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第四章 通院と入院

月下美人

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1.通院
 今年の悪さを払うため、近隣の寺社仏閣の有名どころ3か所をを巡った。自分を少し解放したかったのと、母が意外と家の中で動けたこともある。
 私は特に、京都の神社が好きだった。奈良はお寺の仏像に魅了された。年に一度、京都奈良へ旅行するとネガティブが消えて調子を取り戻した。
 旅行が叶わなくなってから、神奈川や東京の有名寺社巡りを、絶望的な気持ちを抱えると、参拝に出かけるようになった。お参りすると気が晴れる。
 なにより、参道の店をのぞくいたり、参道休憩のランチやスイーツが楽しみだった。

 2013年10月6日、母の都内の大学病院退院後、天敵先生のもとを受診した。
 膠原病内科の通院は引き続き都内の大学病院で行なうが、普通の内科的診察は天敵先生のお世話になることになっていた。
 都内の大学病院からの情報提供書を持参して持っていくと、「顕微鏡的多発血管炎なんて、初めて聞きました」と天敵先生が言う。私が手持ちの本と、新聞にたまたま特集されていた新しい病気という切り抜きを持っていたので見せると「コピーさせてください」と言われたので貸した。
 いや、普通に本を購入してください。

 11月12日、都内の大学病院に母、入院。容体が悪化したわけではなく、エンドキサンという免疫抑制点滴を行なうためだった。年内は月に一度、このエンドキサン点滴を行なうことになっていた。
 入院手続きをして、通い慣れた病棟へ。前回の退院から間もないので、病棟看護師の説明は省略。母の寝巻き着替え後、検査リストを渡されて、心電図とレントゲンと採血と採尿に連れて行くよう病棟看護師の指示があった。ぐっ…まあ今回は一泊二日の短期入院だし。
 11月13日、都内の大学病院へ母を迎えに行く。またしても電車で気分が悪くなり、途中下車。
 エンドキサン点滴を終えて、帰りに母が「とんかつ食べたい」というので、地元で食べる。入院生活長かったからという母の言い訳。「そうだよね、脂っこいもの食べたくなるよね」と言いたいところだが、スケジュール帳には5日に天ぷら揚げてるし、8日には補聴器の調整帰りに天ざるそばとクリームソーダという、食べ合わせがお腹に直結しそうなものを食べていることが記載されていた。これ、絶対に糖尿病主治医に怒られる案件だな。
 実は前回の入院中から、母の血糖値が規定値を越えたため、インスリン注射が始まったのだ。もともと糖尿病予備軍だったが、ステロイドパルスや治療の服薬ステロイド量が多いための副作用で、血糖値が一気に上がった。服薬ステロイドは、徐々に下げていくことになっている。一気に量を減らすと、病状が再発する恐れがあったのだ。このエンドキサン点滴は免疫抑制効果があり、ステロイド量を少しでも減らすための処置だった。

 11月18日、天敵先生クリニックで、母が咳喘息の点滴。「もっと気をつけなさいと」と、私は先生から怒られたが、風呂上がりに布団を蹴飛ばして爆睡していた母には、何も言わないのね。
 翌日にも咳喘息点滴を受けて症状が治まり、やれやれと思ったが、またしても目を離した隙に、昼寝で何も掛けず寝ていた。都内と比べて、ど田舎の我が家は寒い。昼間はともかく、明け方は霜が降りる気温にまで下がっていた。

 11月29日。都内の大学病院膠原病内科と内分泌内科、母の受診。採血と採尿は診察前に事前に済ませた。内分泌内科の医師は病棟のときと同じだったが、膠原病内科の外来医師は病棟医と違っていたので緊張した。
 略歴を見ると教授だったので、偉い人なのだと驚いた。だが母はもちろん、私への対応も親切だった。この対応、天敵先生にも見習ってほしいなと思った。
 ちなみにこの日は昼間に病院近くの蕎麦屋へ、帰りの地元では処方箋薬を待つ間、母が「お寿司食べたい」というので、時間つぶしも兼ねて駅ビルレストラン街で食べる。薬が多く、量も多いから一包化してもらうため、処方には1時間以上待つ必要があった。
 最初は都内の大学病院近くの処方箋薬局を訪ねた。沢山薬局があるから早いかと思いきや、4時間待ちと知らされて仰天し、結局地元の大きな駅前処方箋薬局でお願いした。天敵先生クリニック近くの薬局は小さいため、特殊な薬は取り寄せとなってしまう。だがステロイド薬は特に、1日たりとも欠かしてはならないと、膠原病医師から厳重に言い渡されていた。効果が100から、一気に0になって、治療が最初からやり直しになってしまうからだった。

