科は膠原病内科より診察時間が前にある。なので結局、次週も膠原病内科で来ることになるのだが。
6月6日、初代愛犬の誕生日。ラジカセが突然、ボンと音を立てて壊れた。今思うと、何か知らせたかったのだろうか?
6月7日、安価なラジカセを買いに行く。私は音楽を聴きながらでないと眠れないのだ。静寂の中にいると、どんどん嫌な妄想に絡め取られていく。だからタイマー付きラジカセは当時、必需品だった。
6月11日、都内の大学病院膠原病内科、母の予約受診。前回と今回の血液と採尿容器検査から、リウマチ因子に問題はないと言われた。偽痛風と診断されたなら、痛み止めを処方するとのことで、薬がまた増えた。
6月12日、地元の大学病院消化器内科と皮膚科、父の予約受診。消化器内科主治医に、在宅医療の目処がついたことを伝える。
6月21日、アルコール依存症取り扱い専門病院を兄が受診。
6月26日、地元の大学病院脳神経外科を、兄が予約受診。
6月28日、糖尿病クリニックを父が予約受診。その際に、在宅医療のことを話し、今後はそちらで糖尿病を診てもらうことになることを伝える。
6月29日、透析クリニック医師と面談。この席でデイサービスを考えるなら、家庭の事情もあるし、小規模多機能型居宅介護を勧められる。そしてこれから様々な先生から異口同音で伝えられる言葉を、最初にかけられた。
「介護や看取りに、正解はありません。どんな道を選んでも必ず後悔する。それを心に留めて、決して自分を責めないでください」
…本当にその通りでした。何を選んでも、結局は正解が見つかりませんでした。悔いばかりが残りました。あのときは無我夢中でした。でも終わった直後、私は後悔の波に飲まれて自分を見失いました。
壊れる寸前で引き止めてくれたのは、いつも支えてくれた親友たちでした。
今は分からないが、膵臓がんは当時、手術しても延命の可能性が低い病気だった。発見がしづらい場所にあるのも原因である。
父の場合はたまたま、食事制限しても血糖値の異常値を叩き出すため、相性の悪い内分泌医師に相談し、初期の段階で膵臓がんの可能性に気づいた。
他に何か道はなかったのかと、今でも考える。父は膵臓がん手術を希望した。だが透析の壁が立ちはだかった。それでも食らいついて、片っ端から病院を当たれば良かったのだろうか?
しかし父の体はガンではない病が原因で、どんどん衰えていた。それでも生きたいと、父は願った。最期に父は、それでも「生きたい」と願っただろうか?
それを知る術はない。しかし、ただ生きているだけで、食事が出来なくなってチューブから栄養剤を流し込まれ、療養型病院のベッドに拘束され、楽しみだった読書さえ奪われた父は「生きたい」よりも、「死にたい」と願っていたのではあるまいか。
私は決断を誤った。たとえ数日の命となっても、透析をやめて自宅で最期を迎えさせるべきだった。親友は「それは余計にお父さんを苦しめただろうから、療養型病院へ入れたのは正解だよ」と慰めてくれた。そうかも知れない。
だが、のたうち回って苦しんでも、愛した自宅で家族や盲愛していた愛犬に看取られ、この世を去ったほうが幸せだったと、私には思えてならないのだ。
日記代わりのスケジュール帳は空白が増えていく。翌年から日記代わりのスケジュール帳はやめて、通院用のスケジュール帳のみにした。カレンダーも必要事項だけ書いていたので、「これは何処の病院のことだろうか?」と、頭を捻る。それだけ家族の通院と入院の度合いが一気に増した。
また、毎日書くものが沢山ありすぎた。両親の朝昼晩の血糖測定値は、以前から糖尿病外来のための専用ノートが病院から配布されていたので、記載してきた。
加えて父の透析クリニックへ毎回提出する食事内容、血糖値、体重、血圧、通院内容と自宅での過ごし方。
更に両親のデイサービスが始まり、こちらも家での事柄や通院内容を書き記す必要があった。
このときの通信ノートや血糖測定ノートは、家族が亡くなった時に、全てシュレッダーにかけて処分した。特に通信ノートの内容は、通院ごとに絶望の底に叩きつけられた両親の悲鳴のような文章で綴られていた。
辛い思いしてきた両親の実況記録を残しておくのは、当時の私には耐えられなかった。そしてその記録が鎖となって両親を縛り付け、天国へ行っても足枷になるかのように思えたのだ。
何となく、親は私に元気だった頃の姿のみを記憶に留めて欲しいと願っているように感じる。
それでも手帳と毎年のカレンダーを残しておいたのは、気持ちが落ち着いたら、自分用に家族記録としてまとめようという思いがあったからだ。本当は家族それぞれ纏めていく予定だったが、母の心の崩壊は、父と兄のことを語らねば、成立しない。
勝ち気だか繊細だった母は、アルツハイマー病の発症と共に、父と兄の体調悪化で脳の誤作動を起こすようになった。徘徊も始まりだす。それも父と兄の病状が急変した時に限ってだ。自分自身の体も悪化していき、辛いを思いをしていたはずなのに、自身の絶望的状況よりも、父と兄が苦しむ方が心身にこたえたようだ。
それだけ母は、家族を愛していた。普段は父や兄への悪態ばかりついて、決して本心は口には出さなかったけれども。
母ほど愛情深い人はいなかった。
2.崩壊の音
5月17日、新宿の消化器病院に兄は入院した。
肝硬変は食道胃静脈瘤ができやすくなる。これが破裂すると吐血や、以前私のかかりつけ医の言った通り、天井まで血が噴き上がる。それを防ぐため、名医は内視鏡で手術することにしたのだ。これまでの通院検査はそのためだった。
このときの医師との面談内容がスケジュール帳巻末に残されていた。
