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3 最愛の人や家族との別離

9 旅立ちの時

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 もしかして、あれが父と母と顔を合わす最後の機会だったのかしら?

 マルティナがそう気づいたのは、貴族院での伯爵家に関する話し合いから数日経ってからのことだった。

 マルティナの処遇の話の後、まだ話があるからとマルティナだけ先に家に帰された。その後、伯爵家で、父の姿も母の姿も見ていない。

 雇われていた侍女や侍従の数もだいぶ減ったようだ。残っているのは先代から仕える者やその家族だけだった。マルティナをぞんざいに扱っていた者は軒並みいなくなった。伯爵家に忠誠を誓う家令や侍女長は、この邸で働く者達も篩にかけていたのかもしれない。

 あの話し合いの日から、「しばらくゆっくり休みなさい」との叔父の配慮により、マルティナは学園も休んで家に籠っている。

 邸は人が減り、人の気配がない。ただでさえ物のない部屋にいると余計に空虚な感じが漂う。

 家も、部屋も、マルティナも空っぽだ。

 マルティナは侍女達が清掃に入る時間以外は、日がな一日、床に座り込んでソファに寄りかかってぼんやりとして過ごした。ただただ、窓から入る日の光に舞う埃や、床の木目の模様を目で追って過ごした。

◇◇

 「マルティナお嬢様、本日、ボルトン子爵とボルトン子爵令息がいらっしゃいます。こちらに着替えてお待ちください。あと、家から出るのに必要な荷物もまとめてください」
 あれから何日経ったのかわからない。天気のよいある日のこと、家令に声をかけられた。用件だけ告げると、家令は風のように姿を消した。家令が置いて行ったワンピースは、貴族令嬢としては質素だが、マルティナにサイズはちょうどよく、前開きで一人でも着替えれるものだった。

 「処遇が決まったのね……なにを持って行けばいいのかしら?」
 ブラッドリーにもらったメッセージカードと、筆記用具と、櫛、下着の類と一番簡素なワンピースをトランクに詰め込むと準備は完了した。

 しばらくぼんやりしていると、家令が呼びに来たので、客間に向かうと、叔父とマシューがまるでこの家の主のように上座のソファに座っていた。

 「少しは休めたか? その顔だと大して疲れは取れていないか? マルティナ、君の願い通り、君を伯爵家から除籍した。言っておくが、厄介払いしたくてそうしたのではないことは覚えておいてくれ。叔父として、何もできなかったが、今後、君の人生に幸多からんことを願う」

 叔父はやはりいつものように険しい顔をしているが、その目には父や母にはなかった家族の情のようなものがある気がした。隣に座るマシューは俯いていてその表情は伺えない。

 「お迎えが来ました」
 家令から声がかかった。

 「父や母がご迷惑をおかけして申し訳ありません。お手数をおかけしました。今後は叔父様やマシューの手を煩わせないことを誓います。それでは失礼します」
 マルティナは、貴族令嬢として最後になるであろうカーテシーをした。

 「……マルティナ。君は父親と母親に会いたいか? 今後、会うのが難しくなるかもしれない。言い残したことはないか?」
 
 「……もう、言いたいことは全て言えたと思います。薄情かもしれませんが、これが最後の機会だったとしても会いたい気持ちはありません。ただ、もう私に関わらないでほしい。謝罪もなにもいらないけど、もう二度と関わりたくないです。どこか私の知らないところで生きていってほしい。それが正直な思いです。叔父様、最後までお気遣いありがとうございます」

 叔父の顔にも、マルティナにこのことを問うのに逡巡した様子がある。マルティナは正直な気持ちをそのまま告げた。

 人として、家族として冷たいのかもしれない。それでも、父や母や姉と会うことも言葉を交わすことも、したいと思わない。

 もう一度、礼をすると、部屋を後にした。

 家令の後に着いて、玄関から出ると、そこには懐かしい彼がいた。

 「……ブラッドリー……なんで……?」

 相変わらず大柄で、また少し背が伸びたかもしれない。豊かな髪を今日はきっちり後ろになでつけていて、黒のスーツ姿だ。少し頬がこけていて、隈もできているけど、相変わらず精悍な顔立ちに変わりはない。

 「マルティナ、隣国に一緒に行こう」
 ブラッドリーから手を差し出される。マルティナは事態を把握できなくて困惑するばかりで、素直にその手を取れない。後ろを振り向くと、マルティナの見送りに叔父とマシューが玄関から出てきていた。

 「マルティナ、隣国への渡航費用と当面の生活費は彼に預けてある。ただし、一生なにもせずに暮らしていけるほどではない。自分で仕事を見つけて、自分を養っていかなければならない。きっと、過酷な環境で生きて来た君ならできるだろう?」
 叔父は、さっぱりとした顔で言い放った。

 「マルティナ、この国から、この家から出ていきたくないなら、ここにいればいい! 今なら除籍も取り消せる!」
 泣きそうな顔をして叫ぶマシューにマルティナは我に返った。叔父とブラッドリーの間でどんな話し合いがもたれたのかはわからないが、まずはこの家から出ていかなければならない。叔父やマシューの足を引っ張らないためにも。

 「お世話になりました」
 最後に丁寧に礼をすると、結局ブラッドリーの手をとれなかったマルティナの背をそっと押すブラッドリーに誘導されて、マーカス商会の馬車に乗り込む。困惑するマルティナを慮って、ブラッドリーは人一人分の間をあけて、マルティナの隣に座った。

 「まずは、学園に退学の手続きに行くよ」
 久しぶりの挨拶も、この事態の説明もなく、行き先だけを告げられる。

 ブラッドリーはなぜここに現れたの?
 ブラッドリーはエリックの繋がりでオルブライト侯爵からマルティナの世話を押し付けられたのかしら?
 マーカス商会はこの国から撤退するという噂を聞いたけど、お仕事はいいのかしら?
 