 12月1日、母が狭心症発作を起こす。ニトロ薬を舌の下に置いてゆっくり溶かし、発作は治まった。この日は氷点下だった。

 父を地元の大学病院定期受診や母を天敵先生クリニックに連れていきがてら、今月のエンドキサン点滴入院日が始まる。今回は少し長めの6日間となるが、これは予定通りだった。精密検査が予定に組み込まれていたからである。

 12月13日、母を都内の大学病院へ入院させる。今回はいつもの病棟階ではなかったが、これは膠原病内科専用病棟のベッドに空きがなかった処置だった。
 昼食用の病院食がなかったので、仕方なく展望レストランを利用する。景色は相変わらず見てて飽きないが、お値段はハイクラスだ。しかし検査の合間なので、外へ食べに行くのは許されていなかった。まあ、病棟内のコンビニで買ってくる選択肢もあったのだが、母が「これからずっと病院食だから、イイトコで食べたい」と希望したのだ。
 12年15日、都内の大学病院へ、母の面会兼着替えの持ち帰り。
 12月16日、母から電話があって、いつもの膠原病内科病棟に移ったとのこと。病室も教えられた。
 12月17日、都内の大学病院、母の面会。この日はエンドキサン点滴もあった。
 帰宅すると、父が保温用器に入れた鍋を、保温用器ごと火にかけて一部を溶かして、私は顔を青くする。これは東日本大震災計画停電用に、地元で売り切れだったので、近隣の市までわざわざ探しに行って重宝していた保温効果抜群の鍋だった。だから本来、火にかけずとも、温かく食べることが出来たし、何度も母の入院面会中にも父に使わせていたはずなのだが。
 当人は、読書に夢中で先の内容が気になりつつ、ついボーっとして火にかけてしまったと謝罪した。ちょっと溶けただけで使用は可能なので、ま、いっかと流した。
 12月18日、母、都内の大学病院を退院。朝10時に退院出来るはずが、薬剤師のミスで足り無い薬があり(薬の説明途中に病棟薬剤師が気づいた)、薬の補充完了まで待つことに。病院を出たのは正午になっていた。母は少し長めの入院で油ものに飢えていたため、地元でトンカツ定食を食べることになった。
 本当はこの日、祖父の命日だったが、20日に私だけで行くことになった。父も行く予定だったが、雨で取りやめにしたのだ。雨は一時雪となり、滑りやすい急勾配の階段を上り下りしなくてはならなので、同行させなくて正解だった。

 クリスマス直前の休みには、友人たちと恒例のクリスマス会を横浜で行った。やはり横浜のクリスマスイルミネーションは見ごたえがあった。
 例年はかなり余裕をもって年賀状を作成するが、今年はギリギリ12月25日にやっと終わらせた。自分の分だけならすぐ終わるが、両親の分も丸投げされているので、時間がかかるのだ。画像からパソコンで作り上げて、喪中の人を省き続き住所を印刷する。本当にこの作業、私の分だけならともかく、顔も知らない両親の知人のために作るのは疲れる。だが、それまでは母がずっと手書きで百枚近く書いていたというのだから、はるかにマシだろう。百枚近くも手書き、拷問だ。そりゃ、年末を母が嫌っていたわけだ。

 12月30日、父と恒例の近隣最大デパートへ、正月用品を買いに出向く。地元のデパートでもそれなりに揃うが、父の目当ては樽から瓶に入れた白濁酒。
 数年前、本来は別の地酒を求めて訪れたとき、たまたまやっていた試飲会で飲んでハマったのだ。冬季限定だが、幻という程ではないものの、管理されて運ばれた樽の白濁酒の味は格別だった。この地区最大駅周辺では、年末になると様々な場所で、各種の地酒の試飲会を行われている。父はソレが目当だったが、自分から取りに行くのは恥ずかしいと(乙女か?)、私が2人分貰ってきた。私も量はそれほどでもないが、酒は好きなので試飲の飲み歩きは楽しかった。

2.新たなる試練
 年が明けて2014年になった。正月三が日に、クリスマス会のメンバーで初詣に出かけた。他の友人ともランチに出かけた。久々に穏やかな気持でいられた。