①アミノ酸が通常の3分1のため、怒りっぽい。アンモニアが脳と体に溜まりやすい。
②胃だけでなく食道にも静脈瘤。
③腸の血管が肝臓ではなく骨盤に行く。アンモニアが全身に回る、アンモニア解毒にアミノ酸を使い切る。
④肝臓ランクはAが6点、Bが9点、Cが11点、Dが最悪の15点。兄はCランクの11点だと言われた。
5月20日、新宿の消化器病院へ、母と共に兄の面会。地元の大学病院より狭い病室だが、看護師が優しいのもあって、兄の機嫌は良かった。共同で使う大きな冷蔵庫を無料で使える。ただし皆で使うものなので、冷蔵庫にぶら下がった油性マジックで名前を書く必要があった。
5月25日、天敵先生クリニックを母が定期受診。
5月29日、都内の大学病院膠原病内科と呼吸器内科を、母が予約受診。
5月30日、地元の大学病院で、父が造影剤CT検査。
6月1日、新宿消化器病院の説明室で、名医と面談。名医は「手術は成功しました。これで5年以上は長生きできますよ」と言った。私はホッとした。退院日程も決めた。兄の病室へ行き、着替えを交換する。もっともこの病院の入院患者は、寝巻きとタオルはレンタルで統一されているため、持っていくのも持ち帰るのも下着と靴下のみだ。あとは途中で購入した差し入れの水。テレビカード代。
6月4日、糖尿病クリニックを父が受診。
6月5日、新宿の消化器病院を兄が退院。翌日にはレンタル料金支払い書が届く。
6月25日、天敵先生クリニックを母が定期受診。
6月30日、親友と静岡に遠征して、羽生結弦選手を含むフィギュアスケーターのアイスショーを観に行った。このとき羽生結弦選手以外にも、ファンだった往年のスターや、好きなアーティストの生歌に合わせて演技するフィギュアスケーターの演技が見れた。まさに夢の競演。
夢見心地で帰路の新幹線を待っているとき、兄の主治医からスマホに電話があった。受診予約した日が都合悪くなったので、別日にしてほしいということのだった。
夢から引きずり戻された。必要な連絡だったけど。
7月2日、糖尿病クリニックを父が受診。色々と注意を受けたことがメモされているが、詳細までは書いていない。厳しい医師ではあるが、コンピューターを使っての過去のデータとの比較などと合わせて、説明は分かりやすかった。
7月5日、地元の大学病院に父が検査入院。その前に透析クリニックで透析を受けて、事前に頼んでおいた紹介状を受け取って、タクシーで病院へ向かった。
7月6日、地元の大学病院で、父に関する医師の説明。詳細は書かれていない。
7月7日、地元の大学病院を父が退院。透析を受けた後の退院だったと思う。
7月11日、地元の大学病院消化器内科を、父が予約受診。透析クリニックで、透析日を19日から18日に変えてもらう。
7月18日、透析クリニックの送迎がないので、タクシーで往復父を送り届ける。障害者1級なのでタクシー券が出るため、助かった。
7月19日、地元の大学病院消化器外科を、父が初受診。膵臓がん手術を見据えて、消化器内科から消化器外科へ回されたのだ。
ふと、頭をよぎった。以前、大規模なお通夜をした生前の近所の人を、たまたまこの病院で見たことがある。私は話したことがないし、両親は苦手としていたため、父は先に気づいたが声もかけなかった。行動的で様々な場所で活躍していた人だったが、見る影もないほど窶れていた。近所の人から聞いた話だが、膵臓がん手術をしたらしかった。
父が糖尿病になったのも、原因は恐らく酒だろう。若い頃は肥満気味で会社の健康診断から毎年指導が出ていた。しかし犬を飼うようになってから、見る見る体重が落ちて適正体重となった。だが酒は、決して強くないにも関わらず大好きだった。甘口だけは駄目だったが。マイルールで、ビールは缶一本、日本酒は2合までと決めていた。
若いときから何度も「休肝日を作るぞ!」と、健康診断指導が入るたびに言っていたが、酒がないと不機嫌なる。それが煩わしくて、その都度、母が休肝日を撤回していき、父もそれに乗じてしまった。
兄のアルコール依存性に気づくのが遅れたのは、兄はどれだけ酒を飲んでも顔に出ないタイプだった。しかも好きなのは、甘口なジュースのよう缶チューハイで、臭いが分かりづらかった。
父のように酔うと立てないほどベロベロになって嘔吐するぐらい弱ければ、もっと早く気付けただろう。だが気づいたところで、依存性になったら手遅れだ。病院に行っても治らない。
私が通う精神科クリニックの主治医が、アルコール依存性を敵視する気持ちがよく分かった。アルコール外来の待合室で、「今度は何処に飲みに行きましょうか?」との会話をたびたび耳にしていた。恐らく入院中に知り合った仲魔だろう。
入院処置しても、外来に通って薬を処方されても、当人の強い意志がなければ寛解に持ち込めないのだ。
兄は働いて自由になる金が稼げないストレスから、断酒が出来なかった。私が金を渡さずとも、母が自分の年金から小遣いを渡していたので無駄だった。兄は本を買いに行くと言っては、酒を買って、店の前で飲んでいたのだ。家だと証拠が残るために。だが近所の人から私の耳に入るし、意識して嗅覚を向ければアルコールの臭いで分かった。やめろと言うと暴れ出す。手がつけられなかった。
7月20日、都内の大学病院内分泌内科を、母が予約受診。このとき軽い熱中症に母はかかっていた。もっと風通しのよいものを着せようとしたのに、お気に入りの薄手の長袖ブラウスを着ると母が譲らなかったと記入されている。