 疑問はとめどなく溢れてくるのに、口が乾いて言葉にすることができない。また、期待して、それが違うという事をつきつけられるのが怖い。

 学園に着くまで、ただただ自分の握りしめた手を見つめて馬車に揺られた。

 いつの間にか長期休暇に入っていたようで、学園は閑散としていた。ブラッドリーの後ろに続き、学園長室に向かい、ブラッドリーが叔父から預かってきた退学の書類にマルティナの署名をして、学園長に提出する。
 
 「マルティナ・スコールズさん。今はマルティナさんですね。卒業があと半年という時期に、中途退学になることをとても残念に思います。除籍の件があったので、対外的には無効になりましたが、前期試験、あなたが学年一位でした。提出した論文も見事なものが多く、教師達もあなたの退学を惜しんでいましたよ。そのことは忘れずに、胸を張って生きていってください」
 「ありがたいお言葉、身に余る光栄です。生徒会の皆様に途中で抜けることでご迷惑をおかけしますとお伝えください。お世話になりました」

 あれだけ、取りたかった上位の成績、教師からの評価。それらのものは今のマルティナには何も響かなかった。機械的に会話をして、頭を下げて、退室する。

 馬車寄せまで歩く途中で、中庭の昔のマルティナの指定席でもあるベンチの前を通りかかる。
 「マルティナ、少しだけ話をしないか?」
 ブラッドリーからの提案にマルティナも頷く。馬車に乗る前に、隣国に向かう前に、マルティナもブラッドリーと話がしたかったからだ。はじめて会った時のようにマルティナとブラッドリーの間には人一人分の距離がある。マルティナにはブラッドリーと会えた喜びより、様々な懸念や不安の方が大きかった。

 「ブラッドリーは叔父様に私の世話を押し付けられたの?」

 「そんなことない。むしろ、エリックやリリアンからマルティナの話を聞いていて、マルティナを連れ出すチャンスを狙っていたんだ」
 ブラッドリーの言葉と真剣な目線に心臓が小さく跳ねる。

 「………いいの? ……でも……全部、中途半端で、私も中途半端で、なにもできなかった……なにも変わらなかった……私、だめなまんまで……自分から手を放したのに……一緒に行こうって言うブラッドリーを断ったのは私なのに! ……なのにそんなに都合のいいこと……」

 自分で言葉に出して改めて思う。そう、マルティナの中で一番引っかかっているのはそのことだった。自分でがんばると決意したのに、いろいろアドバイスをもらったのに、結局何も変えられなかったし、運が味方しただけだ。このまま叔父やブラッドリーの好意に甘えてしまってよいのか?

 願わくば、ブラッドリーとの再会は、もっと自分が胸を張れる状態で臨みたかった。今の自分は枯れ果てていて空っぽで、あまりに情けない。

 「本当に何も変えられなかったと思う? 本当に何もしていないと思う?」
 ブラッドリーが優しく問いかける。マルティナは俯いてただ自分の膝のあたりを見つめる。

 「マルティナの父親の上司であるオルブライト侯爵も、叔父であるボルトン子爵も感心していたし、感謝していたよ、マルティナに」

 「えっ? なんで……?」

 「オルブライト侯爵は君の父親の上司として、貴族院の議員の一人として、何を言っても改善の見られない君の父親を財務省や伯爵家当主から外すための瑕疵を探していた。

 しかし、君の父親は、仕事には真面目で横領や情報の横流しなどわかりやすい悪事に手を染めることもない。家や領地のことに関心がないだけで、最低限の書類仕事はしている。

 君の母親も同様に、家庭内で娘や金銭の扱いに問題はあったが、伯爵夫人として外部から糾弾するほどのことはしていない。

 スコールズ伯爵家やその当主について、問題が膠着状態だったんだよ。ボルトン子爵も打つ手がなくて、困っていた。

 そこへマルティナが、リリアンをあの家から出すために奮闘して、母親を刺激してマルティナも男爵家に後妻に出すと言わせた。伯爵家当主として、次代に継ぐことを考えていないのは問題だ。それと長年領地を放置している事実を合わせて貴族院の議員達を動かせたんだ。

 マルティナが事態を動かす突破口になったんだよ。

 マルティナが作った資料も、具体的でスコールズ伯爵家の歪な内情を第三者に知らしめるのに効果的だったみたいだ。君の父親は言葉では説得できなかったかもしれないが、マルティナの資料ですぐに折れたみたいだしね。

 なにがどんな結果になるかなんてわからない。ただ運が良かっただけかもしれない。でも、マルティナが何もしていなかったら、この結果にはなっていないんだよ。それだけは、わかってほしい」

 ブラッドリーが滔々と語る言葉がカラカラに乾いてひび割れていたマルティナの心にゆっくりと染みていく。ブラッドリーの言葉を一つ一つ、噛み締めていく。

 「マルティナ、もう、いいよ。マルティナは十分やりきったよ。言葉を尽くして、家族に尽くして、できることは全部したじゃないか。

 これからは自分の事を一番に考えていこう。なにがしたいのか? なにが自分の幸せなのか? 一緒に隣国に行って、ゆっくり探そう」

 マルティナは俯いていた顔を上げると、今度こそ差し出されたブラッドリーの手をとった。
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