 1月14日、都内の大学病院膠原病内科、母が受診。朝早い診察予約を入れていたが、外来主治医は丁寧な診察をするため、時間がかかる。終わったのは正午を過ぎていた。帰りに東京駅で寿司を食べたいという母。仕方なく寿司屋へ連れて行くと「値段の割に美味しくないわねー、地元の寿司屋のが美味しいわ」と、母。
 じゃ今度から、地元に戻るまで我慢していてくれ。その方が都心値段より格安で済む。
 1月17日、都心の大学病院の糖尿病内科を受診。一度で済まないのは、担当医が固定されているため、その担当医が外来診察する日でないと駄目なのだ。膠原病内科は火曜日、糖尿病内科は金曜日に固定されていた。だが採血と尿検査に関しては、同週の診察の場合は一度に取ってしまうため、この日の採血と尿検査はなかった。
 週に2度の受診は母には負担だったため、この日は処方箋薬局には寄らず、糖尿病内科の処方薬は翌日、駅前薬局まで私が取りに行った。一人だったので、自分のペースで本屋巡りをしてストレス解消をした。

 1月20日、都内の大学病院にエンドキサン点滴のため、母は一泊二日の入院。
 1月21日、退院前に医師の説明を受ける。母の膠原病による間質性肺炎は、今回のCT検査でほぼ良くなっているとのこと。いや、良くなっていると言う言い方はおかしいな。間質性肺炎は普通の肺炎と違って、いったん壊れた組織は回復しない。右肺の下に白いモヤモヤが2箇所あった。だから進行が止まったと言う言い方の方が正しい。
 ステロイド(プレドニン)の量も10ミリグラムから9ミリグラムに下げられた。最終的に5ミリグラムまで落としてキープすることになるが、今後順調ならば、通院が半年に1回になるかもしれないというのは朗報だった。
 エンドキサン点滴も、これで最後。何事もなければ、今後は入院生活とはオサラバだ。
 退院後、地元のレストラン街で恒例のトンカツ定食を食べた。「病院食のあとは無性に油物が食べたくて」という母。いや、入院じゃなくても、かなりの頻度で揚げ物食べてる思うけど?
 とりあえず今年は、新年からいいスタートがきれたと思った。

 2月は大雪が降った。近隣の人達と総出で雪かきをした。雪かきの出来ない老夫妻宅の前も雪かきしたら、その小母さんが皆に甘酒を振る舞ってくれた。この年は雪が多かった。
 2月8日の次に、また2月14日の積雪があった。前回と同量の雪に、再びご近所共同の雪かき部隊出動。14日の大雪では、山梨県甲府市の積雪が98センチと発表された。ご近所でも駐車場が潰れた家がいくつかあった。都内の大学病院の往復に使う駅前バス停の屋根が崩れて撤去するまで使えなくなったり、市街地でもアーケードが潰れるなどの被害が多発した。その時期に都内の大学病院の通院がなくて、本当に助かった。
 母を天敵先生クリニックに連れて行くのも、徒歩3分とはいえ、細心の注意を払わねばならなかった。日向の雪かきした場所は乾いてきているが、日陰は薄く氷が張って昼間でも滑るからだ。

 2月25日、都内の大学病院の膠原病内科、母が受診。いつも通り。

 3月5日、父の地元の大学病院の内分泌内科定期受診。風邪気味ということで、風邪薬も処方してもらえた。
 3月12日、両親を天敵先生クリニックに連れて行く。母は定期受診、父は風邪が治りきらなかったからだ。

 3月18日、都内の大学病院膠原病内科、母の定期受診。

 翌日19日、天敵先生から前回の採血で父の血液検査の結果が悪いため、紹介状を出すから地元の大学病院の腎臓内科を受診するよう言われる。父の体の異変のゴングが鳴った。

 3月20日、母を都内の大学病院へ精密検査のため連れて行く。病院内のMRIは満杯なので、提携契約している病院から徒歩数分のMRI施設に向かう。

 3月24日、電話予約していた地元の大学病院の腎臓内科へ、天敵先生クリニックの紹介状を持って受診する。
 まだ細かい検査結果は出ないが、腎臓病の診断は下った。

 3月27日、単なる風邪かと思われていたが、前回の検査で異変が見つかり、都内の大学病院に母は入院した。
 膠原病病棟であるが、病気はクリプトコッカス肺炎という、鳥の持つウイルスから感染する肺炎。一般人は抵抗力があるが、母は免疫暴走を抑えるステロイドを服薬していたので、感染した。ウチで鳥は飼っていない。だが帰路にたまに使う始発駅バスロータリーの屋根には、多くの鳩が住み着いていた。
 いつも通り寝巻きに着替えて、血液検査、尿検査、心電図、レントゲン。病棟に戻ると、追加で動脈採血が行われた。太もも2箇所、腕2箇所。これが物凄く痛かったらしい。そして時間も普通の採血とちがって、トータル40分以上かかった。