あのときは、手持ちの瞬間冷却剤(拳で叩くことで冷たくなる)で首を冷やし、持ってきた凍ったペットボトルを腕の両脇に挟み(1本は帰路の冷却用に保冷袋に入れていた)、自動販売機でスポーツドリンクを買ってきて飲ませ、診察が始まる頃には症状が治まった。あのとき、瞬間冷却剤を強く叩いたことで、周囲の患者さんから驚いた顔で注目された記憶がある。癇癪を起こしたわけではないと、気づいてくれていたらいいのだが。
7月23日、新宿の消化器病院、兄の予約受診。暑さのせいなのか、会話が噛み合わないことがあり、鼻血がでやすいことを告げると、名医は神経内科へ診察を依頼する。
神経内科で、てんかんを調べてもらうが、詳しくは地元の大学病院脳神経外科に相談するよう言われた。
7月24日、都内の大学病院泌尿器科、母の予約受診。
検査のために早く出るつもりが、父が低血糖を起こしたため、透析クリニック送迎が来る前にブドウ糖を食べさせて処置。予定のバスに乗り遅れたため、タクシーを呼んで母と駅に向かう。
この日は膀胱内視鏡検査。多少の炎症あり、経過を様子見る。
14時には地元に帰れたので、ギリギリだが、ランチタイムに間に合って、にぎり寿司を駅ビルで食べる。
7月25日、地元の大学病院脳神経外科を、まず午前中に兄が受診。
昼に母が父をタクシーで連れて来る。兄を先に帰らせた後、消化器外科の検査巡り。採血、造影剤CT検査、MRI、胸部エコー、腹部エコー(腹と骨盤)。
検査後、食堂で父と私はカツカレー、母はチャーシュー麺醤油味を食べる。暑いのにラーメン、しかし母も久々のこの食堂でのチャーシュー麺を楽しみにしていたから仕方がない。
会計後、両親を先にタクシーで帰宅させ、私は父と兄の分の処方箋を持って、処方箋薬局に赴き薬を調剤してもらってから帰宅。
7月27日、天敵先生クリニックを母が定期受診、内科と整形外科(膝の痛み)。
この頃、私は足底筋膜炎が再発した。以前のクリニックは人気すぎて予約が数カ月先でないと取れなくなったため、別のクリニックを探して診察してもらう。
7月13日にインソールを依頼、21日に完成した。オーダーメイドのインソールは高いが、市役所に届ければ助成金が下りる。母を自宅に送った後、市役所までバスに乗って申請に出かけた。
7月28日、台風12号が接近中の犬の散歩はキツかった。しかし歴代愛犬は、大雪や台風でも散歩しなければ納得しなかったので、父が元気だった頃から荒天のときは、散歩は私の役目だった。まあ父が透析になってからは、私が犬散歩を全面担当になったけど。
昼間は、まだ天気がさほど荒れてなかったので、バスで駅まで出て、父の血糖測定用の針を専門薬局まで実費で買いに行く。この頃、父の指の皮が分厚い上に、指先が冷え切って毎回血を出すのが大変だった。針の消耗が激しく、クリニック処方分では足りなかった。
7月31日、都内の大学病院呼吸器内科を、母が受診。詳細が書かれていないが、確か肺に影が出たための受診だった。帰りは母が熱中症になったため、地元最寄り駅からタクシーで帰宅。
8月1日、透析クリニックまで父をタクシーで送迎。消化器外科予約が木曜のため、透析日を変えてもらったためだった。透析指定日以外は送迎バスが来ないので、タクシーを使った。迎えに行ったとき、相変わらず父はお弁当を完食まで至らずとも、よく食べていた。しかし他の患者さんは、疲れ果ててほとんど食べずに捨てていた。
8月2日、地元の大学病院消化器外科と内分泌内科、父の予約受診。検査の結果、膵臓がんはまだ初期段階で、転移は見られないとのことだった。
相性の悪い医師の内分泌内科は、どうして受診したのだろうか?
食堂で父はチャーシュー麺醤油味、私はざる蕎麦。母に影響されたのだろうけど、気温37℃でよくラーメンが食べられるものだ。
8月6日、透析クリニックへ。医師に大学病院検査結果を伝えるためだった。
8月8日、父の眼科クリニックの時間を早めてもらう。台風が夕方接近するためだった。
8月10日、地元の大学病院、父の検査(消化器外科)。何で相性の悪い医師の内分泌内科の予約が入っていたのだろうか。膵臓がん早期発見には貢献してくれたが、またしても毒舌の嵐で、スケジュール帳にこの医師への悪態がズラズラ書かれている。とても公開できないけど。
8月13日、地元の大学病院で父の検査。心臓検査のため、終了まで服薬禁止、終わったらすぐに飲ませる。
8月15日、地元の大学病院の肝機能検査。朝食抜き、水も抜き、インスリン中止、服薬は検査終了後まで禁止。
8月20日、新宿の消化器病院へ兄の予約受診。
8月23日、透析終了を待って、透析クリニックからタクシーで父を地元の大学病院循環器内科と消化器外科へ予約受診。
検査を総合的に見て、消化器外科の医師は手術回避を勧告。しかし父は手術回避を拒否。
引き続き検査を行うことになり、PET検査の説明を受ける。約3万円かかる特殊な検査だという。
8月24日、地元の大学病院で父のPET検査。
特別な検査のため、病院地下にこんな施設があるのを初めて知った。そして放射能を漏らさないため、厳重な造り。真夏なのに寒くて、上着を持ってこなかったことを後悔した。
検査後、食堂で父と2人、チャーシュー麺を食べる。本当に風邪を引きそうなほど冷え切った。
8月28日、都内の大学病院膠原病内科と呼吸器内科、母の予約受診。
8月29日、地元の大学病院脳神経外科、父の予約受診。
8月31日、天敵先生クリニック、母の定期受診。
これを最後にこの年の日記代わりのスケジュール帳は空白となる。今後は通院用スケジュール帳とカレンダーメモが、記憶発掘の頼りとなる。
9月3日、糖尿病クリニックへ、父の予約受診。