 3月29日、友人たちと都内でランチ。その後、私だけ抜けて母の面会へ。母の夕食の完食を見届けてから、帰宅した。

 3月31日、地元の大学病院の腎臓内科へ父の予約受診。レントゲンと採血。

 色々ありすぎて、もう私も精神的に限界だった。4月はじめ、以前通っていた精神科クリニックを受診しようとしたが、以前の主治医でないと基本的に診察は駄目だと言われた。いや、以前の主治医と顔を合わせるのが気まずいから、別の先生にかかろうかなと、あえて主治医外来担当医の曜日を外したのだけどね。別のクリニックも視野に入れていたけれど、交通の便が一番良いので、元のクリニックを受診することにした。
 しばらく行かない間に、システムが変わったのか、予約制の青春外来というのが新たにできていた。カウンセリングがない場合、一般患者は予約なしの外来。私は青春には程遠い年齢だが、この青春外来担当医が私の前の主治医だったため、次週、詳しく聞くからと予約が入れられたのだ。そして翌週、若者たちが待つ待合室に肩みの狭い思いをして予約時間を待つ。「こんなことなら、素直に元主治医の担当曜日に受診すれば良かった」と後悔した。まあ詳しく内容を聞かれて、以前の頓服薬が処方されたのは助かったけど。

 4月2日、都内の大学病院面会。大学病院とは、救命患者の命綱でもあるが、将来の名医を育てる研修場所でもある。母の骨髄液を抜こうとしたのは、研修医から昇格したばかりの可愛い女性医師。だが何度刺しても骨髄液が抜けず、母担当の病棟主治医が結局は抜いた。
「若い医師の時は死ぬほど痛かった、主治医の先生はスッと抜いてくれて、さほどではなかったと」
 母は愚痴った。行われたのは3月31日だった。蛇足だが、動脈血管採血も、同じ可愛い女性医師だった。 
 4月4日、都内の大学病院、母の面会。
 4月6日、都内の大学病院、母の面会。この日は面会時間前に、皇居の桜通り抜けに友人ちと行ってきた。日曜ということもあり、朝から行列が凄かった。厳重に荷物チェックされて、いざ門をくぐる。「ここが皇居なのねー」と、ちょっと感激した。あの待ち時間さえなければ、皇后様ファンの母を連れてきたかった。
 4月9日、都内の大学病院へ。母の面会もあったが、呼吸器内科の医師との面談も入っていた。
 4月12日、都内の大学病院、母の面会。
 4月15日、都内の大学病院を母は退院した。

 4月22日。都内の大学病院膠原病内科の受診に加えて、呼吸器内科の受診も始まった。そしてこの日の採血は、採血室でなく、膠原病内科の待機室。具合の悪い人を寝かせるためのベッドがあった。ここで医師が血液検査用の採血と共に、研究用のサンプル血液、小さな試験管7本分を抜いた。
 母は「こんなに血を抜かれたら、トンカツ食べなきゃ、やってられない!」というので、地元の駅ビルレストラン街でいつものトンカツを食べた。
 ここのとんかつ屋、ソースも美味しいが、別途追加料金を支払っての、大根おろし醤油をつけて食べると、更に美味しかった。私はとんかつの三分の二を大根おろしで、残りはソースで食べた。しかし母は、「大根おろしは、このままのが美味しい」と、とんかつにつけず、醤油をかけてそのまま食べる。いいけどね、好きなように食べても、胃の中では一緒なんだし。

 4月22日20時、いきなり停電した。周辺市町村も、巻き込む変電所トラブルだった。真夏ならやってられないが、春だし、灯油ストーブもあるので問題ない。と言いたいところだが、母は暗闇が嫌いだ。東日本大震災の計画停電のときに活躍したロウソクを出して灯した。当時が懐かしく感じられた。停電は1時間程度で終わった。

 4月30日、都内大学病院で母の肺の状態確認のため、CT検査。田舎者には朝8時40分検査開始はなかなか辛い。家を7時前に出なきゃならないからだ。採血と採尿も行い、この日は診察もなく帰された。

 この年は、大幅に植物の植え替えが、ずれ込んだ。月下美人の植え替えがゴールデンウイークまでずれ込むとは。バラは根を軽くほぐす程度にして植え替えた。いつもは3月までに、バラは古い土を全部落とし、細かい根を切り戻してから植え替えるが、既に蕾が出来ていたのでこの程度にとどめた。
 5月13日。都内大学病院呼吸器内科、母が受診。予約時間がいつもと違って午前中だったので、家を出るのも早かった。前回の検査結果の内容説明である。クリプトコッカス肺炎は、ほぼ治まった。