9月5日、地元の大学病院で父の大腸内視鏡検査。水分制限があるのに2リットルの水溶溶性下剤を飲んで大丈夫なのか尋ねると、「全て便と一緒に排出されるから平気です」と言われた。
9月7日、都内の大学病院内分泌内科を、母の予約受診。
9月10日、地元の大学病院消化器外科を、父が予約受診。
精密検査の結果、手術は無理だと告げられた。頸動脈プラークがあること。そしてガンの育ちが遅いので、下手に手術するよりも、3年は生きられると言われた。消化器外科は今回で終了となり、消化器内科で今後の経過を診ることになった。
父は手術が出来ないことに、納得できずにいた。
9月19日、地元の大学病院消化器内科、父の予約受診。
9月21日、地元の大学病院内にあるガン相談室を事前予約していたので、指定された時刻に父と出向く。父は「何としても手術したい」と訴えた。
9月26日、予約外で地元の大学病院消化器内科を
父が受診。父は都内の国立がんセンターの紹介状を依頼したのだ。
9月28日、天敵先生クリニック、母の定期受診。
ここのクリニックは事前予約はない。だが数年前から、自動音声電話当日予約が始まった。当日予約電話は、朝の6時から始まる。開始時間に電話をかけても5分以上繋がらず、予約番号が20番台になったりもした。そういう時は、8時半から始まる受付に電話をかけて、何時頃に伺えばいいか尋ねる。診察内容によっては時間が延びることもあるので、その予約番号の大凡の平均時間帯を告げられて、再度、その時刻に電話をかけて受診の進み具合を聞き、何時頃に来院するかが決まる。
予約番号10番以内なら、受付の始まる時刻に来院する。この予約電話のコツを、次第にマスターした。5分前に一旦電話をかけて、電話が繋がることを確認する。そして開始10秒前にリダイヤルを行う。この方法で1番が取れることも度々あった。だがタイミングが早すぎて、予約前と音声に告げられて電話を切り、再度電話をかけてリダイヤルを繰り返す羽目になることも珍しくない。
このシステムは後年撤廃され、再診は受診の際に日程と時間を予約するシステムに変わった。予約をしなかったり初診の場合は受付に電話して、何時に来院するするか尋ねる方式へと代わる。朝の電話予約合戦は、地味に辛かった。朝はやることが沢山あったからだ。
この日は天敵先生クリニックを母に受診させ、併設された薬局で処方薬を調剤してもらってから母を送って帰宅。その後、私は家を出てバスを乗り継ぎ、地元の大学病院の文書窓口で紹介状を受け取りに出かけた。
10月1日、新宿の消化器病院へ兄が入院。
正確には予約受診をして検査結果が悪かったため、即日入院となった。その度に入院窓口で手続きをして、レンタル衣類にサインする。
あまりに入院が多いので、当初は家族の入院のたびに、保証人になってもらえるか母の弟のどちらかに電話をして確認を取っていたが「もう勝手に保証人欄記載していいから」と言われた。昔は真面目に速達で叔父のどちらかに書類を送り、保証人欄記載して返信してもらっていた。
だが本当に家族の入院が頻繁になったため、保証人の記載と叔父の苗字のハンコも、ウチの認印と共に持ち歩いた。家族の即日入院が割と多かったからだ。
10月2日、新宿の消化器病院へ足りない兄の入院グッズを持っていく。前日に購入して渡したテレビカードは全て使い切っていた。
10月3日、築地にある国立がん研究センターへ父と行く。紹介状、お薬手帳を、保険証呈示の際に提出する。採血、採尿などの検査を行い、長い待ち時間をランチを挟みながら待つ。築地だけあって、ちらし寿司を出す食堂もあったが、カフェでパンと飲み物で軽く食事した記憶がある。
診察室にようやく呼ばれた。医師は「手術は無理です」と淡々と言い、私達は早々に診察室から出された。診察室を出た、父は肩を落とした。
ここでなら手術をしてもらえると、期待していたのだ。
長い時間待たされた会計を済ませて、長い帰路への乗り継ぎを経て帰宅した。出かける時、父はせっかくの築地だから帰りに寿司を食べよう、久々の都心だから大きな本屋へ行こうと張り切っていた。だがとてもそんな気にはなれず、まっすぐ家に向かった。声をかけるのも憚られるほど、父が落胆していたのを記憶している。
10月4日、市役所と税務署へ向かう。市役所へは、兄の高額療養費証明書の更新、税務署へは兄の税金を家族統一とするための手続きだった。もう働ける体ではないので、父の扶養家族として確定申告ができるようにしたのだ。
10月6日、新宿の消化器病院へ兄の面会。
その前に親友と新宿で食事をする。親友にはそこで待っててもらい、兄に必要なものを届けて、汚れた靴下と下着を回収して、メールで病院を出たことを報せ、待ち合わせ場所に戻る。そして親友とお茶をした。「戻るのが早すぎてびっくりしたよ」と親友は苦笑した。
彼女には昔から本当に世話になっている。家族を全員亡くした後も、支えてくれたのは彼女と、もう一人の親友だった。この日も辛い父の状況を吐露させてもらった。快活な彼女から、「大丈夫、まだ道はあるよ」と慰めてもらった。
10月11日、新宿の消化器病院で主治医と面談。兄の退院予定日の話し合いだった。
10月15日、糖尿病クリニックを父が受診。帰りに本屋へ立ち寄るぐらいには気力が回復した。
10月16日、新宿の消化器病院を兄が退院。兄を自宅まで送り届けてから、私は耳鼻科に行った。また副鼻腔炎が悪化し始めたのだ。
10月17日、地元の大学病院脳神経外科を、兄が予約受診。この後に、兄をタクシー帰宅させて、市役所へ行ったのはなんのためだっただろうか?
10月19日、都内の大学病院内分泌内科、母の予約受診。
10月22日、天敵先生クリニックで、母はインフルエンザ予防接種を受ける。
10月25日、父は透析クリニックで集団インフルエンザ予防接種を受けた。
10月26日、地元の大学病院皮膚科を父が予約受診。
10月28日は初詣組と横浜でビアホールランチ、30日は親友と地元に近い場所でランチした。どこか気晴らしを挟まないと、自分が潰れるのは分かっていた。
11月5日、新宿の消化器病院を、兄が予約受診。ソーシャルワーカーと面談。アルコール依存症についての相談だった。
11月7日、透析クリニックで父のことで面談。父の手術回避ショックのことを、話し合ったと思う。
11月9日、地元の大学病院皮膚科を父が予約受診。
11月18日、血糖測定用の針探し。よりによって日曜日に在庫が切れた。母の分も父に回して使い果たしてしまったので、スマホ検索で調べた取り扱いのある薬局を何軒かあたる。3軒目にして、いつも使う処方箋薬局に近い大手チェーン薬局の処方箋窓口でやっと手に入った。実費で購入すると、地味に痛い。
母は薬の影響で血がよく出過ぎるため、母の通院先で針を、これ以上は出してもらえない。それでも誤魔化して余分に処方してもらっていたほどだ。父の通うクリニックでは、一定数以上は出してもらえなかった。後日、血の出し方についてのレクチャーを看護師から受けたが、指の脇ギリギリは最大出力で刺すと父が「痛え!」と叫んだ。確かに血は出たけど。耳という手もあるが、父は「耳たぶは嫌だ」と言った。私もうっかり動かれて顔に傷つけるは怖い。
11月19日、父の糖尿病クリニック。
11月21日、天敵先生クリニックを母が定期受診。
11月27日、都内の大学病院膠原病内科と呼吸器内科と泌尿器科、母の予約受診。
12月3日、新宿の消化器病院を兄が予約受診。
12月5日、介護の在宅トータルサポート。これは誰のための何だっただろうか。記憶にない。
12月11日午前5時、母が立ち眩みを起こして倒れる。意識はあったので、翌日の天敵先生受診日まで待つことにした。この日は別の内科先生の担当日だった。
12月12日、天敵先生クリニックに母を受診させる。詳細は書かれていない。
12月14日、眼科を母の予約受診。眼底検査で左目に出血ありり視野が若干悪い。左目に動脈硬化、経過要観察。異常があったら直ぐに眼科を診察することと、書かれている。
以前、2度ほど眼底出血で目が見えなくなった時があった。2回とも地元の大学病院へ紹介状が出され、うち一回はレーザー手術をしている。手術に慣れている母が「目だけは怖い」と、このときの手術前はいつになく怯えていた。だいぶ前、恐らく膠原病発症以前まで遡るのではないだろうか。
12月17日、糖尿病クリニック、父の予約受診。
12月18日、祖父の命日墓参へ母と行く。父はこの日は透析のため欠席。
12月19日、地元の大学病院消化器内科、父の腹部エコー検査と採血。
12月21日、都内の大学病院脳神経外科と循環器内科、母の受診。恐らく予約外受診だったと思う。詳細は書かれていない。
12月28日、都内の大学病院内分泌内科、母の予約受診。その後、脳のMRI撮影。採血前OK。
この月に赤ぺんで大きく「喘息発作が出たら、まず都内の大学病院の呼吸器内科の指示を仰ぐこと!」「特に高熱と肺炎の場合」と書かれている。だがこのメモはおそらく、この年の12月ではなく、後で書き記したのだろう。その必要性が出る出来事が、その後にあったのだ。
3.砂時計
2019年になった。この年も相変わらず通院と入院で忙しいが、それでも家族4人と愛犬が家で過ごせた最後の年だった。
この年から多機能型デイサービス利用開始。まず父から利用。時期が書いてないので不明だが、事前に私がデイサービスの見学がてら、責任者とケアマネジャーの面談をしていたのが、周辺の盆踊りの準備をしていたので、その後からだとすると、晩夏か秋から施設を利用し始めたことになる。
週に2度。父は嫌がったが、1人で風呂に入れるのが危険で、介添するにも父は背が高くて、足にも異変の出ていたため、風呂に入れるのは危険だった。父はデイサービスの過ごし方は嫌っていたものの(日中は催し物には参加せず、ベッドに横たわって持ってきた本を読み続けていたらしい)、風呂は吊り下げ式移動式椅子に座ったまま、洗い場と浴槽を移動できるため気に入っていた。
その後、母も同じデイサービスを利用。こちらも当初は通所を嫌がって、私が犬の散歩へ出ている隙にデイサービスに電話をかけて断った。だがデイサービスから折り返しに私のスマホに連絡あったので、「迎えに来てください」と返答。帰宅後、母を無理矢理送り出した。認知症が進み出すと、母はデイサービスへ行くのをむしろ楽しみにして、デイサービスがない日でも準備して玄関で迎えを待つようになる。
1月4日、都内の大学病院脳神経外科、母の予約受診。MRIで脳の中心より少しズレた場所に、過去の出血の跡らしきあるものがある。だが血管はきれいに流れている。
脳に問題はない。そして医師から言われた。「脳神経外科は、手術を目的とした患者が受診するところなので、今後はこういう事があった場合は、内科へ行くように」と。
この病院で、治療以外で突き放すのような厳しいことを初めて言われた印象は強い。
1月5日、透析クリニックの後、父が38.4度の発熱。タクシーで地元の大学病院へ運び込む。詳細は書かれていない。
1月8日、透析クリニックへ父の送迎。発熱のため、送迎バスを使えず。
1月9日、地元の大学病院、兄の脳外科受診。
1月9日、父が肺炎で地元の大学病院に緊急入院。
1月10日、地元の大学病院、父の面会。時間は11時から13時となっている。この時間は面会受付外だ。恐らく医師の説明があったと思われる。入院グッズの持ち込み。
1月12日、地元の大学病院、父の面会。個室に移される。部屋代16200円。感染の問題が発生したのだろうか、メモがないので分からない。
1月14日、地元の大学病院、父の面会。大部屋に戻される。
1月15日、都内の大学病院泌尿器科、母の膀胱内視鏡検査。前回、多少の炎症があったが、現在はきれいになっていると記入されている。
1月16日、新宿の消化器病院を、兄が予約受診。右の腸に浮腫みあり。翌日入院と記載。この日の診察医師は主治医とは違ったようだ。通院スケジュール帳欄外に名医、インフルエンザと記入されていた。
1月17日、地元の大学病院を父が退院。透析を行うため、退院時間は午後16時となった。いや、事情を話して遅くしてもらっのかもしれない。
この日、午前中に新宿の消化器病院へ兄が入院の記載が欄外にあった。
1月21日、午前中に糖尿病クリニックを、父が予約受診。途中で歩けなくなったと記載がある。タクシーを使って帰宅したか、バスだったか不明。恐らくタクシーを利用したと思われる。
午後は母の天敵先生クリニックを内科、整形外科を受診。足の捻挫と書かれている。
1月23日、新宿の消化器病院、兄の面会。
1月29日、新宿の消化器病院を兄が退院。
2月1日、都内の大学病院内分泌内科を、母の予約受診。
2月13日、地元の大学病院消化器内科と皮膚科、父が受診。
2月15日、都内の大学病院循環器内科、母の心臓エコー検査。