 翌週、狂犬病予防注射を予約する。3代目愛犬は意外とおとなしく竹槍注射に刺された。この犬の偉かったところは、初代と2代目が獣医を嫌がってズルズルひきずるか、抱きあげて運ぶかしなければならなかったが、3代目は注射を打たれるのに勘付いていても、拒否柴をしないことだった。
 そして終わると、カウンターて前足を乗せて、獣医に尻尾を振っている。「おまえ、家族には省エネのチョロっチョロっしか振らないのに」、私がぼやくと、獣医は笑っていた。
 祖父の月命日前日に、父と墓参に出かけた。陽気はいいを通り越して、むしろ暑い夏日だった。さてお墓を掃除をしようとしたら、線香を網の上で横置きするタイプの長方形の石の線香入れの穴の中で、大型のアシナガバチが巣を作っていた。気づかず手を入れてたら、刺されるところだった。さっそく、霊園管理事務所に電話をかけて、蜂を駆除してもらった。
 翌週、副鼻腔炎が悪化して酷い激痛が鼻を襲った。耳鼻科に行ったら副鼻腔炎も悪化しているが、扁桃腺も真っ赤だと言われた。発熱がなく、飲料水の飲み込みにくいとは思っていたけど、扁桃腺も腫れていたか。
 さすがに状態が悪くて、5月26日の父の地元の大学病院腎臓内科への付き添いは出来なかった。私が付き添いを始めるまでは、1人で通院していたから問題ない。ちなみに以前通っていた個人病院から、地元の大学病院へ転院したのだ。持病の糖尿病に加えて、甲状腺機能低下症を患ったからだ。それと2005年当時、母を消化器専門病院に紹介してくれた老院長先生は亡くなったらしい。

 翌日、ロキソニンを飲んで、母の都内の大学病院の付き添いは同行した。体はとてもキツかった。今回は副鼻腔炎症状がいつもより長引いた。

 6月4日、地元の大学病院内分泌内科、父の付き添い。特に変化なし。

 6月6日、都内大学病院内分泌内科、母が受診。この日は大雨が降ったとスケジュール帳には書かれている。
 この頃から内分泌内科のときは、余裕を持った処方がされるので、薬を翌日に取りに行くようにしていた。翌日も記録的な大雨だったと記載されている。通行止めや避難勧告も出ていたというが、近年は豪雨が多いため、当時の記憶は曖昧だ。翌週も一旦は晴れてもゲリラ豪雨が続いていたと、メモに残っていた。
 いつのときのゲリラ豪雨だったか、雷の激しい中で始発バス停から乗車して、2つ目のバス停辺りで豪雨となった。さらにバス停5つほど通過した時には、道路は冠水して、水しぶきを上げながらバスは走る。そして自宅間近のバス停に着いたときには快晴だった。道には冠水跡があり、母が「こっちは雹が降ったよ」と教えてくれた。 

 6月24日、都内大学病院膠原病内科と呼吸器内科、母の診察。スケジュール帳見て、あーこの日だったのかと記憶に残ることがあった。
 それまで、運良く電車が止まることはなかった。だが行きの電車異動途中で人身事故があり、JR中野駅で下車して、大手町から地下鉄を使い、予約より30分遅れたのだ。
 膠原病内科は待たされるのが常だったが、呼吸器内科はすぐに呼ばれていたため、先生に平謝りしたのを思い出した。そしてこの日は朝の人身事故以外にもJRは色々とあって、帰路は始発にも関わらずホームに人がいっぱいで、何とか電車に乗れた。そして、母は親切な方に席を譲っていただき、とても感謝したことを覚えている。
 この日は処方箋薬局に立ち寄る余裕がなかったのと、冬の大雪のとき予約日に行けないのことも想定して、大雪の後の受診で1週間分多めに処方してもらっていた。おかげで母を待たせず帰宅するのが可能となった。  
 翌日も薬を取りに行った帰り、電車が人身事故に巻き込まれた。途中下車して、少し歩くバス停まで移動しようかと思ったら、近くの小母さんが「すぐ動くから大丈夫」と行ってくれた。15分後には折り返し運転が始まって、私は本数の少ないバスにギリギリ間に合った。

 7月4日、都内大学病院内分泌内科。
 この頃のスケジュール帳で面白いのは、ワールドカップの勝敗が書かれており、「面白い」、「つまらない」とコメントがついていた。そういえば夢中だったわ、当時のワールドカップ。決勝トーナメントは放映されているゲームで、好きなチームは時差も構わず、欠かさず見ていた。
 このときは珍しく、7月に月下美人が咲いたと、書いてある。珍しいことがあったんだね、その年は。7月26日には関東で422人、全国で1800人以上が熱中書で倒れたと書かれていた。