2月18日、糖尿病クリニック、父の予約受診。
2月20日、新宿の消化器病院、兄の予約受診。
2月25日、新宿の消化器病院から紹介された、アルコール依存症を扱う専門病院へ兄を連れて行く。ここは兄の好きな街だったので、大人しくついてくる。
だがこの病院を受診させる意味はなかった、むしろ兄を苦しめたと、私は後に後悔した。
3月4日、アルコール依存症取り扱い専門病院へ兄が入院。中を案内されて驚いた。逃亡できないように厳重な二重扉。談話室は広く、社交的な人達はグループを作って和気あいあいしていたが、半数は1人でポツンと座っていた。個室は男女で分かれていたが、大部屋に個人用のテレビはなく、談話室の大型テレビ1つしかない。だがそれもグループが占拠している。ここでアルコール依存症の怖さを勉強しながら、酒を抜いていくというが、むしろこの環境では、精神的に追い詰めるのでないかと私は思った。
先にここを見せてもらえたら、入院なんて断って、何なら外来も断ったかもしれない。だが後戻りは出来なかった。とりあえず兄がここの人達とコミュニケーションを取れることを祈るしかなかった。
面会に関しては頻繁に来ないこと、来ても30分以内で切り上げるよう告げられた。
3月5日、都内の大学病院膠原病内科と呼吸器内科、循環器内科を母が予約受診。
3月9日、監視カメラの見積もり。実は半月ほど前から、知らない人が明け方にウチの庭をウロウロしているのを、私以外の家族が見ていたのだ。父が出ていって追い払おうとするのを、母が止めていたという。そこで音声と録画機能付きの監視カメラを設置することになった。
このカメラは後年、母の徘徊の抑止にも役立った。私が気づかない時はまんまと逃げられたが、逃亡時刻は残るので、警察に保護要請をする際、服装と徘回時刻を告げることが出来た。
他にも悲しい使い方をしたが、それは後に語ることになるだろう。
3月13日、天敵先生クリニック、母の定期受診。
3月15日、都内の大学病院内分泌内科、母の予約受診。
3月18日、午前中、糖尿病クリニックを父が予約受診。診察後、父を自宅に送り届ける。私はその足で、再びバスに乗る。処方箋薬局に、本日の処方箋を提出し、帰路に立ち寄ることを告げて電車に乗る。
午後15時、アルコール依存症取り扱い専門病院で、カンファレンス。レグレクトという、飲酒欲求を抑える薬を開始したという。
電車で仮眠を取りながら地元の駅に到着。処方箋薬局に立ち寄って、父の薬を受け取る。
3月20日9時半、アルコール依存症取り扱い専門病院を兄が退院。本来は少なくとも1ヶ月の入院が必要だったが、同部屋の人から兄のイビキがうるさいと苦情があり、気が立っている人間と一緒にすると暴力事件となるため、個室に移すとの電話連絡を受けた。それなら退院させることにしたのだ。
この後、新宿の消化器病院へ兄を連れて行く。確かアルコール依存症取り扱い専門病院の退院を決めた際に、名医に電話をかけて、受診予約を取ったと記憶する。
アルコール依存症取り扱い専門病院を出た兄は、まずジュースが飲みたいと言ったので、新宿へ向かう前に自動販売機でジュースを購入すると、美味しそうに飲んだ。検査で病棟を出れる以外、ジュースさえ入院中は飲めなかったのだ。所持金は最低限は許されたが、入院患者同士の金銭トラブル発生を防ぐため、職員の預かりとなっていた。病棟を出て検査へ行く際も職員が同行。売店はあったが、生活用品以外の買い物は禁じられていた。
3月27日、地元の大学病院消化器内科と皮膚科を、父が受診。腰痛に悩まされるようになったと相談した。
3月28日29日、都内の大学病院と提携を結んでいるクリニックで、母が24時間ホルダーの装着。心臓の異常を確かめる検査だった。そのため翌日も来院して、ホルダーを外してもらったわけである。
4月3日、地元の大学病院脳神経外科を兄が予約受診。
4月5日、アルコール依存症取り扱い専門病院外来、兄が予約受診。
4月15日、新宿の消化器病院へ予約外で兄を診察させる。
4月17日、糖尿病クリニック、父の予約外来。
4月23日、都内の大学病院循環器内科、母の予約受診。血管石灰化50パーセント。75パーセント以上になったら、カテーテル手術。胸の痛みが酷くなったら、また受診して調べる。循環器内科診察はとりあえず修了、呼吸器内科に、偶然見つかった肺の濁りを伝えるよう言われる。
4月24日、地元の大学病院消化器内科と皮膚科、父の予約受診。
文章を打ってて涙が溢れる。翌年のこの頃、父はもうこの世にはいないのだ。
4月26日、都内の大学病院内分泌内科、母の予約受診。採血採尿は23日にとっていたので、この日はなし。
5月10日、アルコール依存症取り扱い専門病院、兄の予約受診。
5月11日、監視カメラ設置工事。
5月14日、都内の大学病院呼吸器内科、母の予約受診。肺の濁りを伝える。
5月17日、天敵先生クリニック、整形外科と内科を母が受診。午後15時転倒と書かれているので、整形外科を受診、そして内科の定期受診も早めたと思われる。
4.本当に怖い医療現場
5月21日、天敵先生クリニックへ行く途中に母が動けなくなる。道を渡って目の前が天敵先生クリニックだが、このとき集まってきた近所の人が救急車を呼んだ。動けない母のために、敷物を敷いてくれた人もいた。動揺が激しくて、どなたか分からなかったけど。
母は運ばれた先の病院で、入院となった。私は救急対応医師に、お薬手帳を見せながら、プレドニン(ステロイド)を必ず朝に飲ませるよう約束した。医師は院内処方で出して、朝に服薬させますと約束した。この医者の対応は良かった。
実はこの病院、母が昔、入院した病院だった。その頃は中核病院ながらも、良い医者が揃った病院として有名だった。しかし法律の改正により、大学病院が医師の囲い込みを始めたため、この病院に派遣されていた医師も、派遣元の大学病院へ引き上げた。病院名は同じだが経営母体が変わり、途端に評判が悪くなった。救急対応を見る限りは、とてもそん風には思えなかった。しかし噂は本当だった。翌日、私は信じらないものを見た。
5月22日午前9時、面会時間外だが、薬を含む入院グッズを持って入院病棟へ行く。まず看護師に薬を回収された。
母との面会で「プレドニン飲んで無いけど、大丈夫かしら?」と言うので仰天した。前日、あれほど入念に念押しして、お薬手帳も渡してあったのに。
すぐに私は看護室に、持ってきたプレドニンを渡すよう要請した。しかし看護師は「主治医の確認をしてからです」の一点張りだ。騒ぎを聞きつけた看護師長がやってきた。直ちにプレドニンを渡すよう要求するが、「規則ですから」の一点張り。信じられなかった。この病院は以前にはなかった膠原病外来を掲げている。そもそも看護師なのに、膠原病患者のステロイドの重要性を分かっていないのが信じられなかった。
私はスマホで都内の大学病院に連絡し、膠原病内科医の誰でもいいから直ちに繋いでくれとお願いする。事情を聞かれたので説明すると、直ちに主治医ではないが、膠原病内科医に繋いでくれた。膠原病内科医は、「すぐに飲ませる必要がある、看護師長を出してくれ」と言うので、私はスマホを集まっていた看護師たちのうち、看護師長に渡そうとする。すると看護師は婦長を含めて全員逃げたのである。こんな事あるか?