 7月30日、父が朝食前に気持ちが悪いと言い出す。熱中症疑いと書かれていた。冷たいココアを飲ませ、昼はおかゆ、夕食はおでん半分と書かれていた。過去の私、7月にオデンなんてよく作る気になったものだ。翌日からは父の食欲も通常に戻ったと書かれていた。

 8月5日、都内の大学病院の膠原病内科と呼吸器内科、母の受診。いつもの採血、採尿、レントゲンの他に、この日はCT検査もしたようだ。だから、膠原病内科の主治医からの注意書きがズラズラ書かれているのだろう。けっこー毒舌だ。
「まず体重を毎日計ること。脂肪肝が進行してフォアグラ状態になっている。脂肪肝は進行すると、疲れやすく、体もだるくなり、食欲がなくなる。とにかく2割食事を減らせば、2週間で好転する。但し、タンパク質、ビタミンとミネラルは意識してとる。そして暑さを避けながら、週3回は30分以上歩く。糖質と脂質も多い」
 …ごもっとも。これからはとんかつのを控えるべきだなとコメント付き。この日の気温は37度と記載。暑さで余計に苛立っていたのかも?
 8月8日、都内の大学病院の内分泌内科、母の受診。

 8月25日、天敵先生クリニック受診。そして都内の大学病院宛に、循環器内科の紹介状を書いた。帰宅後、電話予約で9月5日9時予約と、スケジュール帳に記載されている。

 9月1日、地元の大学病院腎臓内科、父の受診。ようやく父の診断名が出た「ネフローゼ症候群」。名前は可愛いが、腎機能を弱らせて、最終的には腎不全となる。こうなると延命の手段はただ1つ、人工透析しかない。
 9月3日には地元の大学病院、父が内分泌内科受診。

 9月5日、都内の大学病院で循環器内科の紹介状を持って、母の受診。このとき内分泌内科も入っていたが、確か別の週だったのをこの日に合わせてくれた気がする。
 9月12日、心臓の造影剤CT検査と超音波検査。朝食が禁止だったので、ステロイド服薬は検査終了後服薬、内分泌内科は朝のインスリン注射なしと、記録されている。

 10月3日、都内の大学病院循環器内科で、母が超音波検査を受ける。循環器内科での検査は朝早いため、朝食を食べている暇が無い。
 院内の大手コーヒーチェーン店のハニートーストとコーヒーで、母は検査後に朝食をとっていた。帰りは地元レストラン街でお寿司を食べた。
 
 10月7日、都内の大学病院の膠原病内科と呼吸器内科の、受診を受ける。
 懸念していた台風は前日に過ぎ去った。この年の秋は台風が多かったのか、植木鉢を倉庫に避難させた、外へ出したが連続で書かれている。

 10月16日、保健所に父のネフローゼ症候群の申請書を出す。そして母の難病保険証更新と記載が。ネフローゼ症候群で何か援助あったっけか?

 11月7日、都内のだちの、母の循環器内科受診。

 翌日には去年できなかった分、花壇やプランターに花を植え付けた。

 11月10日、地元大学の病院腎臓内科、父の受診。
 11月13日、地元の大学病院内分泌内科、父の受診。父は貧血症状が出始め、左足首に浮腫み。内分泌内科で便秘薬が追加処方される。
 
 11月14日。都内大学病院内分泌内科、母の受診。入院10日を提示されるも、母が嫌がったため、とりあえずインスリン量を単位50を、朝と昼と夜で様子を見ることに。

 11月17日、母の天敵先生クリニック定期外来、  
 11月18日、父の市の健康診断を天敵先生クリニックで行なう。
 11月21日、父が天敵先生クリニックで肺炎球菌ワクチン接種。この週は天敵先生クリニック通院ばっかだったようだ。

 11月25日、都内の大学病院、母の膠原病内科と呼吸器内科受診。この日は呼吸器内科は普通だったものの、膠原病内科の時間は押していて、予約15時半が17時半を過ぎていた。
 先生は「昼も食べてないし、トイレ行く暇もない」と泣き言を言っていた。まあ、患者のコッチも待ち疲れたけど、先生のゲッソリした顔にはつい同情してしまった。この日は私ら以降の患者は、いつもの会計が間に合わず(会計窓口18時終了)、一階の救急出入り口でお金を支払って外へ出た。

 12月9日、都内の大学病院循環器内科と内分泌内科、母の受診。この日は採血と採尿後、合間に内分泌内科へ確認を取ってから、院内の大手コーヒーチェーン店へ。母はサンドウィッチとキャラメルコーヒーを飲んだ。ほぼ夕方に地元駅ビル到着。馴染の蕎麦屋で天ざる蕎麦の遅い昼食、いや早めの夕食だっただろうか?