私は信じられなかった。膠原病内科医に伝えると、その騒ぎは電話越しにも伝わっていたらしい。こちらから病院に苦情を言うと言って、入院病院名を報せて電話を切った。
赦せなかった。看護師が逃げる?この病院は、そんなに主治医が怖いのか?
私は視界に入った若い看護師を追いかけて捕まえて言った。「あなたも看護師なら、膠原病にステロイドが命綱ぐらい知ってるでしょ。直ちにプレドニンを持ってきなさい!」
私はたぶん、このとき鬼の形相をしていたと思う。若い看護師は直ちに看護室へ飛び込んだ。
直ぐにプレドニンを持ってきたことからすると、私の恫喝ではなく、都内の大学病院の膠原病内科医からの苦情が入ったのだろう。直ちにプレドニンを母に飲ませた。
ゾッとした。母がプレドニンを飲んでないことを報せてくれなければ、どうなっていたことか。
以前、血糖値で喧嘩した病院の院長は、喘息治療のためにプレドニン量を大幅に増やしていた。そのため膠原病主治医は、段階的に元に戻すのに苦労した。だが飲ませていただけ、まだマシだったかもしれない。ステロイド服薬は1日止めたら、効果はゼロとなる。1から治療計画をやり直さねばならない。
この騒動によって、母がどんな扱いを看護師から受けたかは想像でしかない。だが入院当初はしっかりしていた母は、日を追うごとに「せん妄」が酷くなったのだ。主治医からは、認知症ですと片付けられた。ここの医者は「せん妄」さえ知らないのかと愕然とした。
4月25日、母の面会。
4月27日、午前中に父を糖尿病クリニックへ予約受診に連れて行く。
午後、母の面会。
4月30日、母の入院先の主治医とようやく話す機会が設けられた。診断は『偽痛風』、昔聞いた懐かしい名前だ。医師は退院させても構わないと言ったので、では翌日に退院させていただきますと、礼も言わずに私は去った。話す内容が時代錯誤過ぎて、腹ただしくてならなかった。そもそもこんな病院に長く預けていたら、ますます母が悪化する。出してくれるなら、万々歳だ。
どの日だったか記載がない。だが私はこの病院の医療相談室の予約を取って、プレドニン騒動の苦情を言った。相談員は、「地元相談員委員会に問題提起します」と言った。私は疑った。どうせこの場限りの言い逃れだろうと。相談員は、私の顔を見て察したらしい。「相談室は、病院とは一線を画しています。問題は必ず議題に取り上げ、医師会に通達します」と約束した。それが果たされたかどうかは、知る術はない。
翌日、病院を母は退院した。しかし急な退院決定ということで、必要のない検査を行なうため、退院は午後になった。午前中を希望したが、念の為と主治医が譲らなかったのだ。
朦朧とする母をタクシーに乗せる。運転手は「具合い悪そうですね」と心配した。しかしタクシーが自宅までの距離半分まで来たとき、母のスイッチが入った。母は「あんな酷い病院は二度とゴメンだよ」と言い、「やっぱり外は良いね」と言った。この時はまだアルツハイマー認知症の診断が出ていない。だから私は「やっぱり、せん妄だったじゃないか」と思った。
5.悔いだらけの失敗
6月3日、在宅医療相談のため、少し離れた町のクリニックを私だけで訪ねる。ここは天敵先生クリニックの系列クリニックだ。ニックネームは、大雑把先生クリニックとでもしておこうか。
いつ頃だったか、時期的に恐らく4月の地元の大学病院消化器内科受診のときだったと思う。6月のスケジュール帳の欄外に赤ぺんで、「次回辺りから、往診診療に切り替えたほうがいい。大学病院で引き続き診察してもいいが、いきなり動けなくなってから慌てて往診を頼むよりも、動ける姿を見せておいた方が良い」、○○先生の見解と書かれていた。足は循環器内科でも診てもらう事ができると。
そこで、私は最初、在宅医療も行っている天敵先生に依頼したのだ。しかし天敵先生は既に抱えている在宅医療が多すぎて新規を受け入れらない、系列のクリニックに自分の先輩がいて、ここは消化器を主に専門としているから、こちらを訪ねてみると良いと、言われたのだ。既に連絡は先方に行っている。後は地元の大学病院紹介状とこれまでの検査データを持っていくだけだ。もちろん、保険証も忘れずに。
私が言えることは、自力で探すのではなく、クリニック内情をよく知る在宅医療相談員を見つけて相談するのが、近道ということだ。母の在宅医療を探す際、病院の凄腕相談員に運良く当たった。お陰で最期を母は安らかに迎える事が出来た。クリニックの内情なんて、素人には分からない。地元に根ざした相談員の言う事に耳を傾ける。不満があるなら、市町村が運営する高齢者相談センターもある。在宅医療を利用している近所の人に相談してみるのも、良い。
ともかく私は選択を間違えた。自力で探そうした時点で躓いたのだ。
大雑把先生は、気さくな先生だった。神経質な天敵先生とは正反対といえる。
大雑把先生は、データを診て在宅医療を引受たが、動けるうちは外来で来てほしいととのことだった。
「糖尿病もウチで面倒見ます。神経質にならずとも、まずは患者の負担を軽くすることを第一に考えましょう」
良い先生だと思った。だが人を見る目が、私は足りなかった。人当たりのよい気さくな姿に騙された。厳しくとも、有言実行する医師こそが本物の『良い先生』なのだ。
6月4日、予約外で都内の大学病院膠原病内科と呼吸器内科を母が受診。事情は伝わっていたので、膠原病内科医は、今日は予約外なので無理だか、来週に入っていた元々の予約受診日のときに、改めて精密検査を検討することになった。
呼吸器内科は、元々の精密検査予定をもう少し回復するまで少し引き延ばした方が良いということで、次週の予約は取り消しとなり、1週早く処方箋を出した。来週また来るのは酷だと言うことだが、呼吸器内科は膠原病内科より診察時間が前にある。なので結局、次週も膠原病内科で来ることになるのだが。
6月6日、初代愛犬の誕生日。ラジカセが突然、ボンと音を立てて壊れた。今思うと、何か知らせたかったのだろうか?