 翌日10日、両親のインフルエンザ予防接種。私はインフルエンザ予防接種で蕁麻疹を出したことがあるので、打てない。

 この年の友人たち恒例のクリスマス会は、14日に行われた。
 16日には、携帯会社からの勧めで携帯電話からスマートフォンに変える。これまで気楽にポケットに入れて持ち運んでいたので、慣れるまで不便だった。たまたまショップで合皮のウエストポーチを購入し、それに入れて持ち歩く。いつ何が起こるか分からないので、携帯電話に続きスマートフォンを持ち歩かないと落ち着かなかった。
 この年の祖父の命日は、父と墓参。帰りに駅まで出て、大手コーヒーチェーン店で食事する。父は駅近くの本屋に寄りたかったのだ。
 その年のクリスマスは兄が仕事で休めなかったので、22日にケンタッキークリスマスをした。

 12月24日、クリスマスイブに、なにが楽しくて天敵先生の母の定期受診。今となっては懐かしいが、循環器の薬で口論。
 そして夕方に先生から連絡を受けたという薬剤とも口論して、「なんてクリスマスイブだ」とか書かれている。だが今思い返すと、そんな口論あったっけ?、というのが感想。天敵先生よりはるかにタチの悪い医師が、後年にに登場し、その記憶が脳にこびりついているのも原因。
 いい加減この嫌な記憶は、焦げ取り洗剤ぶちまけて、タワシで擦って削げ落としたい。

 この年の年末も、父と近隣の最大の駅に出向いて、酒の試飲をしつつ、正月料理と酒を購入している。この後のスケジュール帳の先を読むのは切ない。
 …まだこの頃は、父も元気で食欲があり、行動的だったんだなと、思い出す。
 年末は恒例の正月の煮物作りと、夜は蕎麦の付け合せの天ぷらを揚げる。父は蕎麦は遅い時間がいいと、揚げたて天ぷらを肴にお酒を楽しんでいた。母は揚げ終えるのを待とうとしていたが、「温かいうちに食べて。こっちもつまみ食いしてるから」というと、揚げたて天ぷらに舌鼓をうった。兄もテレビを見ながら天ぷらを遠慮なく食べている。これまで当たり前だった光景が、もうすぐ終わる。あのときはそんなこと、思いもしなかった。

3.年度末狂騒曲
 正月は初詣から、友人たちとの始まった。今年こそ平穏無事でいられよう、神様にお願いする。

 1月9日、都内の大学病院内分泌内科、母の受診。

 1月11日、地元のどんと焼きに、お飾りを母と3代目愛犬と共に会場へ持っていく。役員が年末に刈り取って乾かしていた孟宗竹の先端に、だるまを差していた。

 1月20日、都内の大学病院膠原病内科と呼吸器内科、母の受診。リウマチ因子をしめす血液検査のANCAが上がり始めているので、要注意とのこと。変化があったら直ちに病院に電話して、膠原病診察に来るように云われる。また、クリプトコッカス細菌予防のためのフルコナゾールという薬は、肝臓を悪化させるため使用をやめた。

 その間にも両親の天敵先生クリニックや眼科の受診などの付き添いをこなしていた。

 2月3日、都内の大学病院循環器内科に、母が受診。この日は父の誕生日でもあったため、東京駅からスマホで近所の寿司屋に出前を頼んだ。
 2月13日、都内大学病院内分泌内科、母の受診。帰りの電車は人身事故でダイヤが乱れており、電車は大幅に遅れて地元最寄り駅へ到着した。

 2月16日、地元の大学病院腎臓内科、父の受診。これまで内分泌内科で出されていた薬も、腎臓内科で管理することになった。少しでも腎臓に負担をかけないためだ。その事を次回の内分泌内科で、主治医に話すよう伝言された。
 ふと思うのだが、病院のパソコンで診療情報は共有されていないのかな。早速、血圧の薬を2種類変更した。そして3日連続100を切った場合は、すぐに連絡するよう言われた。 
 翌日の父の血圧は確かに100を割ったがその後は安定したので連絡の必要はなかった。

 2月最終日、私は美容院の予約を入れていた。だが父が風邪を引き、天敵先生クリニックへ連れて行く。美容院の予約時間にはなんとか間に合った。病原菌の元凶は兄だ。マスクをしろといっても言うことを聞かず、クシャミを振りまいている。
 嫌な予感は当たった。母も風邪を引いたのだ。

 3月4日、天敵先生クリニックに母を連れて行く。喘息ということで、気管支喘息用のサクシゾン点滴を行なう。
 一応、都内の大学病院膠原病内科主治医に連絡しておく。
 母は計4日間、点滴のため天敵先生クリニックを来院し、7日には父も再診した。
 両親ともに調子は悪く、父は「俺の血は日本酒でできている」と豪語するほど好きだった酒も飲む気がない。

 3月11日、地元大学病院内分泌内科、父を受診に連れていき、午後は天敵先生クリニックで母の心臓と肺のレントゲンを撮る。

 3月13日、都内の大学病院内分泌内科、母が受診。母は点滴のお陰か回復して、翌日の買い物にも同行した。

 3月17日、都内の大学病院循環器内科、母の診察はこれで終了、天敵先生クリニックにその後の経過観測見守りを頼む診療情報提供書を書いてもらう。
 予約外だが、呼吸内科を受診した。本当は膠原病内科にお願いしたら断られ、看護師が手を回して呼吸器内科医師に許可を得たのだ。採血と心電図を撮る。異常はなさそうとのこと。
 3月24日、都内大学病院膠原病内科と呼吸器内科、母受診日。

 3月30日。着替えの際に母の太ももに発疹を見つける。すぐ天敵先生に予約を入れて、診てもらう。「ウチは皮膚科じゃないんだけど」と言われつつ、帯状疱疹の疑いもあるが、母の場合は膠原病持ちなので断定できない。
 紹介状を書くから、都内の大学病院皮膚科で診てもらいなさいと言われた。
 母は「なんともないから、もう受診を増やすのは嫌だ!」と言い出す。私は、「そんな変な発疹、不気味で放置できないでしょ!」と口論。いつもは口論を仕掛ける側の天敵先生が仲裁に入るという、珍しい事態となった。

 3月31日、都内の大学病院皮膚科、母の受診。前日に電話をしたら、初診は予約不要とのこと。待合室はたいそう混雑しており、かなり待たされるのが予想された。
 だが紹介状と病状を書いた書類を提出してまもなく、別の診察室で研修医が先に状態を診るという。母の太ももを診るなり研修医は、隣で診察している医師を慌てて呼びに行った。ここに連れてくるのに不貞腐れていた母も、不思議な顔をする。医師は母の発疹をみるなり、「帯状疱疹です」と告げた。更に続いた言葉に、私と母は驚く。「酷い状態なので、緊急入院してもらいます」。とんでもないことになった。
 看護師から「帰宅して入院グッズを持ってきてください」と言われたが、自宅往復するお金で、今日の分ぐらいの入院グッズは揃う。私が入院手続きをしている間、母は採尿に回された。戻ると、今度は私に採血、レントゲン、心電図に連れて行くよう頼まれた。まあ入院前のいつものことだ。
 入院が14時過ぎなので、最近、病院近くで見つけたボリュームが有ってリーズナブルなランチを提供するレストランへ向かった。母は好物の海鮮かた焼きそばセットを、私は本日のパスタセットを頼んだ。 
(ステロイド服薬が必要だから、やはり一旦帰宅した方がいいかな?)
 そのため電車酔いしないよう、食事を少し残した。だが病棟の面談の際に看護師に相談すると「病院処方で、改めて出すので問題ありません。連携は取れます」とのことだった。当初、地元の大学病院の名医に受診お願いしよかとの選択肢も考えたが、こういう結果になるのなら、やはり現在かかりつけの都内の大学病院に連れてきて良かったと思う。 
 当初、大部屋を希望した。しかし帯状疱疹が広がっているということで、個室に入れられることになった。個室料金10800円。だが他所の患者さんを感染させるわけにはいかないので、症状が落ち着いたら大部屋移動の約束を取り付けて、母を個室入院に。
 特別室とまでいかないが、広い部屋に個人用のトイレや流し台もある。冷蔵庫、テレビは使いたい放題。母はテレビが好きなだけ見れるのをとても喜んだ。購買で買った寝巻きに着替えて、まもなく、点滴がスタートした。
 翌日4月1日。足りない荷物と薬を持って、面会に行く。「個室最高」と上機嫌な母に対し、私は1日で消えていくお金が頭を過る。順調なら1週間で退院だそうだ。お金の心配より早く、母は4月2日には大場屋に異動となった。
 4月3日、都内の大学病院、大部屋で母と面会。「個室良かったなぁ」と未練を残す母。 
 4月5日、都内の大学病院、母の面会。 
 4月7日午前、都内の大学病院を母は退院した。

 4月10日、都内の大学病院内分泌内科、母が受診。その前に病棟から「インスリン返すの忘れてた」と連絡もあったので、母を内分泌内科外来待合室で待たせて入院していた病棟まで取りに行った。
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