6月7日、安価なラジカセを買いに行く。私は音楽を聴きながらでないと眠れないのだ。静寂の中にいると、どんどん嫌な妄想に絡め取られていく。だからタイマー付きラジカセは当時、必需品だった。
6月11日、都内の大学病院膠原病内科、母の予約受診。前回と今回の血液と採尿容器検査から、リウマチ因子に問題はないと言われた。偽痛風と診断されたなら、痛み止めを処方するとのことで、薬がまた増えた。
6月12日、地元の大学病院消化器内科と皮膚科、父の予約受診。消化器内科主治医に、在宅医療の目処がついたことを伝える。
6月21日、アルコール依存症取り扱い専門病院を兄が受診。
6月26日、地元の大学病院脳神経外科を、兄が予約受診。
6月28日、糖尿病クリニックを父が予約受診。その際に、在宅医療のことを話し、今後はそちらで糖尿病を診てもらうことになることを伝える。
6月29日、透析クリニック医師と面談。この席でデイサービスを考えるなら、家庭の事情もあるし、小規模多機能型居宅介護を勧められる。そしてこれから様々な先生から異口同音で伝えられる言葉を、最初にかけられた。
「介護や看取りに、正解はありません。どんな道を選んでも必ず後悔する。それを心に留めて、決して自分を責めないでください」
…本当にその通りでした。何を選んでも、結局は正解が見つかりませんでした。悔いばかりが残りました。あのときは無我夢中でした。でも終わった直後、私は後悔の波に飲まれて自分を見失いました。
壊れる寸前で引き止めてくれたのは、いつも支えてくれた親友たちでした。
1
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
あなたの隣で愛を囁く
ハゼミ
エッセイ・ノンフィクション
ある日、夫が腸穿孔を起こし緊急入院してしまった。
しかしそれはこれから起こる事の序盤でしかなかった。
命の危機に見舞われる夫と、何もできないもどかしさを感じながらも、奮闘する妻のお話。
校外学習の帰りに渋滞に巻き込まれた女子高生たちが小さな公園のトイレをみんなで使う話
赤髪命
大衆娯楽
少し田舎の土地にある女子校、華水黄杏女学園の1年生のあるクラスの乗ったバスが校外学習の帰りに渋滞に巻き込まれてしまい、急遽トイレ休憩のために立ち寄った小さな公園のトイレでクラスの女子がトイレを済ませる話です(分かりにくくてすみません。詳しくは本文を読んで下さい)
2025年何かが起こる!?~予言/伝承/自動書記/社会問題等を取り上げ紹介~
ゆっち
エッセイ・ノンフィクション
2025年に纏わるさまざまな都市伝説、予言、社会問題などを考察を加えて紹介します。
【予言系】
・私が見た未来
・ホピ族の予言
・日月神示の預言
・インド占星術の予言
など
【経済・社会的課題】
・2025年問題
・2025年の崖
・海外展開行動計画2025
など
【災害予測】
・大規模太陽フレア
・南海トラフ巨大地震
など
※運営様にカテゴリーや内容について確認して頂きました所、内容に関して特に問題はないが、カテゴリーが違うとの事のでホラー・ミステリーから「エッセイ・ノンフィクション」へカテゴリー変更しました。
私が体験したスピリチュアルを日記にしました
”kataware片割れ”×2
エッセイ・ノンフィクション
小さい頃から生きづらさを感じて彷徨い続けたわたし
もがけばもがくほど
どん底に落ちていった
本当に本当に苦しくて、もうダメだ、と思ったとき
密教の呪術を駆使して多くの人を救っていた和尚に出会った
目の前で繰り広げられる密教の加持祈祷。護摩壇に燃える聖なる炎、唱える真言、結ばれる印。私の中の何かが目覚め、やがて私を取り巻く宇宙を動かし始めた。多くの人が救われたように、私もそのパワーによって救われた
それからの私は、和尚のもとに通い詰めた。そのたびにいろいろなことを教わった。見えない世界で起きている本当のこと、この世界のすぐ上にある幽界や霊界のこと、人の生き死にや輪廻転生、前世やカルマについて、などなど。数えあげたらきりがない。
そしてまた、人生の第二幕ともいうべき遭遇。。。目の前に現れた光の存在
このときの私は光側ではなく闇側の世界を探求していた。そして自分の能力を超えて奥深くまで入りすぎてしまったため大きな憑依を受けてしまったのだ。いつもなら和尚に助けてもらうのだが、和尚はインドで修行中だった、それも半年も・・・、私は死にかけた。3か月で9㎏も痩せた。最後には水も飲めなくなった。それでも毎晩のように襲ってくる、何か、はまったく容赦してくれなかった。
もうダメだ、もう限界かもしれない
そう思ったとき今度は目の前に救世主が降りてきた
「あなたさあー
さすがに今回はマズいでしょ
このままじゃ死んじゃうわよ」
まぶしいほどの光に包まれて降りてきたのは「シュアクリーナ」という美しい女性だった。彼女は私の魂の片割れ、光のツインレイでもあるそうだ
突然の出来事に私の頭は混乱したが、そんな私をよそ目に
「あなたは3000年前のインドにいたときも同じような状態になり死にかけたのよ。そのときも私があなたを助けたのだけど......覚えて......ない......よね」
3000年前のインドって?
なんですかそれ!!!
こんな体験が繰り返された私の物語をお伝えしたくなりました。
ーーーーーーーーーー
私は自分自身に起きた嘘のような本当の話を日記に書きとめてきました。その日記を紐解きながら、改めて整理してまとめてみました。これも何かのご縁だと思います。読んでくださるあなたの人生に少しでも役立つことを願っています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる